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10話 彼の小説と、
しおりを挟む――彼は時々、ひどく付き合いの悪くなる人だった。私と違ってフリーターのくせに。
原因は分かっている。そういうときは必ず小説を書いているか、その準備をしている。次の新人賞に応募するんや、今度こそデビューや。そんなことばかり言っていた。
そのくせ一度だって、締め切りに間に合ったことなんかないのだ。ちょっとのー、上手く消化しきれなんだわ、とか、キャラがうまく動いてくれんでのぅ、一度保留やのこれ、とか。そんなことばかり言っていた。
いつもいつも言っていた、自分の未熟さを思い知った、なんて、いつも。
あのときにもそんな時期があった、二年ほど前の、別れる直前辺り。
今度こそガッチリ書き上げる、なんて言って。部屋にこもりっ切りで、尋ねていってもろくに会おうともしないで。会ったときは疲れたような、何かに憑かれたような目をして。いつも小説を書くときや語るときとも違う、油に濡れた刃物みたいにギラギラと光る目。
その眼差しは鋭かったけれど、それが美しいかどうか、私には判断がつかなかった。
それでも彼はそうだ、私の誕生日には会おうと言ってきてくれた。別れる直前の時期だ。会っていない期間が長くて、会わないことに慣れ出した時期。別れを意識していた頃。
あのときの彼は彼なりに、人並みには気を使ってくれた。夕食を予約しておいてくれたり――ファミレスよりは上といった店だ、正装でなくても気軽に入れるような。彼としては頑張った方だ――、プレゼントも用意していてくれた、ネックレスだった。これも彼の収入からして、背伸びをしてくれた感じだった。
食事が済んでコーヒーを飲んでいたとき。就職活動で着るようなスーツを身につけた彼は、私に包みを差し出した。分厚い大判の封筒だった。
正直私は苦笑した。またか、と。彼は書いた小説をよく私のところに持ってきた。残念ながら彼の話はなんというか、少年向けだったり、たまに書く文学系のものにしても独特過ぎた、というか。とにかく私の趣味ではなくて、最後まで読んだことはない。
それでもそのとき、目の前の彼は嬉しそうに喋った。クリスマスを迎えた子供みたいに。
「今度はの、できた、最後まで。正直今までん中じゃ一番。まだ第一稿だからいろいろ直さないかんと思うけど。とにかく、やー、よかったよかった」
テーブルにもたれかかる彼を、私は苦笑しながらなでてやった。もっさりとしたボリュームのある長い髪は、それはそれでなで心地のよいものだった。むく犬みたいで。
やがて、心地よさそうに細めていた目を彼は見開く。あの鋭くて美しい目、油を洗い落とした刃物のような目で。
「今回は、今回はの、前話しとった奴……覚えとる? 美少女が、運命が空から降ってくる……いう話。それを基にやってみた、ああタイトルは変えたよ、『曇りときどき美少女』じゃあやっぱりちょっと、の。ヒロイン美少女やなくて、あー、美女にしたし。それに何? そのー……」
それからだいぶ間を空けて、目をそらして彼は言った。
「ヒロインはの、玖美サンがモデル」
そう言われると私もさすがに、顔の温度がわずかに上がる。
とりあえず、原稿用紙をざっと繰る。飛ばし飛ばしで読んでみると、やはりというか、残念ながらというか。彼の好きな、私の苦手な、ファンタジーだとか戦闘ものだとか、マンガみたいな内容らしかった。
果たして、私がおかしいのだろうか? 世の女性は、自分をモデルにしたというヒロインが、荒廃した近未来世界で、空からゆっくりと降り立ったり、刀を振るい機関銃を撃って悪魔と戦ったり、主人公と竜に乗って空を駆けたり……そういうのを見て喜ぶものなのだろうか?
原稿を閉じ、髪に手をやってから、自分なりに気をつかって笑った。
「……ありがとう。また、後で読むから」
彼はうなずく、あの鋭い目のままで。
「そう、ぜひ、ホント、意見を聞きたいんや。今度こそはおれ、いけると思う」
いけるというのが賞を取れるという意味か、それとも私が気に入るという意味かは分からなかったが。少なくとも後者はもうなかった。
私は力を抜いて息をつく。真っすぐな彼の視線を受け流すように笑った。
「本当に。恭平、本当に。いつもそんな目しててくれたらいいのに。小説の話するときとか、小説書くときだけ真剣な目してさ」
驚いたように彼は目を見開く。それから柔らかく笑った。子供みたいに邪気のない顔で。
「それやったらおれ、いっつも小説書いとこうか。そんで、そう――」
わずかに目をそらし、いっそうの笑顔で続けた。
「――小説書きながら、プロポーズしようか。……いつか」
私の顔が固まる。
間を置いて、私の中で言葉が渦巻く。それどういう意味? いつかっていつ? そのとき君はデビューとやらをしているの? それとも今のまんまのフリーターでいる気? 大体何より何より――私と、小説が、なぜ同等なのか。下手をすれば私が下なのか。
言葉は胸の中で渦を巻き渦を巻き、しまいにはもう、言葉にはならなくなっていた。まるでびっしりと上から文字を書きなぐり続けて、やがて真っ黒になった紙のように。そこにはもう言葉はなくて、空白がむしろ近かった。
私は何も言わず、笑わずに彼を見た。
彼の笑顔はやがて引いた。わけもなく叱られた子犬のような、そんな顔をしていた。
結局。私が別れを切り出したのは、それから二週間ほどした後だった。小説もプレゼントも、何もかもを突っ返して、私としてはそれで終わった。
彼はどんな顔をしていたろうか。覚えてはいない。目をそらしたくなるような、まともに見れば引きずり込まれるような、そんな顔をしていた、きっと――。
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