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第八章

六月の花嫁(1)

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 ロレンツォと有紗の結婚式は翌年の六月に執り行われることとなった。ロレンツォはその日、五十の誕生日を迎える。二人が初めて出会った仮面舞踏会と同じ日だ。結婚には慎重なイタリア人らしからぬスピード婚となるが、それを咎める者は誰ひとりいない。二人の気持ちは本物だ。
 結婚なんてまだまだ先のことだと思っていたのに、いろいろと飛び越えて国際結婚をすることになるとは。だがその前に有紗は大学を卒業しなければならない。ロレンツォとイタリアに帰り、数日過ごした後、有紗はまた日本へ戻った。そして大学へ向かい、教授に進路を伝えるべく、教授の部屋を訪ねた。

 + + +

 暖房が効きすぎではないかと思われるくらいの部屋に教授はいた。大学もそうだが、この部屋に何度足を運んだことか。
 西日の射す部屋は相変わらずデスクの周りを本の山が埋め尽くしている。一度、ゼミのメンバーで掃除をした記憶があるが、あれから数日も経たないうちに、また本の山が出来上がっていた。懐かしい思い出だ。
 有紗の結婚の報告に初老の男は少し寂しそうな顔をした。

「なるほど。私としては残念でなりませんが、君の人生です。それが君の選んだ道だというのならば、私に止める権利はありません。ですが、いいのですか? イタリアは宗教色の強い国だ。離婚はなかなかできませんよ?」

 教授の言うとおり、イタリアでは離婚は結婚よりも難しい。最低三か月の別居期間が必要なのだそうだ。にしても、なぜそれを言うのか。有紗とロレンツォとの間には消せない歳の差という壁はあるが、それを分かった上でお互いに愛し合って、結婚までこぎつけたのだ。誰にどうこう言われることではない。

「離婚、ですか……それについては調べました。けれど……」
「おっと、ここから先は聞かないでおくよ。だが、いい人生を歩んで下さい。君ならきっと大丈夫だ」

 教授が話の腰を折った理由が分かって、顔が熱かった。自分の決意を述べたところで聞く相手にとって、それはただの惚気になってしまう。
 この大学に入学して、教授の元で勉強しなければロレンツォと出会うことはなかっただろう。そのことには感謝をしている。

「今までありがとうございました」

 そう伝え、有紗は部屋を後にした。
 そしてやってきた三月の小春日和、有紗は卒業の日を迎えた。
 卒業式にと選んだのは濃紺の袴に、薄桃色の二尺袖。所謂定番の袴姿。着物に袖を通すのはロレンツォと初めての夜を過ごした日以来だった。帯をぎゅっと締め、姿勢を正す。姿見に映るのは髪も大分伸びた自分だ。あの弱い頃の自分ではない。笑ってみた。うん大丈夫、ちゃんと笑える。
 式を終え講堂を出る学生の波に紛れ、有紗も友人たちと楽しそうに談笑しながらキャンパスを行く。これから、それぞれ違う道を行く自分たちだが、年に一度は会おうと約束をした。ロレンツォもきっと許してくれるだろう。
 友人たちは、就職をするわけでもなく、大学院に行くわけでもなく、留学するわけでもない有紗を不思議がったけれど、今説明しても長くなるだろうと、それは後でね。とだけ言った。
 これから一旦家に帰り、夜はホテルで謝恩会だ。そこで友人たちには結婚すること、イタリアへ行くことを告げるのだ。そんなことを考えながら歩いていると、友人たちの足が突然止まり、みんな一斉に前方を見た。何事かと思って有紗も前方に目を向ければ、数メートル先には薔薇の花束を抱えた有紗のよく知る男が立っていた。
 口元が自然に弧を描く。立ち止まる友人たちをよそに、一歩また一歩とその男に近づく。

「お仕事じゃなかったんですか?」

 そう問えば、男はさも当然のように答える。

「愛する人の卒業を祝いたくてね、いてもたってもいられずに来てしまったよ。卒業おめでとう。アリサ。これを君に」
「ありがとう。ロレンツォ様。とっても嬉しいです」

 花束を受け取り、大事に胸に抱えた。本来であれば会う予定はなかった。それに平日だ。ロレンツォにも仕事がある。有紗は卒業式の話はしたものの、来て欲しいとは言わなかった。だが、こうして目の前にはきっちりとイタリアブランドのスーツを着込んだハリウッド俳優並みのナイスミドル。周りがざわざわと騒ぎ出すのも当然。

