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土の香り
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みのるは、毎月この日が待ち遠しかった。普段は太田市周辺で過ごす休日であったが、月に1度は、必ず水戸市に行くのだ。2人の目的は、駅と繋がる情行ビル内にあるレストランで食事をすることであるが、みのるにとって、それ以上の楽しみがあった。
水戸は、言わずと知れた納豆の産地で、それは誰もが認めるところだろう。青森や福島など、納豆の産地は他にもあって、その消費量は茨城県を越えるらしいが、納豆の産地として全国で有名なのは、やはり水戸だろう。
諸説あるが、日本の納豆発祥の地という歴史もある。
遠い昔の1083年、源義家が奥州に向かうために、水戸を進軍していた時の事であった。軍馬用の飼料として煮豆を藁に包んで馬にぶら下げていたところ、発酵してしまい白く粘ってしまった。
驚いた家臣からそれを報告された義家が試しに食べてみると、これがまた美味い。義家は、その豆を神社に奉納して戦勝祈願を行った。それが、幾つかある納豆の言い伝えの1つである。
実際の所どうだか分からないが、流通する商品としての納豆が生まれたのは、確かに茨城らしい。
もともと納豆は、自分達で作るものであって、どこかで買い求めるようなものでは無かった。幕末から明治に代わるか否かの頃、茨城から来た男性が、1つのことに気が付いた。江戸の庶民の間で、納豆が流行しているのだ。
水戸に帰れば納豆は腐るほど?作る事が出来る。これを江戸に持ってきて商売をすれば、成功できるのではないかと考えた彼は、さっそく故郷に帰って納豆の生産と、江戸での販売を始めた。
それが大当たりで大成功した結果、今の納豆文化が全国に花開いたのだ。関西ではあまり食べられることのない粘り気のある納豆だが、今日北海道から沖縄まで、納豆は生産されていて、美味しいご当地納豆が生まれている。
冷蔵庫にあれば食べる程度の納豆であったが、みのるにとって今日買う納豆は特別な納豆だ。どの納豆を食べても美味しいと思うが、この納豆は格別に香りが良く、深みのある味は喉の奥へ吸い込まれ、呼吸と共に鼻に抜けていく。
人は、物を食べた時、味だけではなく香りも味わっているという。匂いを感じる鼻腔と味を感じる口腔は繋がっているのだから、それもそのはずだ。食べた事が無くても、匂いを嗅げば味を想像できるし、味わえば香りを思い起こす事が出来る。
この納豆の香りを嗅ぐと、記憶にないほど古く幼い頃の思い出が甦る様な気がするのだ。
匂いを感じる神経は脳の中枢へ、ダイレクトに香りの情報を届ける事が出来る。他に類を見ない特別な香りと味のする納豆が、みのるの脳裏に深く刻まれているのも納得がいく。
納豆専門店は、早くから営業していた。みのるが来るのはお昼を食べてからだから、多くの人気商品は売れてしまっている。駅から近い事もあって、立ち寄る観光客が多いのだ。
店に入ると、甘くふくよかで深みのある香りが充満していた。藁独特の香りで、このような良い香りを、みのるはここ以外で嗅いだことが無い。
新しい畳の清々しい香りも好きだが、彼は藁の香りの方が好きだった。もし出来るのであれば、ここの藁で畳を作って売ってほしい。
「あら、みのる君、また来てくれたのね、おばさん嬉しいわ」
「こんにちは、また見学して良い?」
「良いわよ、でもよく飽きないわね」
「うん、この匂いが好きなんだ。
こんな家に住みたいよ」
「いつもそう言うけど、そんなに匂うの?
全然分からないわ、ずっとここにいるから鼻が慣れちゃったのかしら」
「本当?外まで良い香りがしてるよ。
おばさん、本当に分からないの?」
みのるは、いつも聞く社員の話に半信半疑だ。
工場を兼ね備えたこの店舗は、それほど大きいわけではない。歴史と伝統のある店で、2階では、納豆の歴史をパネル展示していて、みのるはいつも見に行っていた。展示パネルに変化はないのだが、出来るだけ長く藁の香りを嗅いでいたいがために、必ず階段を上る。
創業者に関する説明、商業用納豆の歴史、世界の納豆文化について、関西と関東の納豆の違い、日本全国の納豆などが紹介されていて、ぐるっと一周してから、ガラス越しの工場を見に行く。
工場は2レーンからなっていて、藁納豆とカップ納豆を作っている。完成品は茶色に近い黄土色をしているが、詰めている豆は、まだ大豆色をしている。それが、機械を通ると完成品になって出てくる。販売されるまでの間に醗酵して納豆になるのが、不思議でたまらない。
目に見えないが、生きて納豆を醗酵させている。納豆菌の神秘を感じるみのるであった。
みのるは、それをしばらく見て、膝が疲れてからようやく店舗へと戻って納豆を選ぶ。大抵は、円筒形の丸いカップが3つ入った商品を買うが、本当は藁納豆が買いたい。
以前何度か買ってもらった事があるのだが、藁と納豆の香りがとても素敵だったので、みのるは宝物として取っておいた。しばらくすると、納豆の臭いが部屋を覆って、真一に気が付かれてしまった。
ちょうど夏休みだったから、小さな虫が納豆の糸に絡まっていて、見ていてとても気持ちの良い物ではなくなっていた。それ以来、真一は藁納豆を買ってくれなくなってしまったのだ。
実際、真一にとって、それは口実に過ぎない。みのるが欲しがる納豆は土産物だから、スーパーで買う納豆と比べて、結構な値段がする。味の違いは分かるのだが、値段を見ると、スーパーで良いのではと思ってしまう。結果として、みのるはいつも一番安い円筒形のカップの物を買っている。
店には、他に納豆を使ったお菓子なども置いてあるのだが、それには目もくれない。必ずお店で箸を貰って、駅まで戻る間に1つ食べ歩く。
とても心が落ち着く優しい香りだ。栄養豊かな腐葉土の様な香りである。掻き混ぜている傍からその香りが立ちのべ、口に入れて嚙めば、嚙むほどに腐葉土を思わせる味と香りが広がっていく。
味も香りも消える事が無く、飲みこんだ後もなお、長い事喉の奥で残り香を放つ。舌を転がせて後味を楽しむと、立ち上る香りが鼻腔に広がって、もう一度納豆を堪能できた。
みのるは、今まで数多くの納豆を食べてきたが、このような味の納豆には巡り合えた事が無い。菌が違うのか、藁が違うのか、独自の製法なのか、豆の違いなのか、発酵期間の差なのか分からないが、今まで出会った納豆ランキングの中では、絶対エースの存在だ。
水戸は、言わずと知れた納豆の産地で、それは誰もが認めるところだろう。青森や福島など、納豆の産地は他にもあって、その消費量は茨城県を越えるらしいが、納豆の産地として全国で有名なのは、やはり水戸だろう。
諸説あるが、日本の納豆発祥の地という歴史もある。
遠い昔の1083年、源義家が奥州に向かうために、水戸を進軍していた時の事であった。軍馬用の飼料として煮豆を藁に包んで馬にぶら下げていたところ、発酵してしまい白く粘ってしまった。
驚いた家臣からそれを報告された義家が試しに食べてみると、これがまた美味い。義家は、その豆を神社に奉納して戦勝祈願を行った。それが、幾つかある納豆の言い伝えの1つである。
実際の所どうだか分からないが、流通する商品としての納豆が生まれたのは、確かに茨城らしい。
もともと納豆は、自分達で作るものであって、どこかで買い求めるようなものでは無かった。幕末から明治に代わるか否かの頃、茨城から来た男性が、1つのことに気が付いた。江戸の庶民の間で、納豆が流行しているのだ。
水戸に帰れば納豆は腐るほど?作る事が出来る。これを江戸に持ってきて商売をすれば、成功できるのではないかと考えた彼は、さっそく故郷に帰って納豆の生産と、江戸での販売を始めた。
それが大当たりで大成功した結果、今の納豆文化が全国に花開いたのだ。関西ではあまり食べられることのない粘り気のある納豆だが、今日北海道から沖縄まで、納豆は生産されていて、美味しいご当地納豆が生まれている。
冷蔵庫にあれば食べる程度の納豆であったが、みのるにとって今日買う納豆は特別な納豆だ。どの納豆を食べても美味しいと思うが、この納豆は格別に香りが良く、深みのある味は喉の奥へ吸い込まれ、呼吸と共に鼻に抜けていく。
人は、物を食べた時、味だけではなく香りも味わっているという。匂いを感じる鼻腔と味を感じる口腔は繋がっているのだから、それもそのはずだ。食べた事が無くても、匂いを嗅げば味を想像できるし、味わえば香りを思い起こす事が出来る。
この納豆の香りを嗅ぐと、記憶にないほど古く幼い頃の思い出が甦る様な気がするのだ。
匂いを感じる神経は脳の中枢へ、ダイレクトに香りの情報を届ける事が出来る。他に類を見ない特別な香りと味のする納豆が、みのるの脳裏に深く刻まれているのも納得がいく。
納豆専門店は、早くから営業していた。みのるが来るのはお昼を食べてからだから、多くの人気商品は売れてしまっている。駅から近い事もあって、立ち寄る観光客が多いのだ。
店に入ると、甘くふくよかで深みのある香りが充満していた。藁独特の香りで、このような良い香りを、みのるはここ以外で嗅いだことが無い。
新しい畳の清々しい香りも好きだが、彼は藁の香りの方が好きだった。もし出来るのであれば、ここの藁で畳を作って売ってほしい。
「あら、みのる君、また来てくれたのね、おばさん嬉しいわ」
「こんにちは、また見学して良い?」
「良いわよ、でもよく飽きないわね」
「うん、この匂いが好きなんだ。
こんな家に住みたいよ」
「いつもそう言うけど、そんなに匂うの?
全然分からないわ、ずっとここにいるから鼻が慣れちゃったのかしら」
「本当?外まで良い香りがしてるよ。
おばさん、本当に分からないの?」
みのるは、いつも聞く社員の話に半信半疑だ。
工場を兼ね備えたこの店舗は、それほど大きいわけではない。歴史と伝統のある店で、2階では、納豆の歴史をパネル展示していて、みのるはいつも見に行っていた。展示パネルに変化はないのだが、出来るだけ長く藁の香りを嗅いでいたいがために、必ず階段を上る。
創業者に関する説明、商業用納豆の歴史、世界の納豆文化について、関西と関東の納豆の違い、日本全国の納豆などが紹介されていて、ぐるっと一周してから、ガラス越しの工場を見に行く。
工場は2レーンからなっていて、藁納豆とカップ納豆を作っている。完成品は茶色に近い黄土色をしているが、詰めている豆は、まだ大豆色をしている。それが、機械を通ると完成品になって出てくる。販売されるまでの間に醗酵して納豆になるのが、不思議でたまらない。
目に見えないが、生きて納豆を醗酵させている。納豆菌の神秘を感じるみのるであった。
みのるは、それをしばらく見て、膝が疲れてからようやく店舗へと戻って納豆を選ぶ。大抵は、円筒形の丸いカップが3つ入った商品を買うが、本当は藁納豆が買いたい。
以前何度か買ってもらった事があるのだが、藁と納豆の香りがとても素敵だったので、みのるは宝物として取っておいた。しばらくすると、納豆の臭いが部屋を覆って、真一に気が付かれてしまった。
ちょうど夏休みだったから、小さな虫が納豆の糸に絡まっていて、見ていてとても気持ちの良い物ではなくなっていた。それ以来、真一は藁納豆を買ってくれなくなってしまったのだ。
実際、真一にとって、それは口実に過ぎない。みのるが欲しがる納豆は土産物だから、スーパーで買う納豆と比べて、結構な値段がする。味の違いは分かるのだが、値段を見ると、スーパーで良いのではと思ってしまう。結果として、みのるはいつも一番安い円筒形のカップの物を買っている。
店には、他に納豆を使ったお菓子なども置いてあるのだが、それには目もくれない。必ずお店で箸を貰って、駅まで戻る間に1つ食べ歩く。
とても心が落ち着く優しい香りだ。栄養豊かな腐葉土の様な香りである。掻き混ぜている傍からその香りが立ちのべ、口に入れて嚙めば、嚙むほどに腐葉土を思わせる味と香りが広がっていく。
味も香りも消える事が無く、飲みこんだ後もなお、長い事喉の奥で残り香を放つ。舌を転がせて後味を楽しむと、立ち上る香りが鼻腔に広がって、もう一度納豆を堪能できた。
みのるは、今まで数多くの納豆を食べてきたが、このような味の納豆には巡り合えた事が無い。菌が違うのか、藁が違うのか、独自の製法なのか、豆の違いなのか、発酵期間の差なのか分からないが、今まで出会った納豆ランキングの中では、絶対エースの存在だ。
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