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鬼胎
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一瞬呼吸を忘れた洋介であったが、咄嗟に頭を突っ込んで、左のレールを見やる。その瞬間、蠢く何かが引っ込んだ。反対側を見ると、蠢く何かはそこにもいた。右側のは、覆いの下のほうまで伸びていたのが、洋介が視線を向けるや否や、凄い勢いで登っていって、上の接合部分の奥に消えた。
ミミズのようにのた打ち回る糞便のようだった。ひび割れがたくさんある少し硬めの糞だ。デロデロのスライムのようなもののはずだが、そのように見えた。
洋介が目を凝らして見てみると、何かが消えた接合部分は覆いの角っこで、隠れられるような隙間はない。なにを思ったのか、洋介は徐にコの字型の覆いに指を突っ込んだ。指に伝わる不気味な感触。ヤツデやミミズのような長い虫で満たされた器に指を突っ込んだかのようだ。狭く細長いコの字型のレールの隙間に、一体どれだけ巣食っているのか。何百何千という何かが、つっこまれた洋介の四本の指の上を這いまわる。悍ましい感触が脊髄を通って脳天を突き抜けた。
ボタボタと落ちてくる何かは、最初のと同様白濁とした塊だった。やはり蠢いている。そして溶けて消えた。
洋介は、必死にそれらを掻き出したが、一向になくなる気配はない。
「なんなんだよ、これ! 隠れる場所なんてないじゃんか。なのになんでいつまでも出てくんだよ」
洋介は呟きながら、息の詰まる思いを必死に堪える。
左に向き直って奥の壁のレールに内側にねじった左手の指を突っ込んだその時、何かが潰れた。指先から全身へゾワゾワと悪寒が走って硬直する。動いているのは何かだけだ。のた打ち回る何かが、洋介の指をしばいている。
「こいつか」洋介は殺意を覚えた。
左手でそいつを押さえたまま右手を添える。潰してやろう、と思った。
勢いよく右手の指で潰しにかかろうとした瞬間、左の指で潰された部分を千切って、何かは逃げた。慌てて取り押さえようと、右の指で何度もレールの中を抑える。そして追いかけて頭をカバーの中に突っ込む。
飛び出てきた何かは、最初に見て思った通りの姿をしていた。ひび割れた一本の糞のような姿だ。ミミズと言うよりウナギのような太さだ。いや、大きさは二、三十センチの大ミミズくらいだが、長さに対して太い。
それは、洋介の顔面を這いずりまわって首筋を回ってうなじを通り、右の頬に出てきた。
びっくりした洋介は思わず身をあげて、頭をカバーの側面にぶつけた。「あっ、あっ」洋介が情けない声を出す。糞ミミズのような何かが鼻の右穴から入ろうとしている。半分くらい入って、咽頭を鼻腔側から圧迫する。しかも無秩序に幾度も。
「たっ助けて!」思わず洋介は叫び、両手でそれを掴んで引っ張り出そうとする。だがそれは千切れて、半分が喉の奥へと這い込んでくる。咽喉に落ちたところで吐き出したそれは、ビチビチとのた打ち回って、水槽の側面にある縁の下に隠れた。
引っ張り出したもう片方は、洋介の指から逃れて、カバーのコの字型の覆いに向かって弾けるように飛ぶ。洋介は逃がすまい、と何度も平手打ちをかますが当らない。カバーの中に平手の音がバンバン、と響く。
左の二の腕から脇の下にかけて、ヌメリのある感触が這いあがってきた。吐き出したもう片方のほうだ。洋介は慌てて、這いまわる何かを追って作業着の上から何度も捕まえようとした。背骨脂のような感触だ。
左肩を這いあがって左胸を通って腹部に下りたそれを作業着の上から握りつぶす。潰れた何かは、潰れてもなお蠢き続けていた。ゼラチン質というか、寒天というか、ミンチにした脊髄か脂身のような感触だった。それが、昔顕微鏡で見たミジンコのように、ビチビチと蠢いている。作業着の中で、胸とみぞおちの上を。そして溶けて、腹の上を滴り落ちていく。