「この後なんだけど、私に攫われてくれるかい?」

 もちろん二つ返事で攫われたいところだが、有紗にも謝恩会という予定がある。

「あ、あのね、謝恩会があるの」
「そう……それは残念だな。で、アリサは私とその謝恩会とやらとどちらを選ぶのかな?」

 その目は有紗の答えが分かっているかのように、自信に満ち溢れている。だから有紗も迷わない。

「攫ってください。どこまでも。ううん、あなたと一緒だったらどこへだって」
「もちろんだよ。お姫様」

 多くの学生たちが二人の様子をうかがう中でロレンツォは大胆にも有紗を抱きしめキスをした。周囲からどよめきが起こる。そして有紗の友人たちに告げた。

「お嬢さんたち、すまないね。アリサを攫って行くよ」

 そんな気障なセリフもロレンツォが言えば、まったく嫌味ではない。やはり似合う人とそうでない人といるようだ。ロレンツォについては完全に前者だ。

「えっ、ちょ、どういうこと?」

 明らかに戸惑う様子の友人たちに有紗は告げる。

「私ね、イタリアに行って彼と結婚するの」

 その発言にさらに戸惑う友人たち。

「また連絡するから」

 そしてロレンツォは有紗をひょいと横抱きにし、華麗に攫って行ったのだった。

「……ねぇ、今のは何かのドラマか映画? それに何あのイケメン……」
「うん、そ、そうだね……あのナイスミドル、すごいセリフをさらっと言ったけど似合ってた……あぁ、有紗、結婚か……すごく幸せそうな顔してたね……」

 + + +

 攫ってください。と言ったものの、一体どこへ自分は攫われるのだろう。ロレンツォの会社の社用車に乗せられ走り出したのはいいが、行き先については何も聞かされていない。

「ロレンツォ様、どこへ行くの?」
「ん? うちに帰るんだよ」

 うち……はて? 有紗の家の方向とは違う方向に車は向かっている。

「うちってもしかして、イタリア?」

 ロレンツォは後部座席で有紗を隣に座らせ、足を組みながら頷いた。が、有紗は焦った。結婚式まであまり日がないのは分かっているが、心の準備というか、実際に日本で準備をしないといけないこともあった。しかも自分は今、卒業式を終えたばかりで着替えだって持っていない。本当に攫われてしまったのだ。

「有紗様、先ほどご両親様から有紗様の戸籍謄本を預かってまいりました。お着替えもトランクに入っております。空港にお部屋を用意しておりますのでそちらでお着替えを。今お召しになっているお着物はこちらでお預かりいたします」
「えっ、えっっ?」

 用意周到とはまさにこのことだと有紗はただ驚いたが、それをやってのけるのが有紗の夫になる男、ロレンツォなのだ。

「あの、それで両親は?」
「ご両親様はお式の前々日にイタリア入りされるそうです。上原夏美さんも同日に。チケットと招待状はクリストフ様がご用意なさっておいでですのでご心配なく」

