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第三部 異世界剣士と血塗れの聖女
閑話②:凍えるベランダで、二人は
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カズマとシェリィが、二人でファーシャを連れ戻すために移動した後のことだった。
「なあ、デリねーちゃん。あのおっさん、ホントに頼りになるのか?」
周囲を警戒しながらボソッと言うマゥリスに、やはり聞き耳を立てながら、デリカが微笑む。
「あのかたは、とても素敵なかたです。お若くてまっすぐで、そしてなにより、私たち獣人族を『ヒト』と呼んではばかりません。人前であってでもです。私はそのようなかたを、他に知りません」
「それはまあ、分かるけどよ。だからっつって、頼りになるかどうかってのは別の話だろ? ノリの勢いでこんなトコまで来ちゃったけどさ」
おれ、ほんとは下水道でとっとと帰るつもりだったんだ、とマゥリス。
「では、どうしてここまで来られたのですか?」
「だって、ファーシャがあのおっさんについてくって言って聞かねえんだもん。あいつ、口ではカネ、カネって言ってるけどさ。ああ見えてけっこう、義理堅いヤツなんだぜ」
おっちょこちょいなくせに、おれの後ろをついて回るもんだから、いつのまにかスリ仲間になっちまったけどさ、とため息をつくマゥリスに、デリカが首を傾げた。
「マゥリスさんは、ファーシャさんがスリをされるのが不満なのですか?」
「不満に決まってんだろ。どこの誰が、好き好んで妹をスリにするかよ」
「……ご兄妹だったのですか?」
「違うって。分かるだろ、妹分ってやつだよ」
マゥリスによれば、いつのまにかこの貧民街に居ついて、いつのまにかそばにいるようになったらしい。
「たしか、きっかけは腹をグゥグゥ鳴らせてじっとこっちを見てるもんだから、ついメシをくれてやったことだと思うんだけどさ。もう、いつから一緒にいるかなんて忘れちまった。まだ、こーんなちっちゃいころだったと思うけど」
「それからずっと?」
「ああ。あいつ、にいちゃんにいちゃんっていつも後ろついてきてめんどくさかったけど、一人で寝るよりは寒くなかったし、話相手もできてよかったし。あいつ、おっちょこちょいだろ? 話のネタが尽きなくてさ」
そう言って小さく笑ったマゥリスを、デリカは「大切なご家族なのですね」と、少しうらやましげに見つめた。
「私は物心がついてから、ずっと従属者として生きてきました。私のすべては、主人を楽しませるためだけにありました。大切にされていることに違いはなかったのですが……」
「なんだよ、おっさんも言ってたけど、そんな綺麗な毛皮して毛艶もよさそうだし、どうせカネ持ちの家で飼われて、たらふく食ってたんだろ? 幸せじゃねえかよ」
「幸せかと言われたら……」
デリカは、寂しそうに微笑んだ。
「だって、あったかいメシがたらふく食えて、あったかい寝床で寝て、変な輩に絡まれることもなかったんだろ? 十分じゃねえか」
「それは──」
言いかけたデリカの耳がピクリと動く。
「……誰かがこちらに来ます」
「おっさんたち、もう戻ってきたのか?」
「違います、あのおかたの足音ではありません。シェリィさんでもないです」
「……じゃあ敵じゃねえか。隠れるぞ!」
「隠れるって、どうすれば……?」
戸惑うデリカに、「そんなの、どこだっていいだろ!」と、マゥリスは手を引き素早く手近な部屋に駆け込む。
「……しまった、デリねーちゃんの体を隠せる場所まで、考えてなかった」
マゥリスはほぞを噛む。いつもならファーシャと自分の、二人の小さな体を押し込めるような場所があればよかった。ところが今、マゥリスの隣にいるのは、おっさんことカズマよりも背が高く、体は柔らかくとも「ふくよか」なデリカである。いつものように、小さなものの隅に隠れるわけにはいかなかったのだ。
「くそっ、どうする……!」
足音が近づいてくる。通り過ぎてくれればいいが、もし部屋の中に入ってこられたら逃げ場がない。マゥリスは家具の影に身を潜めることができないデリカをどうしたらいいか、必死に考えを巡らせる。
「マゥリスさん、あちらはいかがですか?」
「くそっ……。あいつら、よりにもよってこの部屋で盛り始めることねえだろ」
