あはれの彼方

宮島永劫

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挿話 山田藩からの転出 見送り

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 住人がとても穏やかなので山田藩内では盗みや殺人など犯罪が全くない。盗む・盗まれるという概念を持ち合わせていないため扉に鍵をかける習慣がなく開けっ放しだった。そのため山田藩の町奉行所役人は江戸の町奉行所役人と違って警備や訴訟の仕事がなかった。
 山田藩の土地は痩せており、米、麦など農作物の生産量は低かったが少しずつ蓄えることによって冷害や干害による飢饉もなんとか乗り越えてきた。その山田藩の人口は増減がほとんどない。増減が起こるのは出生・死亡、そして移住だ。昔から山田藩は人口をきっちり把握している。それは、山田藩の住民を大切にするという政策であった。そして、むやみによそ者を入らせないことも政策としていた。新しい文化を入れて発展するよりも静かな安寧を選んだ。この時代、人別改は名主・庄屋など有力者によって行われ管理されていることが多かったが、住人が少ない山田藩は寺社奉行所で全ての住人の人別改の記録を管理していた。そのため、増減に関することがある住人は寺社奉行所に呼び寄せられた。   
 おエンは大坂の叔父が経営する小間物屋の使用人になるため、今日、山田藩を出る。おエンは十八歳、農作業の他、大工、工芸品作りに尽力してきた。よく働き、よく稼ぐ、山田藩の美徳を備えた女性の一人であった。
「失礼いたします」
背中に風呂敷を背負ったおエン、寺社奉行所の広間で宮本の姿を確認すると、その場に平伏した。
「あぁ、そんな大丈夫ですよ、畏まらなくても」
宮本はすっと近寄った。
「顔を上げてください」
おエンは顔を上げると宮本の大きな手が差伸べられていた。宮本の手は暖かく、心臓が破裂するほどドキドキした。おエンはそのまま宮本に連れられ座った。
「おエンさん、大坂の住所を教えてください」
おエンは小さな声で新しい住所を言う。それを宮本はすらすらと書き留めた。
「おエンさん、これは関所を通行するために必要な書類です。大切にしてください。そしてなくさないでくださいね。山田藩の住人であることを示したものですから」
おエンは宮本から関所手形を受け取った。ほのかに薄荷はっかの香りがする。優しい思い出が蘇ってくる、おエンの目から涙が溢れ出た。いつぞやの優しいあの人? 
「さぁ、泣かないで。私も悲しくなってしまいますよ」
宮本の言葉にさらにおエンにハラハラと涙を流した。宮本は懐から取り出した手拭いで涙を拭く。
「私が荷物を運びましょう」
「宮本様、そんな」
「持たせてくださいよ、ねっ」
おエンの荷物を受け取ると宮本は手に下げ歩き出した。藩内をくまなく歩き回る宮本は何をするのも素早かった。おエンは涙ながら必死に宮本について行った。
「宮本様、相変わらず若いお嬢さんをお連れですか、色男ですねぇ」
寺社奉行所の門番はニヤニヤしながら声をかける。
「お仕事ですよ、お仕事。では行ってきますね、留守番よろしくお願いします」
「宮本様、速いですよ、おエンさんがついていくのに必死ですよ。おエンさん、お体を大切に」
門番からも優しく別れを告げられる。今まではありきたりだった日常の光景、それとお別れしなくてはならない、涙が止まらない。悲しみにくれるおエンに宮本は目に見えるものを説明した、空の色、雲の形、木や鳥の種類・・・。仕事中の農民は宮本に気づくとみな手を止め、
「ごきげんよう、宮本様」
とお辞儀をする。すると
「ご苦労様です」
と答える。宮本は気さくであった。
「ほら、ここに雷石があります。触ってください。よく覚えておいてください。いつか役に立つことがあるかもしれません」
おエンは雷石を両手で丁寧に触った。ごつごつした岩肌、山田藩の紋である稲妻が彫ってある。雷石と呼ばれるこの石は遠い昔、敵が侵略しようと攻めてきた時に雷様が雷によって雷山を砕き、雨のように降らせて敵を蹴散らしたという伝説がある。山田藩の要所にこの石はあった。
「雷様の歌は忘れないでください。山田藩の住人なら分かりますでしょう。いつものはともかく、もう一つの方、覚えていますか」
「漂う香りに導かれ、ですか」
「そうです、それです。一緒に歌いましょう」

