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第三部 異世界建築士と思い出の家

第271話:久々のデート

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 「……本当に、信じてくださるんですか? 、だと――」

 最初、俺はその意味が理解できなかった。
 リトリィの子供らなら俺の子供――その前提が、当たり前すぎて。

「ほんとうに? わたしは、なんですよ? 奴隷商人に」

 やっと、気づいた。
 気づいてしまったのだ。
 彼女が抱えていた、葛藤に。

「あなたは、信じてくれるんですか? 見てもいない、わたしの潔白を。本当に!? 疑うこともなく!?」

 悲痛な叫びに、俺は手を伸ばし――

『抱けば、言うことを聞くと思っているんですか?』

 あのときの言葉が、胸を貫く。
 そんなつもりはなかった、と言いたくても、無駄だ。抱けば落ち着いてくれるだろう、そう思っていたし、だからあのとき、そうしてしまった。

 ――その結果が、あのザマだったんだ。

 伸ばしかけた手が、しばし、止まる。

「リトリィ、俺は――」
「やっぱり、信じられませんよね」

 彼女は、笑っていた。
 虚ろに。

 あの、山で、さんざん見てしまった、あの、感情の見られない、笑顔。

「待て、俺はリトリィのこと、疑ったりなんて――」
「だったら、どうして今、手を止めたんですか?」
「い、いや、それは――」

 違う。
 俺はリトリィのことを避けようとか、そんなこと、思ったりしていない。
 俺は、君のことが――

「わたしがあんな目にあって、それでもまだ、きよらかだって、本当にそう思ってくださってるんですか!」

 答えに詰まる。

『初物じゃないことだけが惜しいらしいんだが、おかげであのうるさい頭領がするんだとさ。終わったら出発まで、オレたちにも回してくれるらしいぜ?』

 あのとき――砦で聞いた、奴隷商人だか護衛だかの男たちのセリフ。
 が何を意味するかなんて、考えるまでもない。

 全裸で、天井から伸びる鎖につながれていたリトリィ。

 ナニをされたかだって?

 ガルフは言った。
 手を出すなという約束を破ったから、頭領をぶち殺したと。

 糞狼の約束は、破られたのだ。

 ……いや、違う、問題はそんなところにあるんじゃない!
 リトリィは――俺を信じられないのだ。
 俺が、彼女を清らかな身だと思っている、ということを。

 ……リトリィのお腹に宿ったかもしれない子――その子が、俺の子ではない可能性を、疑っていると、そう思っているのだ。

「だから、なん、だい?」

 自分の顔が、無理矢理にひん曲げられている自覚はある。
 でも、こうするしかなかった。
 俺は、彼女のお腹に宿ったかもしれない子が、誰の子かなんて、今この瞬間までまったく疑っていなかった。

 だが、それは今も変わらない。
 絶対に俺の子に違いない。
 そう断言してやれる、何度だって!

 ――でも、彼女は。

 彼女は苦しんでるんだ。
 彼女に非がないことで。

 彼女の心はいま、不安で乱れている。
 そこにぴしゃりと彼女を否定するのは、どうなるんだろう。

 俺は極力声の調子を押さえ、無理に笑顔を作った。

「君も、子供ができることを楽しみにしてただろう? それを喜ぼうよ」
「そうやって今、無理に納得されていたって、どうせあなたは――」

 それ以上、言わせたくなかった。
 彼女は、自分で自分を傷つけているだけなんだ。
 俺がきっと言うだろう赦しを、認めたくないんだろう。

 俺の子ではないかもしれない――渦巻く疑惑を、不安を、優しさという名の仮面で覆い隠し続ける、偽りの愛を。

 身をよじる彼女を捕まえるようにして、抱きしめる。
 力いっぱい。

 ――抱きしめることが、できた。
 彼女の力なら、俺を振りほどくなんて難しいことじゃないはずなのに。

 それがすなわち、彼女のほんとうの心なんだ。
 けれど、自分を呪い続けているのだ、彼女は。

 その原因を作ってしまったことを。
 俺だって悪かったはずなのに。

 彼女は泣き叫び続けた。
 自分は潔白であると。
 でも、あなたは疑い続けるのだろうと。

 リトリィ自身、俺の血を繋ぐ仔を産むことにこだわっている。
 ガルフもあれだけ切望している、「自分の血を繋ぐ我が子」。

 あなたも、そうでないはずがない、と。

 ああ、くそったれめ。
 糞狼の奴、とんでもない呪いを植え付けやがって。



 朝食の支度をするリトリィの目は、なんだか赤く、はれぼったい。
 けれど、昨夜のように取り乱しているわけではない。少なくとも、いつも通りの働き者の娘だ。

 昨夜、結局、シヴィーさんが部屋にやってきて、リトリィを平手打ちした。
 しばらく預かりますね、と別の部屋に引きずっていって、そして一時間ほどしてから、落ち着いた彼女をまた連れてきたのだ。

「……旦那さまを信じない妻でいいのですかって、お叱りを受けました」

 リトリィはそう言って、しばらく、ベッドに入ってこなかった。

「もしあなたに認められなくても、あなたの仔だって、わたしは分かっています。だから、もしできていたなら、授けていただけたことを喜んで、ひとりで、大事に育てよう――そう、思っていたんです」

 糞狼に向かって『自分はムラタさんのものです』と啖呵を切ってみせた彼女が、裏でそんなことを考えていただなんて。
 馬鹿みたいに感激していた俺は、本物の馬鹿だった。
 彼女の葛藤に、なにも気づいてやれていなかった。

