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焦り
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「当時、私は何を学んだんだろう」
ボランティアに参加した直後、佳代は今のように人を助けたいという思いに溢れていたし、その後も何度かボランティアに参加していたのだが、それから月日を経た今は、完全に当時の思いを忘れている。
ボランティアに参加する前に東京で見たニュースで、身動きの取れない避難所生活の影響で身体が弱っていき、以前のように軽快に動き回れなくなった高齢者や、寝たきりになってしまった高齢者が、神戸や新潟で多くいたとの話が紹介されていた。
佳代は、そのような高齢者の健康を維持したいと願ってボランティアに参加していたのだが、1回目は災害ごみの分別、翌年の2回目は、地元小学生を招いたバーベキューの準備、3回目はボランティアが寝泊まりする施設の掃除、最後に行った4回目の石巻では、ボランティア団体の拠点整備と、避難所となった小学校で子供たちと遊ぶことが主な活動だった。4回とも参加前の志は達成されていない。
自分が参加したボランティアも十分必要なことで、被災者に寄り添い心を癒すことにおいて、十分貢献できたと自負できるのだが、それで満足してしまったことが、完全に忘れてしまっていたことの原因だ、と佳代には分かっていた。
それでも思い出せたのだから、今この施設でそれを達成したいと願って、意を決して、みんなに食事の内容に問題はないのか、とリーダーの豊橋に相談してみることにした。
「確かにね、それは俺も思うよ。
でも変わるのかな?」
折を見て日誌をつけていた豊橋に思いを伝えると、少し考え込んだ様子を見せ、周りの高齢者を見渡しながら、そう返事が返ってきた。
「たくさん食べる人とあまり食べられない人とで、一律同じ食事が同じ量出てくるなんで、おかしいと思います。
白いご飯だけとか、デザートだけとか、食べるものが偏る人もいますし・・・」
「そうなんだよ。
ただ、ナースもいるし、体調管理は問題ないんだよ」
関田さんに至っては、佳代の知る限りほぼ毎日食事はとっていない。自分が食事介助を担当していない日に食べているかもしれないが、それでも食事をとらなさすぎだ。
豊橋の言うとおり、そのような状況でも関田さんの血色は良く、佳代が入社した時と比べて特別弱った様子はない。ただ1日中寝てばかりいて、何もする様子がない。
同じ席の入所者は、楽しくおしゃべりをしたり、トランプや塗り絵を楽しんでいるので、この陰影の差が佳代に大きな印象を与える。
同じ席で同じ環境にある入所者なのに、一方は寝てばかりで痴ほう症が進んでいて、一方は比較的頭がはっきりしているし、完食とはいかないが毎日ほとんど食べているのだ。
老化が進めば、胃腸も弱ってきて消化能力が落ちてくるだろうし、筋力も落ちてきて基礎代謝も減ってくる。おのずと食べる量も減る。
老いと虚弱化のスパイラルにはまっていないのか、との考えを真っ向から否定するスタッフはいなかったが、これといった改善策などが示されることもなかった。みんな分かっているが、素人は傍観するしかないと考えているのだろう。
佳代は言った。
「たとえば、食べられなくなっている人には、少量でも十分栄養が取れるような献立にするとかはどうでしょうか。
ここの食事はすばらしいと思いますが、食べられなければ意味がありません。
メニューは毎回違いますが、それでも同じメニューを定期的に繰り返しているだけのように思えます。
揚げ物が出る回数も多いですし、もう少し胃に負担がかからない物とか、考えた方がいいんじゃないでしょうか。
それに、DHAやフラボノイド、フィトケミカルが豊富になるような献立とか、脳や筋肉に良く、医食同源というか、食事療法になるような献立はできないでしょうか。
調べると、ある成分がボケ防止に良いとか、筋肉の分解を抑制してくれるとか、色々な良い成分が発見されているし、しかも普通の野菜に含まれていたりします。
