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モモタとママと虹の架け橋
第百三十七話 奇跡
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暴れ狂う竜蛇の背のような高波の合間に、一艘の漁船が落ちた枯葉のように翻弄されています。若武丸と名付けられたこの船には、亜紀ちゃんのパパとアルバイトの宗一君が乗っていました。漁船の大きさを越える高波が幾度も襲ってきます。いつ転覆してしまってもおかしくない状況でした。
パパが叫びます。
「宗一君、絶対に離すんじゃないぞ」
「はいっ」
操舵室のない小さな漁船です。宗一君は、ブルゾンで体を手すりに括りつけて、必死にしがみついていました。パパは、操縦桿をしっかりと握りしめて、かじを取り続けています。
そこに大きな波が湧き立ちました。船は、波の上に引きずられるようにして持ち上げられて、砕波と共に落ちていきます。それを幾度となく繰り返しました。
エンジンはかかりません。経年劣化による故障なのか、軽石を飲みこんでしまって故障したのか、原因は定かではありません。よく整備された綺麗な漁船でしたし、燃料もいっぱいですから、人為的な不備はないはずです。
何度目かの高波に持ち上げられて海面に叩き落とされた時に、勢いに耐えきれずにパパのブルゾンが手すりからほどけました。
絶望の瞬間です。宗一君が声にならない声で叫びました。パパも叫びます。お互いの耳に届くそれぞれの声は、みるみる間に遠のいていきました。
船が海面に叩きつけられた衝撃で甲板に投げ出されたパパは、平手を叩き落とすかのごとき波に鷲掴みにされてさらわれて、海に流されてしまったのです。
「宗一くーーん」パパが宗一君に呼びかけました。「かじを離すな。なんとかして耐え抜くんだ! いつか嵐が治まるまでー‼」
「島田さーん!」
宗一君の声が暴風にかき消されます。
パパの姿は、くすんだ色の波間の中に消えていきました。藻屑のように。
パパは、必死にもがき苦しんでいます。ですが、十数メートルもの大波を幾度となく浴びる中ではほとんど呼吸もままなりません。だんだんと意識が遠のいていきました。そして終いには、海水の重みで手足を動かすことも出来なくなって、暗い海に沈んでいきます。
苦しみと共に恐怖が口から流れ込んできました。息を止めておくことが出来ずに、海水を肺に飲み込んでしまったのです。
(ああ…死ぬんだ・・・。俺は死ぬんだ)
そう何もかも諦めかけた時のことです。不意に沈みゆく体が軽くなりました。海底に足がついたのかと思ったパパでしたが、もはや手足を動かそうとも思えません。そのまま意識が朦朧としていきます。
(紀子。亜紀。さようなら。もう一度、一目だけでも会いたかったけれど、ごめんな。二人を守ってやれなくって。亜紀の成人式、振袖見たかったな。ウエディングドレス姿も見たかったな。挨拶に来た男を一発ぶん殴ってもやりたかったな)
「パパ」不意に亜紀ちゃんの声が聞こえました。
パパは、これが死にゆく者が見るという走馬灯の始まりか、と思いました。それでも、最後に娘との思い出を思い出しながら死ねるならまだ幸せだと考え、眠りにつこうとしていました。
不思議と苦しくありません。パパは、(死ぬとはこういうことか、安らかになるんだな)と思いました。
「パパ」また亜紀ちゃんの声が聞こえました。「パパ」また聞こえます。
混濁した意識を押してまぶたを開けようとしますが、開きません。
「パパ」また聞こえました。「パパ、頑張ってパパ! お願い帰ってきて」
その声が聞こえたパパは、頑張ってまぶたをこじ開けます。
パパは何が起こっているのか理解できません。なんと目の前に広がる海底は、六つの色が混じり合った淡い光に包まれていたのです。いったいどうしたことでしょう。暗い海底に沈んでいるはずなのに。
まったくの無音の世界でした。潮の流れも感じません。
(そうだ。諦めちゃダメだ。亜紀が…亜紀が応援してくれているじゃないか・・・)
そういう思いが心に湧いたパパは、飲みこんだ海水を吐き出します。それと同時に、パパの体は浮力を得たかのようにゆっくりと浮かび上がっていきました。