 だから、俺は、彼女をベッドに呼んだ。
 ぎゅっと抱きしめて、一緒に名前を考えよう、と言った。

 彼女は泣いた。
 ずっと泣いていた。
 ごめんなさいと、泣き続けた。

 だから、今朝も、はれぼったい目をしている。
 でも、昨夜のようなそぶりは見せていない。

 ただ、俺はこれまでの彼女の葛藤に、何も気づいていなかった。
 彼女が今、心にどんな闇を抱えているのか、彼女の外見からは全く想像がつかない。

 でも、彼女はそれを、見せていないのだ。
 ――見られまいとしているのだ。

 だったら、それを蒸し返すことに、きっと意味など無いのだろう。
 俺は、今の彼女のあるがままを、真正面から受け止めるだけだ。



「気晴らしに、いちでも散歩してきたらどうですか」

 例の狼藉者たちはさんがやっつけてくださったんですし――シヴィーさんに言われても、城内街で散歩などしたところで、気晴らしになるわけがない。
 彼女を蔑視する街の住人たちの心無い視線で、面白くもないものになるに決まっている。

 やんわりと断ると、門外街にきまっているでしょう、と返された。

「逢引のつもりで、二人きりで行ってらっしゃい」

 つまりデートして来いと。
 ……今の彼女にとって、俺と二人きりで行動することが気晴らしになるのか、正直疑問だったのだが、そう考えていた俺がいかに大馬鹿だったかは、現在実証中だ。

「ムラタさん、あれ、食べませんか?」

 久々の二人きりの外出、彼女はひどくはしゃいでいた。
 にぎやかな雑踏の中で、精一杯のおしゃれをして、金の尻尾をぶんぶん振り回すように俺の手を引く彼女は、あまりにも輝いていた。

 パフォーマーのジャグリングに感嘆の声を漏らし、串焼き屋のおやじと値引き合戦を勝ち抜き、小さな子に尻尾を掴まれて困惑しつつも触らせてやる。

 常に俺の名を呼び、左の腕にぶら下がるようにして身を寄せ、一つのものを分け合って食べては、嬉しそうに口を寄せる。

 仕立て屋に寄り、なにやらふんふん頷きながら最新流行の服をまじまじとみて、なにか納得したと思ったら今度は布屋へ。

 上等そうな布をいくつも見繕い、俺にあてがい、別の布と重ね合わせてうなりつづけ、そして購入した、暗褐色の、上等そうな毛織の布。

 合わせて、細工物屋で、螺鈿らでん細工ざいくのようにキラキラ輝くスタッドボタン、木目が美しいシックなトグルボタンや四つ穴ボタン、縁取りのためだろうか様々な飾り布など、山のように買っていた。

 仕立て屋に頼んだ方が手間でないだろうと思ったが、彼女がやりたがっているのだ。それを否定する必要はない。

 ベンチで休憩がてら、薄く香りづけされた水を飲む。
 柔らかな日差しに、春の訪れを感じる。

 あんなことがなければ、このデートも、心の底から楽しめただろう。
 このささやかなデートで、本当に嬉しそうにはしゃぐリトリィを、痛々しいものとして見ることなど、なかったはずだ。

 肩を寄せ、嬉しそうに見上げて、そっと目を閉じる彼女に、軽く、唇を重ねる。

「ムラタさん、大好きです」

 そう言って微笑み、そっと肩に身を寄せてくる。
 幸せだ。
 誰がなんと言おうと。

 幸せの、はずなんだ……。

 しばしの間、目を閉じて、肩に乗せた彼女のぬくもりを味わう。

 そっと目を開け、リトリィに目を移し、そして、背筋が凍りつく。

 遠くを見つめる彼女は、笑っていなかった。
 虚ろな目で、どこともしれぬ彼方を、見つめていた。

 すぐ俺に気づいて、取り繕うように笑ってみせたけれど、それがかえって彼女のいまの心の有り様を示しているようで、胸が痛かった。

 気づかなかったふりをして笑ってみせたけど、こんな関係が、健全なわけがない。
 じゃあ、どうすればよかったんだろう。



「ムラタさん、一度、お家に帰りませんか?」

 リトリィが、そう言って微笑んでみせた。

 ――家か。
 そうだな。この山のような買い物、いや持っているのはリトリィで、俺はほとんど何も持たせてもらえないんだけど、それでデートを続けるのも大変だ。

 それに、久しぶりの家だ。ゴーティアスさんの屋敷に戻る前に、少し、のぞいていくのも悪くないだろう。



 ――と思っていた。

 家に入った瞬間、全ての買い物を放り出したリトリィに飛びつかれ、そして、泣かれた。

 すごくしあわせなんです、と。
 あなたとこうしているだけで、すごくしあわせなんです、と。

「本当なんです、本当にわたし、幸せなんですよ?
 ――どうしてそんな、つらそうな目で、わたしを見るんですか? そんなにわたしといるのが、おつらいんですか……?」

 ああ。
 まただ。
 また、彼女を泣かせた。
 彼女が虚ろな目をしていたのは、それだったのか。

 俺が、彼女を、腫れ物を触るような目で見ていたことを、見抜いていたんだ。
 それが、辛かったんだな。

 ――ごめん。本当に、ごめん……!

 思わず抱きしめると、髪を撫で、背中をさすりながら、俺も、しばらく、泣いた。



 ノックの音で我に返り、俺が近いからと、足元の買い物の袋を拾い上げてからドアを開けて、後悔する間もなく突き飛ばされた。

「ムラタさん――!?」
「死ね! キサマとそこのメスのせいで、全てが台無しだ!!」

 腹に来る、尖ったモノの、衝撃。

 フード付きローブの男の憎々しげな言葉に、俺は、押し倒されながら一瞬で理解する。

「奴隷商人の、残党――!」
「残党――だと? キサマのせいだろうが! あの裏切り者の男も、キサマのメスのせいで狂った! せっかく鉄血党に入党できて、俺サマもこれからだったというのに!」
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