もう嫌だ。そう思った洋介は、ウォッシャーの中から這い出ようとした。気がついた時には、上に逃れた方を追いかけてウォッシャー台の上に登って座っていた。足を床に下ろして仰け反って身を出そうとした時、急に、台の端に座っていたケツが濡れた。すごい勢いで何かが下着に沁み入ってきたかと思った瞬間、ウォッシャー台がぬめって水槽の中にケツが落ちる。
もがきながら頭を出そうと腰を折った洋介の上に、大量の何かが落ちてきた。それらは、襟から、袖から、ボタンとボタンの隙間から入って来て、肌の上を這いずりまわる。エプロンで縛られたズボンと腰の合間をのた打ちまわりながら入り込んできた。ボクサーパンツの腰のゴムをくぐることが出来ずに、モモの隙間に回って陰部へと絡みつく。
洋介は「はぁっ」と息を吐いた。だが今はそんな流暢にしていられる場合ではない。尿道に入ってきた。痛い。激痛が性器の管から膀胱に響く。肛門の中にも何匹も入ってくる。ケツの筋肉を締め付けると、肛門の中でつぶれる感触が皮膚に湧き出る。
溺れた時に水が勢いよく口の中に入ってきたかのように、大量に口内へと押し寄せた何かが、強引に喉の奥へと押し入る。
「ガボガボ、だずげで、でんじょう、だずけで」
洋介がこもった声で叫ぶ。鈍い音が頭に響いた。自分の声だ。
店長は来なかった。ウォッシャーから見える洗いあがった食器を置くステンレス製の網棚の向こうで、店長が仕込みをしているのが見える。「でんじょう! でんじょう!」洋介は叫び続けた。
調理台の上で仕込んだミンチ肉を、昨日出たであろう残飯に混ぜた店長は、それを両手いっぱいに掬い上げて、後ろにあるグリル台に向き直った。そしてしゃがみ込んで、徐にグリル台の下にある油受け辺りに塗りたくり始めた。
(何やってるんだよ店長)洋介が心で叫ぶ。出ようにも出られない。ウォッシャー全体が脂にまみれて、どこを掴もうとしても滑る。
それなら、と思った洋介は、逆にウォッシャーの中に入った。水槽の中に両足をつければ、ぬめって身を起こせないということはない。なんせ狭いから、両足を開いてしまえば側面にあたる。左足を前に出してつま先を角に当てた。そして右足を下げてかかとを角に当てる。
(これならどうだ)と洋介は思った。(こうすれば俺を襲えないだろ)洋介は糞ミミズのような、何か相手に不敵な笑みをこぼす。だが外に出られない。両手に絡みついた糞ミミズのような何かは、さっきまでとはうって変わって、ミミズのような形をしていなかった。クラッシュしたゼリーのように、洋介の全身に広がっている。あたかも増殖しているようだ。いや、増殖している。すごい勢いで厚みを増していく。
目も鼻も耳も口もふさがる。視界はすりガラス越しに景色を見ているようになった。まぶたと眼球の隙間に入って、頭がい骨の中で蠢いている。圧迫感と言うか軽重い重力感が、垂れる涎のように脳や目玉をなめる。
鼻で息を吸うと、クラッシュしたゼリー状の何かが、鼻腔を通って咽頭に落ちてきた。吐き出そうと口を開くと、唇を覆っていた何かが、更に口の中へとどっと流れ込んでくる。そして、咽喉の奥にぶつかって、食道へと落ちていった。
胸の奥で蠢いているのが分かる。胃の中から腹を押す。終いには、身長百七十センチちょい、体重七十キロの洋介を持ち上げた。クラッシュゼリー状の何かに覆われた洋介は、崩れた体育座りの格好で、ウォッシャーのカバーの中に引き上げられていった。十一時過ぎであった。
―――しばらくしてホールの客席を一通り拭いて回った井上が、鈴木と共にキッチンに入ってきた。辺りを見渡した井上は、キョロキョロと辺りを見渡して、野菜を切っていた店長に訊いた。
「あれ? 安達さんは?」
数秒の間をおいて店長は一瞬動くのをやめ、ニンマリと暗く光る不気味な笑顔で井上の方を向いて答えた。
「うん、早退してもらった。今日はこの時間もうお客さん来ないだろうしね。十二時からピーク要員が来てしまえば人余りになるから」
井上は納得したように「ああなるほど」と生返事をして、道具をかたし始める。