ベランダの隅に屈んで身を潜めている二人。毒づくマゥリスの息が白い。
「うらやましいです。私は同じようなことを求められても、恋の相手には見られたことがありませんでしたから」
そう言って微笑むデリカの息も白い。彼女の息の方が、より白さが際立っている。
「寒いですね。……お風邪を召してはいけませんから、どうぞこちらへ。温めて差し上げましょう」
デリカはそう言ってマゥリスの手を引くと、自分の膝の上に彼を座らせ、両腕で抱き抱えるように彼を抱きしめる。
「ね、ねーちゃん……」
背中を圧迫する圧倒的なボリュームの柔らかさに、マゥリスはどぎまぎしながら尋ねずにはいられなかった。
「……デリねーちゃんも、あーいうことをしてきたのか?」
「それが、私に求められた『役割』でしたから」
寂しそうに微笑むデリカ。
「幼かった頃は、着せ替えのお人形になっていればそれでよかったのですけれど……」
「……じゃあ、最近は?」
「前の御主人様にとって、私は、お客様にお見せするための『変わり種の人形』であり、奥様では味わえない夜を楽しむための『抱き枕』でした」
マゥリスはごくりと唾を飲み込む。
「じゃあ、……おっさんとも?」
「あのかたは、多分、違うのです」
マゥリスは、デリカの腕に力がやや入ったことを感じた。
「デリねーちゃん……?」
「もしかしたら、あのかたは私たち獣人族を──原初の獣人族すらも、心の底から『ヒト』だと思い込んでいらっしゃるのかもしれません」
マゥリスは言葉に詰まった。耳やしっぽがケモノという獣人は多いし、実際にファーシャがそうだ。そしてヒトと獣人の夫婦は、この街であっても、多いわけではないが少なくもない。特に貧民街では比較的見受けられる。マゥリスも、共に育ってきたファーシャに対して、異性としての愛着も自然に存在している。
だが、デリカのような原初の獣人族は別だ。マゥリスもあまり見かけたことがないし、彼女を『ヒト』として見られるかといえば、そもそもそういう発想がなかった。
原初の獣人族は、あくまでもヒトの亜種であり、ヒトと同じ言葉を話し、ヒトと同じように生活している者もいるが、基本的に自分たちとは違う存在──「同じ」ヒトであるという意識自体が、存在していなかったのだ。
「だから、つらいのですけれどね」
デリカの自嘲的な微笑み。
彼女は、室内で繰り広げられている真冬を感じさせぬ熱い夜を見つめながら、ため息をついた。
「いっそ、珍奇なケダモノとして割り切って遊んでくだされたなら、いくらでもこの身を捧げたのですけれど──」
熱い吐息が、マゥリスの耳朶をくすぐる。
「──どうして、私は、こんな身に生まれてしまったのでしょうね……」
マゥリスは、早鐘を打つ心臓の音が、脈打つ己自身が、デリカに知られていないかと気が気でなかった。こんな感覚は初めてだった。
マゥリスはこれまで、街角に立つ肌も露わな街娼を見ても、そういうオブジェのようなモノとしか思ってこなかった。けれど今、彼女の太ももの柔らかさが、胸の柔らかさが、毛並みのくすぐったさを伴う柔らかな感触が、そしてうなじにかかる熱い吐息が、自分の感覚をどうにも狂わせる思いだった。
女を金で買う大人たちを、マゥリスは軽蔑してきた。けれど、今感じる、どうしようもない胸の高鳴り。それは、今まで「明らかに自分たちとは違う存在」であるデリカによって掻き立てられているという事実に、彼は気持ちの整理が追いつかない。
「ね、ねーちゃん、気にしすぎだって。ほら、ねーちゃんはあのおっさんと一緒に寝てんだろ? だったら色仕掛けでもすれば、そのうちさぁ……」
「そうやって、あのかたを穢したくないのです」
デリカは、感情のない声で続けた。噴き出しそうになる気持ちを押さえつけているかのように。
「あのかたは、私のことを、雌のケダモノではなく、一人の女の子として見てくださっている気がするのです。それなのに、もしあのかたを穢すようなことをしたら……」
ほう、と再びため息をついたデリカは、寂しげに笑った。
「私はきっと、あのかたのおそばにはいられなくなる……」
「そ、そんなことないって。おっさんって、いいヒトっぽいし。ねーちゃんも頑張れよ、犬のねーちゃん……は、手ごわいかもしんないけどさ」
「ふふ、ありがとうございます。マゥリスさんも、ファーシャちゃんを大事にしてあげてくださいね。将来は、お嫁さんにするんですか?」
