21 / 35
鬼胎
2
しおりを挟む
それから数日たったある日の夜、バイト終わりにパチンコしにいった帰り、峰岸は回転すし屋で好きなものだけを頼んで、4人前用のトレイに詰めてもらって持って帰った。五千円でプリペードカードを買って、半分も使わずに大当たり。最終的に五万になって戻ってきたからだ。
「今月はついているぞ。給料出た初日にこれだもんな」峰岸がそう有頂天になっていた矢先だった。電柱の周りに積み上げられた生ごみの袋から何かが飛び出す。視界に入ったが、その瞬間は気がつけず反応も出来なかった。すぐにその存在を理解したが、視線を向ける間もない一瞬の内に、飛び上がった何かは翅を広げて急旋回して、何も持っていない左手の親指と人差し指の付け根にとまった。
痛気色悪くも気持ちいい感触がゾワゾワと広がり、腕を駆け上って後頭部を覆う。ゴキブリだ。慌てて手を上下に振るって払い落す。四センチくらいある大きなゴキブリだ。高揚した気分は、一瞬にして冷めた。
家に帰ると峰岸は、速攻で手を洗った後、すぐにすしをテーブルの上に広げた。足の長いダイニングテーブルではなく、ソファの前にある背の低いガラスのテーブルの上に、だ。ダイニングテーブルを使っていたのは初めの内だけで、殆どソファの前でテレビを見ながら食事をしている。
「そうだ」と峰岸は思い出して呟く。冷蔵庫にビールがあったはずだ。第三のビール。ものほん(本物)の黄金ラベルのビールも五百缶二本買ってきたが、キンキンに冷やしてやろう、と上段の冷蔵庫に入れて、三分の一の値段で以前買って冷蔵庫に置いておいた枝豆由来のビールを飲むことにした。
「あれ?」ソファに戻ってきた峰岸は、声を漏らした。一貫だけ買ったイクラがない。代わりにあったのはキャビアのようなものだった。心なしか、キャビアよりも小さい気がする。キャビアを食べたことがないから、よく分からない。黒くて小さくてプチプチしていそうな魚卵の軍艦巻き。
よく見ると、その魚卵の下にイクラらしきものがある。玉が全部つぶれている。本来、宝玉のように綺麗な赤オレンジ色をしているはずなのに、今は萎れて光沢を失っていた。
仕方がない。文句を言って返しても、初めから潰れていたと信じてもらえないかもしれない、と思った峰岸は、店に返しにはいかないことにした。それに、もしかしたらこのようなメニューだったのかもしれない。注文の聞き違いか。においを嗅いでも痛んでいるように思えなかったし、そのまま食べた。塩味だった。
冷蔵庫の中にあった第三のビール三本を飲み干した峰岸は、キンキンに冷えたものほんビールを冷凍庫から取り出して戻ってきて、次は活きイカを食べてやろう、と箸をとる。二貫買った。イカとシャリの間に紫蘇が敷いてある。一貫食った。ねっとりとしたイカの歯ごたえとシャリの甘さを繋ぐように、紫蘇の爽やかな味が口に広がる。峰岸は思わず「うんまっ」と唸った。普通のイカの握りも二貫買っていたので食べ比べたが、同じ味だった。違いは分からないが、唯一分かったのは紫蘇の有無。
お腹がいっぱいになり始めた頃、明らかに赤身だろう、という大トロ、“何の”かは書いていなかったエンガワとウニ、そしてノリを挟んだイカへと、順々に箸を伸ばす。さっき二回食べ比べたから、“活き”か“普通”のかは分からない。峰岸は、最後の最後まで取っておいた五貫目のイカを平らげた。最後にものほんビールを呷る。美味かった。
それから大好きなアニメを見ながら二連休を楽しく過ごした峰岸は、朝九時から始まる翌日の仕事に備えて、夜十二時を回った頃に寝た。
数週間経ったある日の朝、まぶたを通して眩しい日差しが眼球を射す。まだスマホの目覚ましは鳴らない。半寝状態の脳みそで、まだ寝れる、と考えて、峰岸はそのまま寝続けた。不意に目の粗い障子紙を指先で撫でるような音が右の耳の奥に響く。目が覚めた。小さく重くそれでいて大きく思えるほどに、また響いた。峰岸は、その響きに引っ張られるように肩をすくめ、首をよじった。
耳の中に何かいる。即座にゴキブリだと思った。ゴキブリが鼓膜の上を歩いたんだ。慌てて右耳に指を突っ込むが、かき出せるわけがない。クローゼットを開けて下に置かれたタンスから耳かきを取り出した。一心不乱に耳孔を掻き毟る。乾いたつぶれる音がした。冷たい。キモくすぐったい。耳の奥でつぶれたゴキブリの足がもがいているのが分かる。
