溺愛ダーリンと逆シークレットベビー

吉野葉月

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 このマグカップをくれた妹は、数年前に離婚した。
 彼女が中学生のときに同級生の元夫に猛アプローチを受け、何年も付き合って結婚した、理想ともいえるカップルだった。
 四柱推命でも姓名判断でも相性はどれも抜群に良く、二人は運命の赤い糸で結ばれていると私は本当に思っていた。
 けれど妹が妊娠中に夫の不倫が発覚し、彼はあっという間に他の女性へのめり込んでいった。
 まさに妹に惚れ込んでいたときのように、彼の瞳には浮気相手の女性しか映らなくなってしまった。妻を思いやる以前の彼ではなくなってしまった。
 
 事の一連を見てきた母や妹は、私に告げた。
 
「一番好きな人と結婚しても、うまくいかない。結婚は二番目に好きな人とするべきよ」
 
「そんなに好きじゃないなら、浮気も不倫も許せるでしょう? 無駄に傷つかずに済むよ」
 
 とても大事にしていた指輪は、もう妹の左手の薬指にはない。
 実家のあちこちに飾ってあった結婚式や家族の写真も、全て消えてしまった。
 ごちゃごちゃと賑やかに並んだ写真立てがなくなりすっきりとした低い棚は、整然としているのにどこか物寂しさが漂う。 
 離婚をした当事者でも、子どもでもないのに、私の心にも何とも言えない虚無感が広がってしまったのだ。 
 
 |(結婚に過度な期待をしてはいけない。ただの日常なんだから)
 
 
 
 
 静かになった部屋の中で、つけっぱなしのテレビから懐かしいメロディが流れて、私は耳を傾けた。
 数年前に流行ったアイドルの曲だ。
 テレビの中で、今よりも少し若い彼女が楽しそうにリズムに乗って歌っている。
 当時流行った膝が出る丈のスカートを履いて、胸元が広めのトップスを着て、デコルテには派手なアクセサリーを身につけている。
 
「楽しかったなぁ……」
 
 思わず、目に涙が浮かんだ。
 たった数年前のことなのに、今の私には二度と手に入らない桃源郷のように思える。
 大学生のときの私は、これほどまでとはいかないが、そこそこ青春を謳歌していたように思う。
 こんなに可愛くキラキラしている女の子ではなかったけど、本音で話せ、良くしてくれる友だちに恵まれて、毎日笑って暮らしていた。
 学校に行くのが楽しくて、皆に会えるのが待ち遠しくて、こんな日々がずっと続いて欲しいと願っていた。
 当然時間は止まってはくれないので、そんな日常はあっという間に終わりを告げ、あっけなく青春は過ぎ去ってしまったのだが。
 
 
 結婚して旦那さんの言うことを聞いていれば愛し愛されて幸せになれると思っていたのに、現実は幸せが削られていくばかりなんて聞いてない。
 みんなこんな気持ちを押し殺して生きているのだろうか。
 他人と同じ空間にいることがこれほど精神を削られるとは知らなかった。
 
 
 私は寝室の押し入れの個人スペースにしまってある重い本を取り出した。
 紺色の厚手の表紙のそれは、大学の卒業アルバムである。
 卒業アルバムをテーマにした有名な曲があるが、十代の私は卒業アルバムに特別な思い入れなんかなく、先生や同級生の顔がただ並んでいるだけに過ぎなかった。
 だが今は違う。大人になった私には、その曲の良さもアルバムの尊さも、身に染みて分かるようになった。 
 私はアルバムをパラパラとめくり、社会学部のページのある一点を吸い込まれるように見つめる。
 耳の下まである天然パーマの黒髪を真ん中で分け、穏やかな笑みをたたえている青年。
 彼を見ていると、彼との思い出が頭の中に甦ってきて心が浄化されいくのだ。
 
「牧野くん……」
 
 学生時代、仲良くしてくれていた牧野くんに、私は秘めた恋心を抱いていた。
 勉強の話や音楽の話、色んな話をしたけれど、家族の悩みも真剣に聞いてくれた。
 妹の夫に不貞が発覚したときも、もやもやする気持ちをたくさん吐き出してしまった。妹のことで精一杯の親に私までくだを巻いて世話を焼かせる訳にはいかず、彼だけが頼みの綱だった。
 いつも嫌な顔ひとつせず私の愚痴や不満を受け止めてくれていた彼には頭が上がらない。
 
 
 
「何かあるんだろうなとは思ってたの。出産のための早い里帰りって言ってたのに、産まれても家に帰る気配はないし、旦那さんは顔を見に来ないし……」
 
「……うん」
 
「でもやっぱ、実際に離婚って聞くと辛い。ずっと仲良く暮らすと思ってたのに! どんなときも愛するって神様に誓ったのに! 嘘つき! 私の大好きな妹を傷つけておいて、自分は他の女性とのうのうと暮らすなんて、そんなんだったら最初から結婚したりしなきゃいいのに、一生遊んで暮らせばいいのに!」
 
「そうだよな……」
 
 私たちの他には誰もいなくなった学校食堂の隅で、門が閉まるまで私の泣き言を聞いてくれたのは、一度や二度じゃなかった。
 牧野くんはみんなに優しいから私にだけそうしてる訳じゃないと言い聞かせていたけど、彼への感謝や愛情は積もる一度だった。
 私の心の中の大部分は彼のことが占めていた。
 
 いつも穏やかに笑ってくれていたけど、本心はどうだったのか。怖くて本当の気持ちは聞けなかった。
 
 だけど、私にとっては本当に心の支えだった。
 何年も会っていない今でさえ、彼のことを想うと勇気が湧いてくるほどに。
 
 
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