「ばっ……あ、あいつはおれの妹みたいなもんだから……!」
「そうですか? そんなふりをしていると、いつか、本当にそうなってしまうかもしれませんよ?」
「だ、だから違うって!」
そう言って顔を赤くするマゥリスを、デリカはぎゅっと抱きしめる。
「ね、ねね、ねえちゃん?」
背後から自分の後頭部を挟むようにしてくるふくよかな胸の感触に、マゥリスは心臓が跳ね上がる思いだった。
「おんなは、寂しがりな生き物ですから。男の人の見栄は分かりますけれど、素直になることも、大事だと思いますよ……」
「え、えっと、それ、あのおっさんのこと……?」
「あのかたは、私を『ヒト』と認めて、受け入れてくださいました。あのかたにとって私は、ただの愛玩人形でもなく、戦う見世物でもなく、欲望を満たす珍しい動物でもない、ひとりの、『おんな』だったんです。あのかたの腕に抱かれて、一夜を共にできたこと──それだけでもう、私は満たされましたから」
一夜を共にする。
その言葉に、マゥリスはさらに余計な想像をたくましくしてしまう。なにせ温かく柔らかな感触が、自分の頭を挟み込むようにしている状況なのだから。
夜を男女が共にする意味は、マゥリスもよく理解していた。彼が暮らすのは、女を買う男、男に売る女が互いに闊歩し、しかも貧しさゆえに売る女の年齢もやっと二けたになった程度という存在がごろごろしている貧民街。
マゥリスの耳にも、どこのだれがどんな具合、という話が、男女問わず、普段から当然のように耳に飛び込んできていた。いろいろと想像をたくましくしてしまっても、無理からぬことだった。
実際には、本当に文字通り、カズマの腕を枕にして「一緒のベッドで寝た」だけなのだが。
「……ねーちゃんは、ほんとに、おっさんが好きなんだな」
「ええ。この身、この命を捧げると決めました。あのかたが、それを許してくださるなら、ですけれども」
「ねーちゃんのほうが年上なんだろ? ずっと気になってたけど、なんでそんな敬語なんだ?」
「歳など関係ありませんよ。あのかたの、私たちを包み込んでくださる懐のぬくもりと広さをもつかたを、私はほかに知りません」
「そ、そうか? なんか頼りなくない?」
「いいえ」
デリカの熱い吐息が、マゥリスの耳元にこぼれる。これで何度目だろうか。己の中心がひどく熱くたぎってしまうのを、マゥリスは自覚する。
──デリねーちゃん、これ、わざとやってんのか? おれなんかより、おっさんのほうがずっとすごいんだ、みたいな当てつけなのか?
そんな苦悩に悶えるマゥリスの内心を知ってか知らずか、デリカは熱に浮かされたような、うっとりとした声色で続ける。
「しようと思えば、あのかたはきっと、いくらでも私たちを支配できるでしょう。それだけの強さがあるかたです。でも、あのかたはそうしない……。できるだけ、私たちの思いを汲もうとなさいます。それが私たちにとって、どれほどうれしく、頼もしく、心強いことか」
そう言ってデリカは、改めてマゥリスを抱きしめる腕に力をこめる。
「あのかたは、私のすべてです。私を『ヒト』と呼び、私の幸せを願ってくださった、ただ一人のおかた。ですから、私は残りのすべての命を使って、あのかたにご奉仕いたします。たとえ求められなかったとしても、あのかたが私の幸せを願ってくださったように、遠くからでも、私もあのかたの幸せを祈ります」
マゥリスは、熱っぽく語るデリカに、それ以上何も言えなかった。
彼には隙だらけで頼りなさげに見えるカズマに、これでもかと心酔しているデリカ。
自分はカズマほど、一人のヒトを虜にできるだろうか──マゥリスは考え込む。
「──ヘっ……!」
──くしゅん、とやってしまいそうになったのを、マゥリスは必死にこらえる。こんなところでくしゃみをしてバレましたなんて、間抜けすぎる。いつのまにか部屋では熱いひとときが終わりを迎えていたようだけれど、もしくしゃみで居場所が発覚なんてことになったら、それこそ「頼りないカズマ」以上の醜態をさらすことになってしまう。
「寒かったですか?」
「い、いや、べつに……」
「やせ我慢はよくないですよ?」
そう言って、またぎゅっとマゥリスを抱きしめるデリカ。
「い、いや、ほんと、大丈夫で……」
デリカの柔らかな毛皮が、圧倒的なボリュームの枕のごとき胸が、どこか猫の肉球を思わせるような肉感的な指先が……!
