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4.会えると嬉しい
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フランツィスカはよく本を読んでいる。裏を返せば本しか読んでいない。家にも本は山のようにあったし、大学の図書館はもはやフランツィスカの庭だった。
つまりは、まともな恋愛経験がないということである。恋愛小説だけは、浴びるほど読んだけれど。
物語の中で、初めての口づけはなかなかにロマンチックなものである。月の光の差し込むバルコニーでとか、天蓋つきの寝台の上でとか。そうでないのがいけないわけではないけれど、少なくとも仕事の合間に執務室でするようなものを、フランツィスカは想像してはこなかった。
想像通りのものではなかった。
けれど存外、これが悪いものでもなかった。
「ツィスカ、隣座っていいー?」
そんなことを考えながら食堂で昼食を取っていたら、声を掛けられた。
「どうぞ、ナターシャ」
「ねえ、“王国の獅子”と婚約したって本当なの?」
誰だ、そんなやつは。
「レオン様。あなたの婚約者のレオンハルト=アメルハウザー様。“経理の鬼”が“王国の獅子”を篭絡したってもっぱらの噂よ? 知らないの?」
それなら知っている。尻尾をよく振る、茶色で大きめの犬。
「こんなことで嘘を吐く意味がない。本当だよ。再来月には挙式だ」
ナターシャとは小さい頃から家同士の付き合いがある、所謂幼馴染である。彼女の兄は確か騎士団に所属していたはずだ。
「言っておくが篭絡してはいない。王命で結婚するだけだ。彼にも私にも、選ぶ権利はなかった」
好きで“経理の鬼”と結婚するような物好きは、そうそういないだろう。
「さようでございますか」
ナターシャは随分と含みのある顔をした。
「レオンハルトは、その……強いのか?」
何せこちらは生粋の文官育ちである。考えることと言えば、来年の予算案と各領地の経営状況ぐらいだ。フランツィスカは今まで、騎士の強さなど気にしたこともなかった。
「兄さんはいい腕してるって褒めてたわよ。一昨年の新人の武術大会でも優勝してたし、いつか必ず団長になるだろうって話」
「それは……強そうだな」
「顔も悪くないし人気あるのよ、彼。結構ショックを受けてる令嬢も多いのよ。恨み買わないように気を付けてね」
それは恐ろしいことだ。買うのは株か土地だけにしたい。
「忠告ありがとう。気を付けておくよ」
「で、ツィスカはどうなのよ? 獅子が遠征中でさぞお寂しいかと思って見に来たんだけど」
大して愛想がいいわけではないフランツィスカにとって、ナターシャは貴重な友人である。気心も知れているし信用も置ける。
ただ長い付き合いなので、こうして遠慮もなくズバズバと斬り込まれる。そして恋愛経験のないフランツィスカは、今までこういった話に全くもって縁がなかった。ゆえに、対処に困る。
「……私が寂しいと思ったところで、彼が早く帰ってくるわけではないだろう」
「それはツィスカは寂しいってことでいいのかしら?」
「さあ、どうだろうね」
実際自分でもよく分からなかった。白とも黒ともつかない心の中にふわふわと茶色の髪だけが踊って、時折振り返ったかと思うとにこりと笑った。
「じゃあ、質問を変えるわね」
ナターシャはモテる。男が十人いたら八人までは魅了できるレベルの美人である。大学では見かける度に横にいる男の姿は変わり、一昨年にその誰とも違う年上の伯爵に嫁いだ。
彼女は、すれ違う男が大抵凝視している胸元の前で指を組む。その上に顎をのせて艶然と微笑んだ。
「レオン様が遠征先でちっともツィスカのことを思い出さなかったら、どう?」
「それは私が、他人に強制できることではないよ」
そんなことよりほかに考えるべきことがあるだろうとは思うし。
「無事に帰って来てほしいとは、思っているよ」
考えることで帰ってくる確率が上がるのなら、考えてくれてもいいとは思うけれど。
「まあ、いじらしい」
これはいいものを見たわと、ナターシャは昼食を食べている間、終始機嫌が良さそうだった。日替わりのメニューでも好みだったのだろうか。
二週間後、レオンハルトは宣言通りに帰還した。
騎士団の隊列からその茶色の頭が見えた時、理由は分からないけれどとても嬉しかった。向こうもすぐにフランツィスカの姿を認めた。全力で手を振る彼を見ながら、やはり尻尾も揺れているなと思った。
「おかえりなさい」
「フランツィスカさんに会えなくて寂しかったです」
そうか。君は私に会えなくて寂しかったのか。
すとん、と何かが落ちた気がした。
そして長身は、フランツィスカの前におもむろに膝を突いた。眩しいばかりの榛色の瞳は、一心に自分だけを映していた。
「どうかしたのかい?」
いささか直視に堪えないのでそっぽを向いてみる。
「……その、ご褒美は先にもらったのであれなのですが。頭撫でてもらおうかなとか、思ったりして」
なるほど、確かに立っているままだとフランツィスカには彼の頭は撫でづらい。実に合理的な判断だ。
この犬はちゃんと家に帰ってくることができる。その点でよい犬だと言える。美点については褒めるべきであると、フランツィスカは仕事の際常々思っている。
「よしよし、よく帰って来たね」
頭をわしゃわしゃと撫でてみる。やわらかそうに見えた茶色の髪は、実際手の中でふわふわとしていた。