   漂う香りに導かれ
   稲妻のあとを辿りゆく
   もう気にせんでよい
   もう気にせんでよい
   闇の森で静かに生きよ
   雷様の息吹に触れて
   身も心も浄められる

「最後に口うるさくて申し訳ありませんが、生活や文化など山田藩のことを広めないでください。山田藩は貧乏なのでこれ以上、多くの人を養うことが出来ません。一昨年、北の方では飢饉が起こり難民が出ましたが残念ながら受け入れてあげる余裕はありませんでした」
「大丈夫です。山田藩に生まれたものとして口外しないと約束します」
「その言葉を聞いて安心しました。おエンさんをはじめ雷様のふもとで育った人間はとても素敵です。私は仕事で江戸や大坂に行きますが、山田藩の皆さんはよく働き、その上、上品で慎ましい。それに比べて、江戸や大坂の人は騒がしくて苦手ですねぇ。口喧嘩はもちろん、殴り合いの喧嘩も見かけたことがあります。その上、浮浪する人、身寄りのない子どもを見かけます。本当に悲しくなります」
宮本とおエンは雷山を見あげた。山田藩の住人はこの際立つ山には逆らえなかった。
 宮本は手に下げた風呂敷の荷物を背負った。
「おエンさん、今夜の宿場までは遠いから急ぎましょう。失礼します」
おエンは宮本にひょいと抱きかかえられた、お姫様抱っこだ。
「しっかり捕まっていてください」
隣の藩へ通ずる唯一の街道を駆け抜けていく。太い首、広くて暖かい胸、逞しい腕、薄荷の香り・・・、涙が止まらない。やっぱり優しいあの人だ。
関所の前でおエンは下ろされた。
「宮本様、こんな遠くまですみません」
「いえいえ、関所の荷物を確認したかったので好都合ですよ。ほら、うちの薄荷を扱った商品が集められています」
作業者が木箱を荷車に運び入れている。幼いころ、薬院で見た箱だ。
「大坂には山田藩の薄荷水、塩、お茶など特産品を売る店があります。真固度村の出身者がいますよ。いつか行ってみてください。結構、人気があるんですよ。戦国時代よりも前に中島殿のご先祖が店を構えたんです。国家老なので政務がたくさんあって忙しいのに商売上手なんです。ほんと、中島殿には敵いません。私は一生、頭が上がらないです。それと大坂に山田藩の屋敷があります。宮本に近いものが管理していますので顔を出してみるのも良いでしょう。時々、ご家族に手紙を書いてあげてくださいね。何かあったら連絡してください」
宮本に連れられ関所に入る。おエンの目から涙が溢れた。今朝までに家族やご近所さんに別れを告げ、『もう大丈夫』と自分で言い聞かせ、納得して大坂に向かうはずだった。それなのに涙が止まらない。
「宮本様、また、女の子、泣かして」
「ほんと山田藩のお奉行様は」
役人や作業者たちがからかう。
「お嬢さん、いっぱい泣きな。いつもこうなんだよ、いつも宮本様に見送られて大泣きするんだ。泣けるだけ泣いときな」
おエンは声を出して泣いた。宮本は優しく肩を抱いた、仕立ての良い着物、ほのかに香る薄荷の匂い。
「大丈夫、おエンさんはきっと大丈夫です」
優しく太く甘い声で応援する宮本は手拭いでおエンの涙を拭き、そのまま手拭いを手渡した。山田藩の稲妻の紋が入った手拭い、ほのかに薄荷の匂いがする。おエンは荷物を背負い、関所の門を出た。みんなが手を振っている。その中にひときわ目立つ大柄の宮本様がいる。あぁ、本当に大事にされ、愛されていたんだ。


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