「──あら? ……マゥリスさんも男の子、なのですね……」
「いっ……⁉ いや、あの、これは……!」
「大丈夫ですよ。ファーシャさんには黙っておきますから」
デリカの言葉に、マゥリスはついにバレてしまったと、口から魂が飛び出ていくような思いになるのだった。
「なあ、デリねーちゃん。あのおっさん、ホントに頼りになるのか?」
周囲を警戒しながらボソッと言うマゥリスに、やはり聞き耳を立てながら、デリカが微笑む。
「あのかたは、とても素敵なかたです。お若くてまっすぐで、そしてなにより、私たち獣人族を『ヒト』と呼んではばかりません。人前であってでもです。私はそのようなかたを、他に知りません」
「それはまあ、分かるけどよ。だからっつって、頼りになるかどうかってのは別の話だろ? ノリの勢いでこんなトコまで来ちゃったけどさ」
おれ、ほんとは下水道でとっとと帰るつもりだったんだ、とマゥリス。
「では、どうしてここまで来られたのですか?」
「だって、ファーシャがあのおっさんについてくって言って聞かねえんだもん。あいつ、口ではカネ、カネって言ってるけどさ。ああ見えてけっこう、義理堅いヤツなんだぜ」
おっちょこちょいなくせに、おれの後ろをついて回るもんだから、いつのまにかスリ仲間になっちまったけどさ、とため息をつくマゥリスに、デリカが首を傾げた。
「マゥリスさんは、ファーシャさんがスリをされるのが不満なのですか?」
「不満に決まってんだろ。どこの誰が、好き好んで妹をスリにするかよ」
「……ご兄妹だったのですか?」
「違うって。分かるだろ、妹分ってやつだよ」
マゥリスによれば、いつのまにかこの貧民街に居ついて、いつのまにかそばにいるようになったらしい。
「たしか、きっかけは腹をグゥグゥ鳴らせてじっとこっちを見てるもんだから、ついメシをくれてやったことだと思うんだけどさ。もう、いつから一緒にいるかなんて忘れちまった。まだ、こーんなちっちゃいころだったと思うけど」
「それからずっと?」
「ああ。あいつ、にいちゃんにいちゃんっていつも後ろついてきてめんどくさかったけど、一人で寝るよりは寒くなかったし、話相手もできてよかったし。あいつ、おっちょこちょいだろ? 話のネタが尽きなくてさ」
そう言って小さく笑ったマゥリスを、デリカは「大切なご家族なのですね」と、少しうらやましげに見つめた。
「私は物心がついてから、ずっと従属者として生きてきました。私のすべては、主人を楽しませるためだけにありました。大切にされていることに違いはなかったのですが……」
「なんだよ、おっさんも言ってたけど、そんな綺麗な毛皮して毛艶もよさそうだし、どうせカネ持ちの家で飼われて、たらふく食ってたんだろ? 幸せじゃねえかよ」
「幸せかと言われたら……」
デリカは、寂しそうに微笑んだ。
「だって、あったかいメシがたらふく食えて、あったかい寝床で寝て、変な輩に絡まれることもなかったんだろ? 十分じゃねえか」
「それは──」
言いかけたデリカの耳がピクリと動く。
「……誰かがこちらに来ます」
「おっさんたち、もう戻ってきたのか?」
「違います、あのおかたの足音ではありません。シェリィさんでもないです」
「……じゃあ敵じゃねえか。隠れるぞ!」
「隠れるって、どうすれば……?」
戸惑うデリカに、「そんなの、どこだっていいだろ!」と、マゥリスは手を引き素早く手近な部屋に駆け込む。
「……しまった、デリねーちゃんの体を隠せる場所まで、考えてなかった」
マゥリスはほぞを噛む。いつもならファーシャと自分の、二人の小さな体を押し込めるような場所があればよかった。ところが今、マゥリスの隣にいるのは、おっさんことカズマよりも背が高く、体は柔らかくとも「ふくよか」なデリカである。いつものように、小さなものの隅に隠れるわけにはいかなかったのだ。