食は命の基だと思いますし、私たちの体は食べたものからできていると思います。
食べることはとても楽しいことですし、そう思わせることで、皆さんにも良い刺激になると思うんす。
食事制限がある方は別として、私は、しっかり食べてくれるように献立を工夫するべきだと思うんです」
いつも考えていたことだからなのか、本人も意外に思うほど佳代の口は流暢に言葉を発した。
「ただ、無理に食べさせてはいけないよ。
誤嚥の可能性があるし。
早坂さんは、沢山食べさせようとする傾向があるから、気を付けてね」
「はい」
豊橋は佳代ががんばっていることをほめつつ、食事介助の危険性を淡々と述べた。
何も知らずに行うのであれば、食事介助、口腔ケア、排せつ介助の中で、食事介助が一番楽そうである。実際、隣に座って、料理をすくって相手の口に運ぶだけだ。
それに対して、排せつ介助は、一人で立ち上がれない高齢者を立たせたり、転ばないように支えたりと、結構体力のいる作業になることもある。さらに介助があってもトイレにいけない入所者は、居室のベッドでオムツ交換をしなければならない。
当然、オムツには便がついていて、それがお尻や太ももを汚している。排せつ介助をされていると理解している入所者ならいいが、わからない入所者はウェットティッシュで下半身を拭われるのを嫌がる。状況によっては、スタッフまで汚れてしまうこともある。
辞めてしまうスタッフの多くは、排せつ介助に耐えられなかったためだ。佳代もそのように考えていたから、豊橋の指摘には意見を述べることもできなかった。
豊橋は続けた。
「高齢者は飲み込む力が弱まってきているし、気道と食道を使い分けることも難しくなっているから、誤って食べたものが肺の方に行ってしまうんだよ。
そうなると、窒息したり誤嚥性肺炎になる可能性もあるし、最悪亡くなってしまうこともありうる。
我々が行う作業の中で一番大変なのは、実は食介なんだ。
早坂さんの言いたいことは分かるし、ここの食事がベストというわけではないけど、他の施設と比べて悪いというわけでもないし、ちゃんと栄養士が考えた食事だし、ナースが全員の体調管理をしている。
こういうところに入る人たちだから、とても健康なわけではないけど、食事が原因で特別悪化しているわけでもない、難しいよね」
豊橋は上に伝えてみる、と言ってくれたが、佳代自身何かが変わるとは思えなかった。誤嚥性肺炎のくだりは佳代の話から外れてはいたものの、命にかかわる重大な作業だということを教えてくれた。
栄養や体調管理に関しては、渡辺さんと安村さん以外に弱っていく様子がないのだから、食事体制に問題があるわけではない。ただの老衰というのか、2人に与えられた天命というのか、人知ではどうすることもできない定めなのだろう。
思うと、移乗やトイレなどを2人で介助しなければならなかった入所者が、1人介助に変更になることもある。臥床対応が解除されることもある。入所者に出た良いことはあまり記憶に残らず、現在進行形の悪いことの印象が強く心に残っている、と不意に佳代は思った。
初めて施設の食事を見た時、結構豪華だと感じた記憶が佳代によみがえる。確か、ご飯とみそ汁、焼いたか煮たかした魚、煮物、サラダか果物。ご飯味噌汁焼魚とお新香からなる焼き魚定食を食べているようなサラリーマンより良い食事だ。
500円を払えばスタッフも食べられる。ジャンクフードで済ます千里もこのくらいは払っているだろうから、値段に対して相当良い内容だ。
塩分を気にしなければならない人、たんぱく質を気にしなければならない人もいる。当たり障りなく全員に出せる病院食のような質素なものではない。
医師に止められているとか、極端に何かを制限しなければならない方を除けば、皆同じ食事をしている。
若い健常者の佳代が毎日食べたとしても栄養に問題ないのだが、何かモヤモヤが残るのは、それだけよい食事であるにもかかわらず、それを食べることのできない安村さんと渡辺さんの変化に、佳代の心が過敏に反応していることが原因なのだ。
