ホラー短編集

緒方宗谷

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鬼胎

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 バイトが終わると、峰岸は真っ直ぐに帰った。給料日までまだ日数があったから、パチンコには行けなかった。すぐにごはんを山盛り茶碗についで電子レンジに入れる。海苔の佃煮をだして、ビールを呷る。チン、となったので、熱くなった茶碗を持ってソファに座った。ごはんを見ると、胚芽が残っていた。何本もの横縞が引かれているご飯粒。峰岸は少し嬉しくなった。黄土色の線だったが、黄金色に見えた。
 夕食は足りないだろうと踏んでいたので、あらかじめご飯を炊いていた。炊き上がったそれを見て、峰岸は嬉々とした。米粒全部が発芽米だ。たぶん米業者が袋詰めした時に間違えたのだろう。ブレンド米だから、米袋の上半分が普通の米で、下半分が発芽米となったんだ。自分が買いちがえたのかと思って、シンクの下に置いた袋を見た時に、そう思った。袋にはブレンド無洗米と書いてあるだけだった。
 風呂に入ると急速に眠くなって、峰岸は寝てしまった。天上から雫が頭に落ちてきて目を覚ます。その雫が耳の後ろを辿って肩に落ちた。尖ったなにがが這うように首筋を上る。ゾワッとして首筋をさすると、暴れる何かがいた。払うと、湯船の上に五センチ大のゴキブリが溺れた。峰岸は慌てて湯船から飛び出して、湯船の栓を引っこ抜いた。
 シャワーで全身を流して、更にボディソープで洗った峰岸は、浴室を出て走って殺虫スプレーをとってきた。お湯が完全に抜けきるのを待つ。そのまま穴に吸い込まれてしまえばいい、と願ったが、そうはならなかった。ゴキブリは渦巻くお湯から逃れて、息も絶え絶えのようにのっそりのっそりと、水たまりがないところを目指している。
 峰岸は、殺虫スプレーをかけた。ゴキブリは、尋常ではない勢いで浴槽中をのた打ち回って、ひっくり返った。ゴキブリの最後だ。チラシですくってゴミ箱に捨てた。裸のまま風呂桶を洗う。一日も終わりだと言うのに、ひがな何もない一日であったはずなのに、最悪な一日となった。
 次の日の朝、部屋の中に「うげぇ、ぺっぺっっ」と言う声が響いた。峰岸が口の中に入った何かを吐き出した音だ。飛び落ちたそれはゴキブリだった。峰岸は身を倒して床のスリッパを拾い、ゴキブリを追いかける。狙いを定めて叩く。逸れた。叩いた瞬間、そばにあるサイドテーブルを兼ねた引出の下から何匹ものゴキブリが走り出して、ベッドの頭側と壁の隙間に入り込んだ。一瞬見えただけだが、四、五センチ近いのが二十匹近くいた。
 峰岸は寝室中に殺虫スプレーをまいた。三回しか使っていないのに、空っぽになった。取っておいた四枚の粘着シートを寝室に設置する。バイトの帰りに毒だんごも買ってきて、リビングに五つ、寝室に五つ置いた。
 夕食にラーメンを食べた。いつもの通り素ラーメンだ。五パック入りの最後のやつ。麺を啜って一噛みすると、スジャリ、という音が上下の前歯に響く。麺だけを飲みこんでから、噛んだ何かをどんぶりに吐き出すと、親指の第一関節くらいあるゴキブリの上半身だった。スープの中を泳いで縁に掴まって外に出ようとしている。慌ててテーブルにどんぶりを置いた峰岸は、ティッシュをとってテーブルに落ちたゴキブリの上半身を包んで潰した。
 割り箸でスープの中をまさぐったが、ゴキブリの下半身はなかった。シンクに流した際に改めて探したが、あったのは麺だけだった。
 悍ましい記憶を消し去りたくて、峰岸はビールを呷った。足りなくて、ななまーとでウィスキーを買ってきて、ストレートで飲む。五百ミリリットル入りの瓶だったが、飲み干した。もちろんイッキではない。
 床の上に俯臥して寝ていた峰岸が目を覚ました時、眼前に広がっていたのは、床を覆い尽くすゴキブリだった。ビクッと身を強張らせると、ゴキブリが一斉に逃げた。すごいガサガサ音が反響する。いや、反響していたのではない。床全面、壁という壁、天井までをも埋め尽くすゴキブリが、一斉に逃げた音が四方八方から響いたのだ。
 床にとっぷして寝ていた峰岸が垂れ流すよだれを拭きながら起き上がった時、部屋は朝日が差し込む静寂に包まれていた。外から車の走る音がした。夢だっのだろうか。
 給料日が来て、パチンコをしに行った。五千円のプリペードカードを買って打ち始めたが、一向にリーチをかけない。そればかりか球が穴に入り込まない。最後の一個が放たれた。それは高く弧を描いて弾き飛ばされて、釘の隙間を落ちていく。真ん中の穴目掛けて落ちていく。だが入らなかった。どこに隠れていたのか大きなゴキブリがガラスの内側にいて、最後の玉と真ん中の穴の間を陣取ったからだ。そのゴキブリに当った球は、無残にも一番下に落ちていった。
 峰岸は、すぐさま店員を呼ぶためにランプを点灯させた。店員は「すいません、すいません」と謝りながらも、こんなこおがあるんだと面白がっている様子。台の上のふたを開けて流れる球を掬うと、真中の穴に注ぎ込んでくれた。だが結局、フィーバーしなかった。
 しかしなんだ、この気持ちの良さは。三日禁煙して断念した時に吸ったニコチンのように、細胞に滲み入る快楽。禁断症状から解放される時のように、心地良い重力を感じる。それに、度数の高いウィスキーをがぶ飲みした直後のようでもあった。波が打ち寄せるように酔いが打ち寄せる。そして沈んでいく。仄暗い淵の底に引きずり込まれていくような怠惰な悦楽があった。
 それからというもの、峰岸のパチンコ通いの頻度は増していった。もともと、リーチをかけるとドーパミンが出て恍惚に浸れた。興奮して気持ち良かった。だが、それとは違う気持ち良さが、胃の奥から食堂に上ってくるようになっていた。
 ガサガサガサゴソ、ガサガサガサゴソ、胃が音を発てる。ガサガサガサゴソ、ガサガサガサゴソ、食道が音を発てる。ガサガサガサゴソ、ガサガサガサゴソ、耳孔の奥が音を発てる。
 ガサガサガサゴソ、ガサガサガサゴソ、頭がい骨の内側が音を発てる。ガサガサガサゴソ、靴下の中、指の間で。ガサガサガサゴソ、パンツの中を。ガサガサガサゴソ、背筋を登る。
 ガサガサガサゴソ、瘻孔を這う。ガサガサガサゴソ、咽頭の奥で。歯をかみしめるとぷちゅりと鳴る音が、脳天を突き上げる。
 ガサガサガサゴソ、ガサガサガサゴソその挙動に連なって、廃人と化した峰岸が笑みを浮かべて身をよじる。肩をすくめ背を反らせ、息を吸い込み大きく喘ぐ。醜く悍ましいほどの快楽が漲る。

おわり
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