「くそっ、どうする……!」
足音が近づいてくる。通り過ぎてくれればいいが、もし部屋の中に入ってこられたら逃げ場がない。マゥリスは家具の影に身を潜めることができないデリカをどうしたらいいか、必死に考えを巡らせる。
「マゥリスさん、あちらはいかがですか?」
「くそっ……。あいつら、よりにもよってこの部屋で盛り始めることねえだろ」
ベランダの隅に屈んで身を潜めている二人。毒づくマゥリスの息が白い。
「うらやましいです。私は同じようなことを求められても、恋の相手には見られたことがありませんでしたから」
そう言って微笑むデリカの息も白い。彼女の息の方が、より白さが際立っている。
「寒いですね。……お風邪を召してはいけませんから、どうぞこちらへ。温めて差し上げましょう」
デリカはそう言ってマゥリスの手を引くと、自分の膝の上に彼を座らせ、両腕で抱き抱えるように彼を抱きしめる。
「ね、ねーちゃん……」
背中を圧迫する圧倒的なボリュームの柔らかさに、マゥリスはどぎまぎしながら尋ねずにはいられなかった。
「……デリねーちゃんも、あーいうことをしてきたのか?」
「それが、私に求められた『役割』でしたから」
寂しそうに微笑むデリカ。
「幼かった頃は、着せ替えのお人形になっていればそれでよかったのですけれど……」
「……じゃあ、最近は?」
「前の御主人様にとって、私は、お客様にお見せするための『変わり種の人形』であり、奥様では味わえない夜を楽しむための『抱き枕』でした」
マゥリスはごくりと唾を飲み込む。
「じゃあ、……おっさんとも?」
「あのかたは、多分、違うのです」
マゥリスは、デリカの腕に力がやや入ったことを感じた。
「デリねーちゃん……?」
「もしかしたら、あのかたは私たち獣人族を──原初の獣人族すらも、心の底から『ヒト』だと思い込んでいらっしゃるのかもしれません」
マゥリスは言葉に詰まった。耳やしっぽがケモノという獣人は多いし、実際にファーシャがそうだ。そしてヒトと獣人の夫婦は、この街であっても、多いわけではないが少なくもない。特に貧民街では比較的見受けられる。マゥリスも、共に育ってきたファーシャに対して、異性としての愛着も自然に存在している。
だが、デリカのような原初の獣人族は別だ。マゥリスもあまり見かけたことがないし、彼女を『ヒト』として見られるかといえば、そもそもそういう発想がなかった。
原初の獣人族は、あくまでもヒトの亜種であり、ヒトと同じ言葉を話し、ヒトと同じように生活している者もいるが、基本的に自分たちとは違う存在──「同じ」ヒトであるという意識自体が、存在していなかったのだ。
「だから、つらいのですけれどね」
デリカの自嘲的な微笑み。
彼女は、室内で繰り広げられている真冬を感じさせぬ熱い夜を見つめながら、ため息をついた。
「いっそ、珍奇なケダモノとして割り切って遊んでくだされたなら、いくらでもこの身を捧げたのですけれど──」
熱い吐息が、マゥリスの耳朶をくすぐる。
「──どうして、私は、こんな身に生まれてしまったのでしょうね……」
マゥリスは、早鐘を打つ心臓の音が、脈打つ己自身が、デリカに知られていないかと気が気でなかった。こんな感覚は初めてだった。
マゥリスはこれまで、街角に立つ肌も露わな街娼を見ても、そういうオブジェのようなモノとしか思ってこなかった。けれど今、彼女の太ももの柔らかさが、胸の柔らかさが、毛並みのくすぐったさを伴う柔らかな感触が、そしてうなじにかかる熱い吐息が、自分の感覚をどうにも狂わせる思いだった。