ボランティアに参加した直後、佳代は今のように人を助けたいという思いに溢れていたし、その後も何度かボランティアに参加していたのだが、それから月日を経た今は、完全に当時の思いを忘れている。
ボランティアに参加する前に東京で見たニュースで、身動きの取れない避難所生活の影響で身体が弱っていき、以前のように軽快に動き回れなくなった高齢者や、寝たきりになってしまった高齢者が、神戸や新潟で多くいたとの話が紹介されていた。
佳代は、そのような高齢者の健康を維持したいと願ってボランティアに参加していたのだが、1回目は災害ごみの分別、翌年の2回目は、地元小学生を招いたバーベキューの準備、3回目はボランティアが寝泊まりする施設の掃除、最後に行った4回目の石巻では、ボランティア団体の拠点整備と、避難所となった小学校で子供たちと遊ぶことが主な活動だった。4回とも参加前の志は達成されていない。
自分が参加したボランティアも十分必要なことで、被災者に寄り添い心を癒すことにおいて、十分貢献できたと自負できるのだが、それで満足してしまったことが、完全に忘れてしまっていたことの原因だ、と佳代には分かっていた。
それでも思い出せたのだから、今この施設でそれを達成したいと願って、意を決して、みんなに食事の内容に問題はないのか、とリーダーの豊橋に相談してみることにした。
「確かにね、それは俺も思うよ。
でも変わるのかな?」
折を見て日誌をつけていた豊橋に思いを伝えると、少し考え込んだ様子を見せ、周りの高齢者を見渡しながら、そう返事が返ってきた。
「たくさん食べる人とあまり食べられない人とで、一律同じ食事が同じ量出てくるなんで、おかしいと思います。
白いご飯だけとか、デザートだけとか、食べるものが偏る人もいますし・・・」
「そうなんだよ。
ただ、ナースもいるし、体調管理は問題ないんだよ」
関田さんに至っては、佳代の知る限りほぼ毎日食事はとっていない。自分が食事介助を担当していない日に食べているかもしれないが、それでも食事をとらなさすぎだ。
豊橋の言うとおり、そのような状況でも関田さんの血色は良く、佳代が入社した時と比べて特別弱った様子はない。ただ1日中寝てばかりいて、何もする様子がない。
同じ席の入所者は、楽しくおしゃべりをしたり、トランプや塗り絵を楽しんでいるので、この陰影の差が佳代に大きな印象を与える。
同じ席で同じ環境にある入所者なのに、一方は寝てばかりで痴ほう症が進んでいて、一方は比較的頭がはっきりしているし、完食とはいかないが毎日ほとんど食べているのだ。
老化が進めば、胃腸も弱ってきて消化能力が落ちてくるだろうし、筋力も落ちてきて基礎代謝も減ってくる。おのずと食べる量も減る。
老いと虚弱化のスパイラルにはまっていないのか、との考えを真っ向から否定するスタッフはいなかったが、これといった改善策などが示されることもなかった。みんな分かっているが、素人は傍観するしかないと考えているのだろう。
佳代は言った。
「たとえば、食べられなくなっている人には、少量でも十分栄養が取れるような献立にするとかはどうでしょうか。
ここの食事はすばらしいと思いますが、食べられなければ意味がありません。
メニューは毎回違いますが、それでも同じメニューを定期的に繰り返しているだけのように思えます。
揚げ物が出る回数も多いですし、もう少し胃に負担がかからない物とか、考えた方がいいんじゃないでしょうか。
それに、DHAやフラボノイド、フィトケミカルが豊富になるような献立とか、脳や筋肉に良く、医食同源というか、食事療法になるような献立はできないでしょうか。
調べると、ある成分がボケ防止に良いとか、筋肉の分解を抑制してくれるとか、色々な良い成分が発見されているし、しかも普通の野菜に含まれていたりします。
食は命の基だと思いますし、私たちの体は食べたものからできていると思います。