清掃用具を入れたロッカーへと歩んでいく二人を見送った店長は、ゆっくりと静かに入り口に行って、『機器点検のため営業時間を変更します。オープン11時半』と書かれた張り紙を自動ドアのガラスから剥がして戻ってきた。
それから間もなくして、早めに昼休憩に入った会社員たちが店内へと入ってきた。
おわり
ミミズのようにのた打ち回る糞便のようだった。ひび割れがたくさんある少し硬めの糞だ。デロデロのスライムのようなもののはずだが、そのように見えた。
洋介が目を凝らして見てみると、何かが消えた接合部分は覆いの角っこで、隠れられるような隙間はない。なにを思ったのか、洋介は徐にコの字型の覆いに指を突っ込んだ。指に伝わる不気味な感触。ヤツデやミミズのような長い虫で満たされた器に指を突っ込んだかのようだ。狭く細長いコの字型のレールの隙間に、一体どれだけ巣食っているのか。何百何千という何かが、つっこまれた洋介の四本の指の上を這いまわる。悍ましい感触が脊髄を通って脳天を突き抜けた。
ボタボタと落ちてくる何かは、最初のと同様白濁とした塊だった。やはり蠢いている。そして溶けて消えた。
洋介は、必死にそれらを掻き出したが、一向になくなる気配はない。
「なんなんだよ、これ! 隠れる場所なんてないじゃんか。なのになんでいつまでも出てくんだよ」
洋介は呟きながら、息の詰まる思いを必死に堪える。
左に向き直って奥の壁のレールに内側にねじった左手の指を突っ込んだその時、何かが潰れた。指先から全身へゾワゾワと悪寒が走って硬直する。動いているのは何かだけだ。のた打ち回る何かが、洋介の指をしばいている。
「こいつか」洋介は殺意を覚えた。
左手でそいつを押さえたまま右手を添える。潰してやろう、と思った。
勢いよく右手の指で潰しにかかろうとした瞬間、左の指で潰された部分を千切って、何かは逃げた。慌てて取り押さえようと、右の指で何度もレールの中を抑える。そして追いかけて頭をカバーの中に突っ込む。
飛び出てきた何かは、最初に見て思った通りの姿をしていた。ひび割れた一本の糞のような姿だ。ミミズと言うよりウナギのような太さだ。いや、大きさは二、三十センチの大ミミズくらいだが、長さに対して太い。
それは、洋介の顔面を這いずりまわって首筋を回ってうなじを通り、右の頬に出てきた。
びっくりした洋介は思わず身をあげて、頭をカバーの側面にぶつけた。「あっ、あっ」洋介が情けない声を出す。糞ミミズのような何かが鼻の右穴から入ろうとしている。半分くらい入って、咽頭を鼻腔側から圧迫する。しかも無秩序に幾度も。
「たっ助けて!」思わず洋介は叫び、両手でそれを掴んで引っ張り出そうとする。だがそれは千切れて、半分が喉の奥へと這い込んでくる。咽喉に落ちたところで吐き出したそれは、ビチビチとのた打ち回って、水槽の側面にある縁の下に隠れた。
引っ張り出したもう片方は、洋介の指から逃れて、カバーのコの字型の覆いに向かって弾けるように飛ぶ。洋介は逃がすまい、と何度も平手打ちをかますが当らない。カバーの中に平手の音がバンバン、と響く。
左の二の腕から脇の下にかけて、ヌメリのある感触が這いあがってきた。吐き出したもう片方のほうだ。洋介は慌てて、這いまわる何かを追って作業着の上から何度も捕まえようとした。背骨脂のような感触だ。
左肩を這いあがって左胸を通って腹部に下りたそれを作業着の上から握りつぶす。潰れた何かは、潰れてもなお蠢き続けていた。ゼラチン質というか、寒天というか、ミンチにした脊髄か脂身のような感触だった。それが、昔顕微鏡で見たミジンコのように、ビチビチと蠢いている。作業着の中で、胸とみぞおちの上を。そして溶けて、腹の上を滴り落ちていく。
もう嫌だ。そう思った洋介は、ウォッシャーの中から這い出ようとした。気がついた時には、上に逃れた方を追いかけてウォッシャー台の上に登って座っていた。足を床に下ろして仰け反って身を出そうとした時、急に、台の端に座っていたケツが濡れた。すごい勢いで何かが下着に沁み入ってきたかと思った瞬間、ウォッシャー台がぬめって水槽の中にケツが落ちる。