女を金で買う大人たちを、マゥリスは軽蔑してきた。けれど、今感じる、どうしようもない胸の高鳴り。それは、今まで「明らかに自分たちとは違う存在」であるデリカによって掻き立てられているという事実に、彼は気持ちの整理が追いつかない。
「ね、ねーちゃん、気にしすぎだって。ほら、ねーちゃんはあのおっさんと一緒に寝てんだろ? だったら色仕掛けでもすれば、そのうちさぁ……」
「そうやって、あのかたを穢したくないのです」
デリカは、感情のない声で続けた。噴き出しそうになる気持ちを押さえつけているかのように。
「あのかたは、私のことを、雌のケダモノではなく、一人の女の子として見てくださっている気がするのです。それなのに、もしあのかたを穢すようなことをしたら……」
ほう、と再びため息をついたデリカは、寂しげに笑った。
「私はきっと、あのかたのおそばにはいられなくなる……」
「そ、そんなことないって。おっさんって、いいヒトっぽいし。ねーちゃんも頑張れよ、犬のねーちゃん……は、手ごわいかもしんないけどさ」
「ふふ、ありがとうございます。マゥリスさんも、ファーシャちゃんを大事にしてあげてくださいね。将来は、お嫁さんにするんですか?」
「ばっ……あ、あいつはおれの妹みたいなもんだから……!」
「そうですか? そんなふりをしていると、いつか、本当にそうなってしまうかもしれませんよ?」
「だ、だから違うって!」
そう言って顔を赤くするマゥリスを、デリカはぎゅっと抱きしめる。
「ね、ねね、ねえちゃん?」
背後から自分の後頭部を挟むようにしてくるふくよかな胸の感触に、マゥリスは心臓が跳ね上がる思いだった。
「おんなは、寂しがりな生き物ですから。男の人の見栄は分かりますけれど、素直になることも、大事だと思いますよ……」
「え、えっと、それ、あのおっさんのこと……?」
「あのかたは、私を『ヒト』と認めて、受け入れてくださいました。あのかたにとって私は、ただの愛玩人形でもなく、戦う見世物でもなく、欲望を満たす珍しい動物でもない、ひとりの、『おんな』だったんです。あのかたの腕に抱かれて、一夜を共にできたこと──それだけでもう、私は満たされましたから」
一夜を共にする。
その言葉に、マゥリスはさらに余計な想像をたくましくしてしまう。なにせ温かく柔らかな感触が、自分の頭を挟み込むようにしている状況なのだから。
夜を男女が共にする意味は、マゥリスもよく理解していた。彼が暮らすのは、女を買う男、男に売る女が互いに闊歩し、しかも貧しさゆえに売る女の年齢もやっと二けたになった程度という存在がごろごろしている貧民街。
マゥリスの耳にも、どこのだれがどんな具合、という話が、男女問わず、普段から当然のように耳に飛び込んできていた。いろいろと想像をたくましくしてしまっても、無理からぬことだった。
実際には、本当に文字通り、カズマの腕を枕にして「一緒のベッドで寝た」だけなのだが。
「……ねーちゃんは、ほんとに、おっさんが好きなんだな」
「ええ。この身、この命を捧げると決めました。あのかたが、それを許してくださるなら、ですけれども」
「ねーちゃんのほうが年上なんだろ? ずっと気になってたけど、なんでそんな敬語なんだ?」
「歳など関係ありませんよ。あのかたの、私たちを包み込んでくださる懐のぬくもりと広さをもつかたを、私はほかに知りません」
「そ、そうか? なんか頼りなくない?」
「いいえ」
デリカの熱い吐息が、マゥリスの耳元にこぼれる。これで何度目だろうか。己の中心がひどく熱くたぎってしまうのを、マゥリスは自覚する。
──デリねーちゃん、これ、わざとやってんのか? おれなんかより、おっさんのほうがずっとすごいんだ、みたいな当てつけなのか?