「はい、ただいまです。フランツィスカさん」
寂しいかどうかはまだ分からないけれど、会えると嬉しい。それは疑いようのない事実だ。
つまりは、まともな恋愛経験がないということである。恋愛小説だけは、浴びるほど読んだけれど。
物語の中で、初めての口づけはなかなかにロマンチックなものである。月の光の差し込むバルコニーでとか、天蓋つきの寝台の上でとか。そうでないのがいけないわけではないけれど、少なくとも仕事の合間に執務室でするようなものを、フランツィスカは想像してはこなかった。
想像通りのものではなかった。
けれど存外、これが悪いものでもなかった。
「ツィスカ、隣座っていいー?」
そんなことを考えながら食堂で昼食を取っていたら、声を掛けられた。
「どうぞ、ナターシャ」
「ねえ、“王国の獅子”と婚約したって本当なの?」
誰だ、そんなやつは。
「レオン様。あなたの婚約者のレオンハルト=アメルハウザー様。“経理の鬼”が“王国の獅子”を篭絡したってもっぱらの噂よ? 知らないの?」
それなら知っている。尻尾をよく振る、茶色で大きめの犬。
「こんなことで嘘を吐く意味がない。本当だよ。再来月には挙式だ」
ナターシャとは小さい頃から家同士の付き合いがある、所謂幼馴染である。彼女の兄は確か騎士団に所属していたはずだ。
「言っておくが篭絡してはいない。王命で結婚するだけだ。彼にも私にも、選ぶ権利はなかった」
好きで“経理の鬼”と結婚するような物好きは、そうそういないだろう。
「さようでございますか」
ナターシャは随分と含みのある顔をした。
「レオンハルトは、その……強いのか?」
何せこちらは生粋の文官育ちである。考えることと言えば、来年の予算案と各領地の経営状況ぐらいだ。フランツィスカは今まで、騎士の強さなど気にしたこともなかった。
「兄さんはいい腕してるって褒めてたわよ。一昨年の新人の武術大会でも優勝してたし、いつか必ず団長になるだろうって話」
「それは……強そうだな」
「顔も悪くないし人気あるのよ、彼。結構ショックを受けてる令嬢も多いのよ。恨み買わないように気を付けてね」
それは恐ろしいことだ。買うのは株か土地だけにしたい。
「忠告ありがとう。気を付けておくよ」
「で、ツィスカはどうなのよ? 獅子が遠征中でさぞお寂しいかと思って見に来たんだけど」
大して愛想がいいわけではないフランツィスカにとって、ナターシャは貴重な友人である。気心も知れているし信用も置ける。
ただ長い付き合いなので、こうして遠慮もなくズバズバと斬り込まれる。そして恋愛経験のないフランツィスカは、今までこういった話に全くもって縁がなかった。ゆえに、対処に困る。
「……私が寂しいと思ったところで、彼が早く帰ってくるわけではないだろう」
「それはツィスカは寂しいってことでいいのかしら?」
「さあ、どうだろうね」
実際自分でもよく分からなかった。白とも黒ともつかない心の中にふわふわと茶色の髪だけが踊って、時折振り返ったかと思うとにこりと笑った。
「じゃあ、質問を変えるわね」
ナターシャはモテる。男が十人いたら八人までは魅了できるレベルの美人である。大学では見かける度に横にいる男の姿は変わり、一昨年にその誰とも違う年上の伯爵に嫁いだ。
彼女は、すれ違う男が大抵凝視している胸元の前で指を組む。その上に顎をのせて艶然と微笑んだ。
「レオン様が遠征先でちっともツィスカのことを思い出さなかったら、どう?」
「それは私が、他人に強制できることではないよ」
そんなことよりほかに考えるべきことがあるだろうとは思うし。
「無事に帰って来てほしいとは、思っているよ」
考えることで帰ってくる確率が上がるのなら、考えてくれてもいいとは思うけれど。
「まあ、いじらしい」
これはいいものを見たわと、ナターシャは昼食を食べている間、終始機嫌が良さそうだった。日替わりのメニューでも好みだったのだろうか。
二週間後、レオンハルトは宣言通りに帰還した。
騎士団の隊列からその茶色の頭が見えた時、理由は分からないけれどとても嬉しかった。向こうもすぐにフランツィスカの姿を認めた。全力で手を振る彼を見ながら、やはり尻尾も揺れているなと思った。
「おかえりなさい」
「フランツィスカさんに会えなくて寂しかったです」
そうか。君は私に会えなくて寂しかったのか。
すとん、と何かが落ちた気がした。
そして長身は、フランツィスカの前におもむろに膝を突いた。眩しいばかりの榛色の瞳は、一心に自分だけを映していた。
「どうかしたのかい?」
いささか直視に堪えないのでそっぽを向いてみる。
「……その、ご褒美は先にもらったのであれなのですが。頭撫でてもらおうかなとか、思ったりして」
なるほど、確かに立っているままだとフランツィスカには彼の頭は撫でづらい。実に合理的な判断だ。
この犬はちゃんと家に帰ってくることができる。その点でよい犬だと言える。美点については褒めるべきであると、フランツィスカは仕事の際常々思っている。
「よしよし、よく帰って来たね」
頭をわしゃわしゃと撫でてみる。やわらかそうに見えた茶色の髪は、実際手の中でふわふわとしていた。
「はい、ただいまです。フランツィスカさん」
寂しいかどうかはまだ分からないけれど、会えると嬉しい。それは疑いようのない事実だ。
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