 それから、と日本支社のロレンツォの秘書はこれからの予定について簡単に説明をした。

 + + +

 イタリア人との婚姻にはいろいろと手間がかかることを調べていた有紗だったがこうもしっかりとお膳立てされているとあまり実感が湧かないというのが正直なところだった。そして少し寂しくなった。時間がないというのは分かっているけれど、友人たちともちゃんと話をしたかった。攫ってと言ったのは自分だけれど。そんな有紗の心情を読み取ったのか、ロレンツォは有紗の肩を抱き寄せた。そして、準備が終わったら一度日本に戻ればいいと有紗に伝えた。本当はこのままずっと攫ってしまいたいのだけどね。と冗談まじりに言うから、有紗は思わず笑ってしまった。ロレンツォは有紗に対してどこまでも甘く優しいのだ。
 空港へ到着し、秘書から戸籍謄本を受け取り、洋服に着替えて再びイタリアへ向かった。
 イタリアでの結婚手続きというのは非常に手間のかかるものだ。有紗も承知していたことだったが、想像以上に面倒なことで日本のように即日発行してもらい、そのまま次の手続きへ、と思うようにはいかない。攫ってくれてよかったと逆にロレンツォに感謝をした。
 シエナの市役所で公示の手続きをしてとりあえずは一段落。しかし二週間後にはまた市役所へ行かなければならない。それにカトリック信者ではない有紗は式を挙げる教会で神父と数回の勉強会だ。それだけではない、これは日本と共通だが結婚指輪とドレス選び、招待状の発送ととにかくやることはたくさんある。
 ドレスはロレンツォには内緒だ。教えて欲しいと何度も言われたが、新婦のドレスは挙式開始時まで新郎に見せてはならない。という日本ではあまり馴染みのないジンクスがあるのだそうだ。それはクリストフが上手く言ってくれて助かった。結婚指輪はベルトラーゾ家が代々贔屓にしている宝石店で選ぶこととなった。
 有紗が一番不安だったのは公示だ。これは結婚する二人がそれぞれ住んだことのある場所の市役所そして教会に二人が結婚する旨を公表するというものだが、元恋人から異議申し立てがあれば結婚の時期がずれてしまうし、結婚できない可能性だってあるのだ。
 有紗についてはまったく問題ないのだが……有紗は不安を抱えたまま二週間という公示期間を過ごした。ロレンツォを疑っているわけではないが、有紗はロレンツォの過去をあまり知らない。もうイタリアにはいないというものの、いつクリスティーナのような人が現れるとも限らない、もうあんな辛い思いはしたくない……だが不安がる有紗の気持ちをよそに、二週間は何事もなく経過し二人は公に結婚を認められたのだった。

 + + +

「美里さん、六月の最終週ですが、学校を休みなさい」

 正義が美里にそう告げると、美里はきょとんとした、それが何を意味するのか 美里には、いまいち理解ができていないようだ。

「以前も話しましたが、イタリアへ行きます」
「イタリア? もしかして!」

 急にぱっと花が開いたように笑顔を見せる美里を自分の膝に乗せ、パソコンのモニターに映し出されたメールを見せた。差出人は有紗だ。結婚式の招待状と飛行機のEチケットの控、しかもビジネスクラスだ。だがそれは美里に宛てたもの。

「正義さんは……?」
「ご心配にはおよびません、私も」

 正義が別の画面を開けば、同じくEチケットの控、並べてみると二人の搭乗日から席まできちんと揃えられていた。ここまでされると逆に面白くない。特に美里に干渉されるのは。だが手配されてしまっている以上、取り直すのも面倒だ。

「美里さんの着る服は私が全て用意します。もちろん着替えもヘアメイクも私がします。そうですね、ドレスと振袖を用意しましょう。宿泊については私も仕事がありますので一晩は彼女の世話になってください。それ以外は私と」

 後ろから美里を抱きしめていた正義が少し力を込めたのが分かった。一緒に暮らしてきて分かった彼の独占欲、本当はチケットから何から全て正義自ら手配したかったのではないかと美里は思う。正義は何も言わないけれど、やはり彼は面白くないと思ったのだろう。少し嬉しいような、くすぐったいような気がした。

「分かりました。お願いします」

 正義のことで分からないことはたくさんあるけれど、言葉にしなくてもその態度が理解できたことが美里にとっては嬉しかった。
 一方、久米島の夏美の元には有紗からの郵便が届けられた。

「あ! 有紗さんからだ!」

 見慣れぬ海外からの郵便で、それが有紗からのものだとすぐに気付いた。中には結婚式の招待状と関西経由でイタリアまでのEチケットの控。
 有紗は事前に夏美の両親に夏美をイタリアへ呼びたいと申し出ていたのだ。夏美が一人で島を出ることを夏美の両親はたいそう不安に思っていたが、それならば関西空港から自分の両親と一緒に行くというのはどうだろうかと有紗は提案をしたのだった。そして、島から那覇を経由して関西空港までは、夏美の両親が付き添うということで話は纏まった。

「関西空港からは有紗さんのお父さんとお母さんが一緒に行ってくれるから、あと夏美の着る服も有紗さんが用意しておいてくれるそうよ?」

 母親がそう伝えれば夏美はそれなら安心だと、出発の日をカレンダーに大きく丸をつけた。本当は一人で島を出るのも飛行機に乗るのも不安だ。しかも海外だなんて、行ったこともない。だが、やはり夏美にとって姉である有紗に会いたい。花嫁姿ならばもっと見てみたい。夏美はその日を楽しみに待つのだった。
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