そんな苦悩に悶えるマゥリスの内心を知ってか知らずか、デリカは熱に浮かされたような、うっとりとした声色で続ける。
「しようと思えば、あのかたはきっと、いくらでも私たちを支配できるでしょう。それだけの強さがあるかたです。でも、あのかたはそうしない……。できるだけ、私たちの思いを汲もうとなさいます。それが私たちにとって、どれほどうれしく、頼もしく、心強いことか」
そう言ってデリカは、改めてマゥリスを抱きしめる腕に力をこめる。
「あのかたは、私のすべてです。私を『ヒト』と呼び、私の幸せを願ってくださった、ただ一人のおかた。ですから、私は残りのすべての命を使って、あのかたにご奉仕いたします。たとえ求められなかったとしても、あのかたが私の幸せを願ってくださったように、遠くからでも、私もあのかたの幸せを祈ります」
マゥリスは、熱っぽく語るデリカに、それ以上何も言えなかった。
彼には隙だらけで頼りなさげに見えるカズマに、これでもかと心酔しているデリカ。
自分はカズマほど、一人のヒトを虜にできるだろうか──マゥリスは考え込む。
「──ヘっ……!」
──くしゅん、とやってしまいそうになったのを、マゥリスは必死にこらえる。こんなところでくしゃみをしてバレましたなんて、間抜けすぎる。いつのまにか部屋では熱いひとときが終わりを迎えていたようだけれど、もしくしゃみで居場所が発覚なんてことになったら、それこそ「頼りないカズマ」以上の醜態をさらすことになってしまう。
「寒かったですか?」
「い、いや、べつに……」
「やせ我慢はよくないですよ?」
そう言って、またぎゅっとマゥリスを抱きしめるデリカ。
「い、いや、ほんと、大丈夫で……」
デリカの柔らかな毛皮が、圧倒的なボリュームの枕のごとき胸が、どこか猫の肉球を思わせるような肉感的な指先が……!
「──あら? ……マゥリスさんも男の子、なのですね……」
「いっ……⁉ いや、あの、これは……!」
「大丈夫ですよ。ファーシャさんには黙っておきますから」
デリカの言葉に、マゥリスはついにバレてしまったと、口から魂が飛び出ていくような思いになるのだった。
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ファンタジー
1部が12/6に完結して、2部に入ります。
「俺だけ不幸なこんな世界…認めない…認めないぞ!!」
どこにでもいる、さえないおじさん。特技なし。彼女いない。仕事ない。お金ない。外見も悪い。頭もよくない。とにかくなんにもない。そんな主人公、アレン・ロザークが死の間際に涙ながらに訴えたのが人生のやりなおしー。
彼は30年という短い生涯を閉じると、記憶を引き継いだままその意識は幼少期へ飛ばされた。
幼少期に戻ったアレンは前世の記憶と、飼い猫と喋れるオリジナルスキルを頼りに、不都合な未来、出来事を改変していく。
記憶にない事象、改変後に新たに発生したトラブルと戦いながら、2度目の人生での仲間らとアレンは新たな人生を歩んでいく。
新しい世界では『魔宝殿』と呼ばれるダンジョンがあり、前世の世界ではいなかった魔獣、魔族、亜人などが存在し、ただの日雇い店員だった前世とは違い、ダンジョンへ仲間たちと挑んでいきます。
この物語は、記憶を引き継ぎ幼少期にタイムリープした主人公アレンが、自分の人生を都合のいい方へ改変しながら、最低最悪な未来を避け、全く新しい人生を手に入れていきます。
主人公最強系の魔法やスキルはありません。あくまでも前世の記憶と経験を頼りにアレンにとって都合のいい人生を手に入れる物語です。
※ ネタバレのため、2部が完結したらまた少し書きます。タイトルも2部の始まりに合わせて変えました。
才がないと伯爵家を追放された僕は、神様からのお詫びチートで、異世界のんびりスローライフ!!
にのまえ
ファンタジー
剣や魔法に才能がないカストール伯爵家の次男、ノエール・カストールは家族から追放され、辺境の別荘へ送られることになる。しかしノエールは追放を喜ぶ、それは彼に異世界の神様から、お詫びにとして貰ったチートスキルがあるから。
そう、ノエールは転生者だったのだ。
そのスキルを駆使して、彼の異世界のんびりスローライフが始まる。
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