バイトに行くまでにゴキブリの本体は取り出せた。耳の中も洗ったが、まだゴキブリの内臓がこびりついているように思えてならない。潰した時に感じた冷たさも残っているようだ。病院に行く時間はなかったから、夕方五時まで働くしかなかった。八時間ずっとゾワゾワと虫唾の走る気持ち悪い時間が続いた。その後、開いている病院を探して、もちろん行った。
病院の帰り道、峰岸はスーパーに寄った。夕方の買い物ラッシュも終わったはずだから、ある程度値引き商品が並んでいることだろう、と思ったからだ。チーズの入った笹かまやなんかとパウチのお惣菜が五割引きになっている。それらを買った。五袋入りの即席ラーメンも買った。いつも買っているやつだ。粉スープしかついていない一番安いやつ。
家に帰ってすぐにお湯を沸かす。その間に笹かまを食う。ノリの佃煮も買ったようだったので、次の日の朝ごはんに食べることにした。
沸騰したお湯に乾麺を入れて三分待つ。IHをとめて粉スープを入れる。そしてどんぶりによそって、ソファに持っていった。もちろん素ラーメン。美味そうだ。割り箸を割って勢いよく麺をすする。スープと一緒に。
半分食べた頃に、申し訳程度の小さな海苔を一枚口に運んだ。こういう海苔は、スープに浸っても溶けてばらばらにならない。最近の海苔はすごい、と思った。ついこの間までふやけてデロデロになっていたはずだが、今のはならないばかりかカリカリ感まで残っている。海苔は二枚入っていたので、一枚は最後に食べることにした。
次の日の朝は、ご飯を炊いて海苔の佃煮を食べた。ノリの佃煮と言えば、トロトロで甘辛い海苔のイメージがあるが、これはカリカリした細かいものも入っていた。何だかは分からないが、トロトロとカリカリのコントラストに舌鼓を打つ。あまりに美味すぎて、ごはんを三杯食べた。ごはんは夕食にとっておく予定だったが、少し足りない。残ったのは、茶碗半分くらいだろう。
つづく
「今月はついているぞ。給料出た初日にこれだもんな」峰岸がそう有頂天になっていた矢先だった。電柱の周りに積み上げられた生ごみの袋から何かが飛び出す。視界に入ったが、その瞬間は気がつけず反応も出来なかった。すぐにその存在を理解したが、視線を向ける間もない一瞬の内に、飛び上がった何かは翅を広げて急旋回して、何も持っていない左手の親指と人差し指の付け根にとまった。
痛気色悪くも気持ちいい感触がゾワゾワと広がり、腕を駆け上って後頭部を覆う。ゴキブリだ。慌てて手を上下に振るって払い落す。四センチくらいある大きなゴキブリだ。高揚した気分は、一瞬にして冷めた。
家に帰ると峰岸は、速攻で手を洗った後、すぐにすしをテーブルの上に広げた。足の長いダイニングテーブルではなく、ソファの前にある背の低いガラスのテーブルの上に、だ。ダイニングテーブルを使っていたのは初めの内だけで、殆どソファの前でテレビを見ながら食事をしている。
「そうだ」と峰岸は思い出して呟く。冷蔵庫にビールがあったはずだ。第三のビール。ものほん(本物)の黄金ラベルのビールも五百缶二本買ってきたが、キンキンに冷やしてやろう、と上段の冷蔵庫に入れて、三分の一の値段で以前買って冷蔵庫に置いておいた枝豆由来のビールを飲むことにした。
「あれ?」ソファに戻ってきた峰岸は、声を漏らした。一貫だけ買ったイクラがない。代わりにあったのはキャビアのようなものだった。心なしか、キャビアよりも小さい気がする。キャビアを食べたことがないから、よく分からない。黒くて小さくてプチプチしていそうな魚卵の軍艦巻き。
よく見ると、その魚卵の下にイクラらしきものがある。玉が全部つぶれている。本来、宝玉のように綺麗な赤オレンジ色をしているはずなのに、今は萎れて光沢を失っていた。
仕方がない。文句を言って返しても、初めから潰れていたと信じてもらえないかもしれない、と思った峰岸は、店に返しにはいかないことにした。それに、もしかしたらこのようなメニューだったのかもしれない。注文の聞き違いか。においを嗅いでも痛んでいるように思えなかったし、そのまま食べた。塩味だった。
