空白の島と、ハザマダ ブンガク

木下望太郎

文字の大きさ
2 / 12

2話  彼の想い出と、

しおりを挟む
 つい昨日のことだ。何もなくて何もなくて、自分の誕生日なのにあまりに何もなくて。仕事の後に独りで飲もうと思った。
 仕事はただのいつもどおりで、せわしさだけが三割増しで、マシなことなど何もなくて。モニターを見るのに疲れた目を揉みしだきながら、私は夜に会社を出た。人の行き交う街の中を、誰より速く大股に歩いた。うんざりするほど疲れていて、憤るほど予定がなかった。もうさすがに、誕生日を素直に喜べる歳は過ぎていたけれども。

 甘いケーキが欲しいわけじゃなかった。憤りごと流し込める、強い酒が欲しかった。甘いカクテルは好きじゃなかった。強いウォッカで、わけが分からなくなって眠ってしまいたかった。幸い、明日から二日は休みだった。

 コンビニに入り、酒類の棚からウォッカを探していたとき。ふと、バーボンの瓶が目についた。そして不意に思い出す。二年ほど前に別れて、もうずっと考えることもなかった彼のことを。




 ――昔々のつきあい始め、二人でバーに行ったとき。そこは私の好きな店で、床も壁も木造のシックな店だった。カンテラの灯りを思わせるような薄暗い灯りの下、古い樽や蓄音機が装飾に置かれているような所だった。
テーブルに着くと、彼は落ち着かなさげに辺りを見回しながら言ったものだ、もっさりとした長髪の頭をかきながら。

「うお……格好かっけぇのぅここ、なんちゅうか、ファンタジーもんに出てくる酒場? 海賊船の中? ちゃうのぅ、そう……そうそうそう、そうや、西部劇の酒場サルーンみたい! すっご、面白おもっしょっ!」

 そうして笑って、興味深げにまた辺りを見回す。まるで、カウンターの奥に並ぶ瓶の本数、床の木目の形すらも頭に入れようとしているみたいに。
 恭平きょうへいは瀬戸内海の島の生まれで、なかなかの田舎者で。しかも趣味に小説を書くような、それとテレビゲームとに休日を丸々つぎ込んで平気というような、おかしな人間だったので。そういうファンタジーな脳が理解できなくて、私はただ苦笑した。

 私はブラッディ・マリー――ウォッカとトマトジュースのカクテル――を注文した。あまり強い酒を頼むのは女らしくない気がしたし、このカクテルは甘くなくて好きだった。
彼が注文したのはバーボンだった。
「この……ワイルドターキー・八年をストレートで、ダブル」

セルフレームの黒縁眼鏡を指で押し上げ、妙に力の入った顔でそう言った。まるでゲームの中の主人公だとか、西部劇のガンマンにでもなっているみたいに。
運ばれてきたバーボンを口にして、彼は思いっきりむせた。口を拭った後で私の方に身を寄せる。口元に手を添え、耳打ちするように小声で言ってきた。

「ちょ、何これヤバいで玖美くみサン! 焼ける! 舌焼けるよこれ! とんでもないがいなのぅ、西部……」
私は黙ってカクテルを彼に押しやり、バーボンのグラスを取った。ちびりと口に含む。五十度数もあるウィスキーは、ちりり、と舌を焼いたが、嫌いな味ではない。

恭平は口を丸く開け、それから笑った。
すごいがいなのぅ、玖美サンは。羨ましいわ、いつ西部劇の世界行っても大丈夫やんか」
 彼のその、子供のように夢見た物言いと犬みたいな邪気のない笑顔は、時折私をイラつかせるものではあったが。そのときはまだ、愛おしかった。――



 少し迷って、バーボンの瓶は取らなかった。ウォッカとつまみと明日の朝食を買い、部屋へ帰る。
 冷凍庫から氷を出してロックで飲み、したたかに飲み、なんとも楽しい脳になってきたところで。彼のことを思い出した。歳取った大型犬みたいにのんびりとした彼、そのくせときどき、足元にまとわりつく小型犬みたいにうっとうしい彼。どうにもかみ合わず私の方から別れた。そうした頃は、飼い犬を捨てるみたいな後ろめたさと嗜虐的な暗い甘味とが、胸の中で混じっていた。
 ふ、と口で息をつく。久々に相手をしてやってもいいさ、それぐらいに私は思った。誕生日なのに誰もいないから、なんて思いたくなかった。

 携帯を取り、彼に電話をかける。単調なコール音が響く。それが五回鳴った辺りで、心臓の座りが悪くなった。出なければいいと思い、きっと出ないだろうと思い、なのに電話を切りたくなかった。
 音が響く、八回、九回。十回で出なければ切ろうと思い、その十回目が過ぎ、あと五回待つことに決め直した。

 出ないと安心した十四回目。突然電話が取られて、しかも向こうは無言だった。
 何を話すか考えていなかったことを思い出し、ぎこちなく私は口を開いた。

「あたしです。お久しぶり」
 少し間が空く。

 犬みたいに彼は笑うかと思ったけれど。聞こえてきたのは知らない女性の声だった、私の母親くらいの。
「あの……恭平の、お友だちの方?」
 彼の母親だろうか。ええ、まあ、知り合いで、と私は答えを濁した。
「あの……」
 母親は再びそう言い、それきり黙った。

 沈黙が続いて、重くなって、私はウォッカを一口飲んだ。ご不在でしたら結構ですので、そう言いかけたとき。
「亡くなりました」
 そう聞こえた。声は続く。
「ええ、あの子はもう……はい、おらんようなって……ええそう、死んでしもうてからに……」

 湿り気を帯びていく母親の声を聞きながら、私は何も言えなかった。細くなりながら続く声はきっと、いつ頃どうして死んだといったことを語っていたのだろうが、私には聞こえなかった。聞きたくはなかった。

 そして知りたくはなかった、自分について――いくらとっくに別れたとはいえ、こんなに彼の死について、何の気持ちも湧かないなんて。
そして、彼の死でなくそちらのこと、自分が何も感じないことの方に、衝撃を受けるような人間だなんて。

 だからもしかしたら、彼の母親の言葉は聞こえなかったのではなく。単に聞いてもしょうがないと、そう感じただけの話だったのかもしれない。
 母親の声が途切れたのに気づくと、私は黙って電話を切った。黙ったままで、ウォッカをあおった。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

25年目の真実

yuzu
ミステリー
結婚して25年。娘1人、夫婦2人の3人家族で幸せ……の筈だった。 明かされた真実に戸惑いながらも、愛を取り戻す夫婦の話。

こじらせ女子の恋愛事情

あさの紅茶
恋愛
過去の恋愛の失敗を未だに引きずるこじらせアラサー女子の私、仁科真知(26) そんな私のことをずっと好きだったと言う同期の宗田優くん(26) いやいや、宗田くんには私なんかより、若くて可愛い可憐ちゃん(女子力高め)の方がお似合いだよ。 なんて自らまたこじらせる残念な私。 「俺はずっと好きだけど?」 「仁科の返事を待ってるんだよね」 宗田くんのまっすぐな瞳に耐えきれなくて逃げ出してしまった。 これ以上こじらせたくないから、神様どうか私に勇気をください。 ******************* この作品は、他のサイトにも掲載しています。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

処理中です...