食べることはとても楽しいことですし、そう思わせることで、皆さんにも良い刺激になると思うんす。
食事制限がある方は別として、私は、しっかり食べてくれるように献立を工夫するべきだと思うんです」
いつも考えていたことだからなのか、本人も意外に思うほど佳代の口は流暢に言葉を発した。
「ただ、無理に食べさせてはいけないよ。
誤嚥の可能性があるし。
早坂さんは、沢山食べさせようとする傾向があるから、気を付けてね」
「はい」
豊橋は佳代ががんばっていることをほめつつ、食事介助の危険性を淡々と述べた。
何も知らずに行うのであれば、食事介助、口腔ケア、排せつ介助の中で、食事介助が一番楽そうである。実際、隣に座って、料理をすくって相手の口に運ぶだけだ。
それに対して、排せつ介助は、一人で立ち上がれない高齢者を立たせたり、転ばないように支えたりと、結構体力のいる作業になることもある。さらに介助があってもトイレにいけない入所者は、居室のベッドでオムツ交換をしなければならない。
当然、オムツには便がついていて、それがお尻や太ももを汚している。排せつ介助をされていると理解している入所者ならいいが、わからない入所者はウェットティッシュで下半身を拭われるのを嫌がる。状況によっては、スタッフまで汚れてしまうこともある。
辞めてしまうスタッフの多くは、排せつ介助に耐えられなかったためだ。佳代もそのように考えていたから、豊橋の指摘には意見を述べることもできなかった。
豊橋は続けた。
「高齢者は飲み込む力が弱まってきているし、気道と食道を使い分けることも難しくなっているから、誤って食べたものが肺の方に行ってしまうんだよ。
そうなると、窒息したり誤嚥性肺炎になる可能性もあるし、最悪亡くなってしまうこともありうる。
我々が行う作業の中で一番大変なのは、実は食介なんだ。
早坂さんの言いたいことは分かるし、ここの食事がベストというわけではないけど、他の施設と比べて悪いというわけでもないし、ちゃんと栄養士が考えた食事だし、ナースが全員の体調管理をしている。
こういうところに入る人たちだから、とても健康なわけではないけど、食事が原因で特別悪化しているわけでもない、難しいよね」
豊橋は上に伝えてみる、と言ってくれたが、佳代自身何かが変わるとは思えなかった。誤嚥性肺炎のくだりは佳代の話から外れてはいたものの、命にかかわる重大な作業だということを教えてくれた。
栄養や体調管理に関しては、渡辺さんと安村さん以外に弱っていく様子がないのだから、食事体制に問題があるわけではない。ただの老衰というのか、2人に与えられた天命というのか、人知ではどうすることもできない定めなのだろう。
思うと、移乗やトイレなどを2人で介助しなければならなかった入所者が、1人介助に変更になることもある。臥床対応が解除されることもある。入所者に出た良いことはあまり記憶に残らず、現在進行形の悪いことの印象が強く心に残っている、と不意に佳代は思った。
初めて施設の食事を見た時、結構豪華だと感じた記憶が佳代によみがえる。確か、ご飯とみそ汁、焼いたか煮たかした魚、煮物、サラダか果物。ご飯味噌汁焼魚とお新香からなる焼き魚定食を食べているようなサラリーマンより良い食事だ。
500円を払えばスタッフも食べられる。ジャンクフードで済ます千里もこのくらいは払っているだろうから、値段に対して相当良い内容だ。
塩分を気にしなければならない人、たんぱく質を気にしなければならない人もいる。当たり障りなく全員に出せる病院食のような質素なものではない。
医師に止められているとか、極端に何かを制限しなければならない方を除けば、皆同じ食事をしている。
若い健常者の佳代が毎日食べたとしても栄養に問題ないのだが、何かモヤモヤが残るのは、それだけよい食事であるにもかかわらず、それを食べることのできない安村さんと渡辺さんの変化に、佳代の心が過敏に反応していることが原因なのだ。
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