不思議な体験でした。もはや自分は死んでいるのではないかとも思いました。ですが、海面に浮かび上がった瞬間、連続ビンタを浴びせられたかのような暴風雨を顔面に食らって、我に返りました。
(まだ死んでいない)パパは確信しました。ですが、暴風雨の中では完全に無力でしかありません。にもかかわらず、パパの体はうねる波に潰されはしませんでした。ずっと遠くから自分を照らす一筋の光にいざなわれるかのように、波に逆らって流れていきます。
ありえないことでした。波の流れは四方八方にめまぐるしく変わるのに、パパの体は一定方向に流されていたからです。
遠くの波間に漁船が見えました。あの形は自分の船だとすぐに気がつきました。漁船も自分も光の道の中、一直線に浮かんでいます。宗一君の姿も見えました。船は、パパと同じように光に引っ張られれて、右舷後方に向かって流されています。そして、だんだんとお互いの距離を縮めていきました。
波が襲いくるたびに、明らかに転覆してしまうというほどに傾くにもかかわらず、船は転覆する様子を見せません。さらには大波にのみ込まれてもなお沈まずに、幾度も浮上してきて漂い続けています。
何度かのすれ違いを経て、パパはなんとか船の縁に掴まることが出来ました。宗一君が伸ばした腕に掴まって引き上げてもらいます。
「よかった・・・。島田さん、生きていたんですね」宗一が言いました。
「ああ、信じられないけどな」
「僕もです。何度も転覆したのに」
宗一君の話では、砕波した波にひっくり返されて、そのまま海面に叩きつけられたらしいのです。木端微塵になるような衝撃を受けたにもかかわらず、打撲も骨折もしていないばかりか、長いこと溺れていたのに苦しくならなかったというのです。
宗一君が、荒れ狂う暴風の音を押しのけるように、パパに叫びかけました。
「亜紀ちゃんが…亜紀ちゃんの声が聞こえたんです。『死んじゃダメ』って」
記憶が混乱しているようでしたが、宗一君の体験はパパと同じような内容でした。
後に、パパと宗一君は、みんなにこのことを話しました。みんなは息を飲んで聞いています。その表情は、とても信じられない、といった様子でした。無理もありません。本人たちでさえ、その時にこの海難事故を振り返って思い出してみても、とても信じられる経験ではありませんでしたから。
パパが叫びます。
「宗一君、絶対に離すんじゃないぞ」
「はいっ」
操舵室のない小さな漁船です。宗一君は、ブルゾンで体を手すりに括りつけて、必死にしがみついていました。パパは、操縦桿をしっかりと握りしめて、かじを取り続けています。
そこに大きな波が湧き立ちました。船は、波の上に引きずられるようにして持ち上げられて、砕波と共に落ちていきます。それを幾度となく繰り返しました。
エンジンはかかりません。経年劣化による故障なのか、軽石を飲みこんでしまって故障したのか、原因は定かではありません。よく整備された綺麗な漁船でしたし、燃料もいっぱいですから、人為的な不備はないはずです。
何度目かの高波に持ち上げられて海面に叩き落とされた時に、勢いに耐えきれずにパパのブルゾンが手すりからほどけました。
絶望の瞬間です。宗一君が声にならない声で叫びました。パパも叫びます。お互いの耳に届くそれぞれの声は、みるみる間に遠のいていきました。
船が海面に叩きつけられた衝撃で甲板に投げ出されたパパは、平手を叩き落とすかのごとき波に鷲掴みにされてさらわれて、海に流されてしまったのです。
「宗一くーーん」パパが宗一君に呼びかけました。「かじを離すな。なんとかして耐え抜くんだ! いつか嵐が治まるまでー‼」
「島田さーん!」
宗一君の声が暴風にかき消されます。
パパの姿は、くすんだ色の波間の中に消えていきました。藻屑のように。
パパは、必死にもがき苦しんでいます。ですが、十数メートルもの大波を幾度となく浴びる中ではほとんど呼吸もままなりません。だんだんと意識が遠のいていきました。そして終いには、海水の重みで手足を動かすことも出来なくなって、暗い海に沈んでいきます。
苦しみと共に恐怖が口から流れ込んできました。息を止めておくことが出来ずに、海水を肺に飲み込んでしまったのです。
(ああ…死ぬんだ・・・。俺は死ぬんだ)
そう何もかも諦めかけた時のことです。不意に沈みゆく体が軽くなりました。海底に足がついたのかと思ったパパでしたが、もはや手足を動かそうとも思えません。そのまま意識が朦朧としていきます。
(紀子。亜紀。さようなら。もう一度、一目だけでも会いたかったけれど、ごめんな。二人を守ってやれなくって。亜紀の成人式、振袖見たかったな。ウエディングドレス姿も見たかったな。挨拶に来た男を一発ぶん殴ってもやりたかったな)
「パパ」不意に亜紀ちゃんの声が聞こえました。
パパは、これが死にゆく者が見るという走馬灯の始まりか、と思いました。それでも、最後に娘との思い出を思い出しながら死ねるならまだ幸せだと考え、眠りにつこうとしていました。
不思議と苦しくありません。パパは、(死ぬとはこういうことか、安らかになるんだな)と思いました。
「パパ」また亜紀ちゃんの声が聞こえました。「パパ」また聞こえます。
混濁した意識を押してまぶたを開けようとしますが、開きません。
「パパ」また聞こえました。「パパ、頑張ってパパ! お願い帰ってきて」
その声が聞こえたパパは、頑張ってまぶたをこじ開けます。
パパは何が起こっているのか理解できません。なんと目の前に広がる海底は、六つの色が混じり合った淡い光に包まれていたのです。いったいどうしたことでしょう。暗い海底に沈んでいるはずなのに。
まったくの無音の世界でした。潮の流れも感じません。
(そうだ。諦めちゃダメだ。亜紀が…亜紀が応援してくれているじゃないか・・・)
そういう思いが心に湧いたパパは、飲みこんだ海水を吐き出します。それと同時に、パパの体は浮力を得たかのようにゆっくりと浮かび上がっていきました。
不思議な体験でした。もはや自分は死んでいるのではないかとも思いました。ですが、海面に浮かび上がった瞬間、連続ビンタを浴びせられたかのような暴風雨を顔面に食らって、我に返りました。
(まだ死んでいない)パパは確信しました。ですが、暴風雨の中では完全に無力でしかありません。にもかかわらず、パパの体はうねる波に潰されはしませんでした。ずっと遠くから自分を照らす一筋の光にいざなわれるかのように、波に逆らって流れていきます。
ありえないことでした。波の流れは四方八方にめまぐるしく変わるのに、パパの体は一定方向に流されていたからです。
遠くの波間に漁船が見えました。あの形は自分の船だとすぐに気がつきました。漁船も自分も光の道の中、一直線に浮かんでいます。宗一君の姿も見えました。船は、パパと同じように光に引っ張られれて、右舷後方に向かって流されています。そして、だんだんとお互いの距離を縮めていきました。
波が襲いくるたびに、明らかに転覆してしまうというほどに傾くにもかかわらず、船は転覆する様子を見せません。さらには大波にのみ込まれてもなお沈まずに、幾度も浮上してきて漂い続けています。
何度かのすれ違いを経て、パパはなんとか船の縁に掴まることが出来ました。宗一君が伸ばした腕に掴まって引き上げてもらいます。
「よかった・・・。島田さん、生きていたんですね」宗一が言いました。
「ああ、信じられないけどな」
「僕もです。何度も転覆したのに」
宗一君の話では、砕波した波にひっくり返されて、そのまま海面に叩きつけられたらしいのです。木端微塵になるような衝撃を受けたにもかかわらず、打撲も骨折もしていないばかりか、長いこと溺れていたのに苦しくならなかったというのです。
宗一君が、荒れ狂う暴風の音を押しのけるように、パパに叫びかけました。
「亜紀ちゃんが…亜紀ちゃんの声が聞こえたんです。『死んじゃダメ』って」
記憶が混乱しているようでしたが、宗一君の体験はパパと同じような内容でした。
後に、パパと宗一君は、みんなにこのことを話しました。みんなは息を飲んで聞いています。その表情は、とても信じられない、といった様子でした。無理もありません。本人たちでさえ、その時にこの海難事故を振り返って思い出してみても、とても信じられる経験ではありませんでしたから。
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