もがきながら頭を出そうと腰を折った洋介の上に、大量の何かが落ちてきた。それらは、襟から、袖から、ボタンとボタンの隙間から入って来て、肌の上を這いずりまわる。エプロンで縛られたズボンと腰の合間をのた打ちまわりながら入り込んできた。ボクサーパンツの腰のゴムをくぐることが出来ずに、モモの隙間に回って陰部へと絡みつく。
洋介は「はぁっ」と息を吐いた。だが今はそんな流暢にしていられる場合ではない。尿道に入ってきた。痛い。激痛が性器の管から膀胱に響く。肛門の中にも何匹も入ってくる。ケツの筋肉を締め付けると、肛門の中でつぶれる感触が皮膚に湧き出る。
溺れた時に水が勢いよく口の中に入ってきたかのように、大量に口内へと押し寄せた何かが、強引に喉の奥へと押し入る。
「ガボガボ、だずげで、でんじょう、だずけで」
洋介がこもった声で叫ぶ。鈍い音が頭に響いた。自分の声だ。
店長は来なかった。ウォッシャーから見える洗いあがった食器を置くステンレス製の網棚の向こうで、店長が仕込みをしているのが見える。「でんじょう! でんじょう!」洋介は叫び続けた。
調理台の上で仕込んだミンチ肉を、昨日出たであろう残飯に混ぜた店長は、それを両手いっぱいに掬い上げて、後ろにあるグリル台に向き直った。そしてしゃがみ込んで、徐にグリル台の下にある油受け辺りに塗りたくり始めた。
(何やってるんだよ店長)洋介が心で叫ぶ。出ようにも出られない。ウォッシャー全体が脂にまみれて、どこを掴もうとしても滑る。
それなら、と思った洋介は、逆にウォッシャーの中に入った。水槽の中に両足をつければ、ぬめって身を起こせないということはない。なんせ狭いから、両足を開いてしまえば側面にあたる。左足を前に出してつま先を角に当てた。そして右足を下げてかかとを角に当てる。
(これならどうだ)と洋介は思った。(こうすれば俺を襲えないだろ)洋介は糞ミミズのような、何か相手に不敵な笑みをこぼす。だが外に出られない。両手に絡みついた糞ミミズのような何かは、さっきまでとはうって変わって、ミミズのような形をしていなかった。クラッシュしたゼリーのように、洋介の全身に広がっている。あたかも増殖しているようだ。いや、増殖している。すごい勢いで厚みを増していく。
目も鼻も耳も口もふさがる。視界はすりガラス越しに景色を見ているようになった。まぶたと眼球の隙間に入って、頭がい骨の中で蠢いている。圧迫感と言うか軽重い重力感が、垂れる涎のように脳や目玉をなめる。
鼻で息を吸うと、クラッシュしたゼリー状の何かが、鼻腔を通って咽頭に落ちてきた。吐き出そうと口を開くと、唇を覆っていた何かが、更に口の中へとどっと流れ込んでくる。そして、咽喉の奥にぶつかって、食道へと落ちていった。
胸の奥で蠢いているのが分かる。胃の中から腹を押す。終いには、身長百七十センチちょい、体重七十キロの洋介を持ち上げた。クラッシュゼリー状の何かに覆われた洋介は、崩れた体育座りの格好で、ウォッシャーのカバーの中に引き上げられていった。十一時過ぎであった。
―――しばらくしてホールの客席を一通り拭いて回った井上が、鈴木と共にキッチンに入ってきた。辺りを見渡した井上は、キョロキョロと辺りを見渡して、野菜を切っていた店長に訊いた。
「あれ? 安達さんは?」
数秒の間をおいて店長は一瞬動くのをやめ、ニンマリと暗く光る不気味な笑顔で井上の方を向いて答えた。
「うん、早退してもらった。今日はこの時間もうお客さん来ないだろうしね。十二時からピーク要員が来てしまえば人余りになるから」
井上は納得したように「ああなるほど」と生返事をして、道具をかたし始める。
清掃用具を入れたロッカーへと歩んでいく二人を見送った店長は、ゆっくりと静かに入り口に行って、『機器点検のため営業時間を変更します。オープン11時半』と書かれた張り紙を自動ドアのガラスから剥がして戻ってきた。
それから間もなくして、早めに昼休憩に入った会社員たちが店内へと入ってきた。
おわり
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