冷蔵庫の中にあった第三のビール三本を飲み干した峰岸は、キンキンに冷えたものほんビールを冷凍庫から取り出して戻ってきて、次は活きイカを食べてやろう、と箸をとる。二貫買った。イカとシャリの間に紫蘇が敷いてある。一貫食った。ねっとりとしたイカの歯ごたえとシャリの甘さを繋ぐように、紫蘇の爽やかな味が口に広がる。峰岸は思わず「うんまっ」と唸った。普通のイカの握りも二貫買っていたので食べ比べたが、同じ味だった。違いは分からないが、唯一分かったのは紫蘇の有無。
お腹がいっぱいになり始めた頃、明らかに赤身だろう、という大トロ、“何の”かは書いていなかったエンガワとウニ、そしてノリを挟んだイカへと、順々に箸を伸ばす。さっき二回食べ比べたから、“活き”か“普通”のかは分からない。峰岸は、最後の最後まで取っておいた五貫目のイカを平らげた。最後にものほんビールを呷る。美味かった。
それから大好きなアニメを見ながら二連休を楽しく過ごした峰岸は、朝九時から始まる翌日の仕事に備えて、夜十二時を回った頃に寝た。
数週間経ったある日の朝、まぶたを通して眩しい日差しが眼球を射す。まだスマホの目覚ましは鳴らない。半寝状態の脳みそで、まだ寝れる、と考えて、峰岸はそのまま寝続けた。不意に目の粗い障子紙を指先で撫でるような音が右の耳の奥に響く。目が覚めた。小さく重くそれでいて大きく思えるほどに、また響いた。峰岸は、その響きに引っ張られるように肩をすくめ、首をよじった。
耳の中に何かいる。即座にゴキブリだと思った。ゴキブリが鼓膜の上を歩いたんだ。慌てて右耳に指を突っ込むが、かき出せるわけがない。クローゼットを開けて下に置かれたタンスから耳かきを取り出した。一心不乱に耳孔を掻き毟る。乾いたつぶれる音がした。冷たい。キモくすぐったい。耳の奥でつぶれたゴキブリの足がもがいているのが分かる。
バイトに行くまでにゴキブリの本体は取り出せた。耳の中も洗ったが、まだゴキブリの内臓がこびりついているように思えてならない。潰した時に感じた冷たさも残っているようだ。病院に行く時間はなかったから、夕方五時まで働くしかなかった。八時間ずっとゾワゾワと虫唾の走る気持ち悪い時間が続いた。その後、開いている病院を探して、もちろん行った。
病院の帰り道、峰岸はスーパーに寄った。夕方の買い物ラッシュも終わったはずだから、ある程度値引き商品が並んでいることだろう、と思ったからだ。チーズの入った笹かまやなんかとパウチのお惣菜が五割引きになっている。それらを買った。五袋入りの即席ラーメンも買った。いつも買っているやつだ。粉スープしかついていない一番安いやつ。
家に帰ってすぐにお湯を沸かす。その間に笹かまを食う。ノリの佃煮も買ったようだったので、次の日の朝ごはんに食べることにした。
沸騰したお湯に乾麺を入れて三分待つ。IHをとめて粉スープを入れる。そしてどんぶりによそって、ソファに持っていった。もちろん素ラーメン。美味そうだ。割り箸を割って勢いよく麺をすする。スープと一緒に。
半分食べた頃に、申し訳程度の小さな海苔を一枚口に運んだ。こういう海苔は、スープに浸っても溶けてばらばらにならない。最近の海苔はすごい、と思った。ついこの間までふやけてデロデロになっていたはずだが、今のはならないばかりかカリカリ感まで残っている。海苔は二枚入っていたので、一枚は最後に食べることにした。
次の日の朝は、ご飯を炊いて海苔の佃煮を食べた。ノリの佃煮と言えば、トロトロで甘辛い海苔のイメージがあるが、これはカリカリした細かいものも入っていた。何だかは分からないが、トロトロとカリカリのコントラストに舌鼓を打つ。あまりに美味すぎて、ごはんを三杯食べた。ごはんは夕食にとっておく予定だったが、少し足りない。残ったのは、茶碗半分くらいだろう。
つづく
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
洒落にならない怖い話【短編集】
鍵谷端哉
ホラー
その「ゾワッ」は、あなたのすぐ隣にある。
意味が分かると凍りつく話から、理不尽に追い詰められる怪異まで。
隙間時間に読める短編ながら、読後の静寂が怖くなる。 洒落にならない実話風・創作ホラー短編集。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。
「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる