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1、サンザシの丘
オークの木の向こう側
しおりを挟むガンとして動こうとしなかった魔馬ウッドラフが動いた。
体が自然に反応して、負荷をかけないよう腰が浮く。芦毛の馬体を挟む両脚に、魔馬ウッドラフの力強くしなやかな筋肉の躍動を感じ、ウィルフレッドは態度で平静を保ちつつ、内心では感動に打ち震えていた。
馬体に組み込まれたあらゆる関節が柔らかく、極上のサスペンションの役割を果たしているのだろう。速歩なら普通に騎乗者に伝わる上下運動の幅が驚くほど小さい。魔法を使っているのかと疑いたくなるような、素晴らしい乗り心地だった。
柔らかいとは思っていたが。こんなに柔軟でしなやかな馬の背中を、ウィルフレッドは知らない。
凄い。もっと一緒に走りたい。風を切って、走ってみたい。これだけバネのある身体なら、未だかつてないスピードを体験できるはずだ。強く踵で腹を蹴ったら、トップスピードで走ってくれるだろうか?
・・・くれないんだろうな。
今は、動いてくれたことに感謝して、それ以上は思いとどまろう。嫌われてはいないはずだ。時間はたっぷりある。ゆっくりと距離を縮めて、信頼を勝ち取ろう。
ウィルフレッドは、理性に気合を足して、己の馬魔に対する欲求をぐっと抑え込んだ。
背中の上の大男の苦悩など素知らぬ顔のウッドラフは、丘の上のオークに触れて感嘆のため息を吐いている主オリヴィアから3歩離れた横並びの位置でピタリと止まった。
両腕を広げた大人4人分でようやく手が回るかどうかという幹は、王都近郊のアシュテル伯爵領に保全されている推定樹齢1000年超えの国内最古のオークの半分もなかったけれど。
それでも、立派なサンザシ丘の主として、初夏の風に梢を絡めながら、堂々とそこに立っていた。
「そのオークがここに植えられたのは、サンザシ丘の開拓記念ではないかと、先々代は考察していたようだな」
ウィルフレッドは、オリヴィアに追加情報を提供しつつ、まだ乗っていてもいいだろうかと、そっとウッドラフの首筋を撫でる。
下馬させたいなら、そう伝えてくるはずだが。じっと動かずにしれっと西へ視線を投げている。主の恐怖のトリガーを管理するためなら、乗せておいた方がいいと判断しているのかもしれない。
オリヴィアはというと。オークの幹に片手を当ててそっと寄り添いながら、呆然と西側の景色を眺めていた。
目前に広がる光景に気を取られているようで、ウィルフレッドが与えたオークの付加情報は、軽い頷き一つで流されてしまった。
「・・・・・あれが、薬草の丘ですね」
サンザシ丘の西側、オークの立つ一番高い場所から緩やかに下る斜面が、次の小さな丘に向かって登りに転じているのがわかる。草がぼうぼうに生えた小さな丘で、その上には1本の防風樹を背にした小屋が立っていた。
その小さな丘の向こう側には、少し立木のまばらな林があって、それはやがて鬱蒼とした森になる。遠く北方の空を切り裂く白い嶺をもつ山地の裾野から広がるその森は、きっと薬草の宝庫だ。
「うん、荒れててすまない。先代夫婦は馬と養子の俺の世話で手一杯で、先々代の残した薬草にまで手が回らなかったんだ。俺がここにきてから15年は確実に放置されているな」
「・・・・いえ、素晴らしい環境です。日当たりのいい南面から、南東、北東とそれぞれ日当たりを使い分けられる。丘の向こうには小川があるんですよね? ・・・丘の北面を下った向こうの林は・・・もしかして湿地? ああ、丘の向こう側に下るとすぐに森に入れるなんて・・・」
呆然としていたエメラルドの瞳に徐々に強い光が宿る。
オリヴィアの気配が凛々しく研ぎ澄まされていく。
ちょっと不穏なほどの変化に「ん?」と、ウィルフレッドが瞬いていると。
そっとオリヴィアの手がオークから離れて・・・
ふらりと傾いた体が前に踏み出そうとした。
その主の灰色マントの首根っこを、半眼になったウッドラフがととっと横に動いてパクッと咥える。
「ぐぇ」と変な声を発して、オリヴィアの動きが止まった。
馬上のウィルフレッドがギョッとするのも当然だったろう。
「ラフ! お願い、ちょっと、ちょっどだけ、見てくるだけだから!」
それでも前に出ようと頑張るオリヴィアを咥えて、容赦なくずるずると引き摺りながら、ウッドラフが元きた道を戻り始めるではないか。普通に驚く。
馬上のウィルフレッドの存在などお構いなしに、ずるずると小柄な主人を引きずってパッカパッカと歩く魔馬。恐るべし。人間に調教されるのではなく、人間を調教している。
馬魔の思慮深さと意志の強さ、行動力が呆れるほど凄い。
それに、これ、ちょっと面白すぎるだろう。
「クッ、クク・・・ そうだな。今日はとりあえずダメだ。君は、俺の部下になるんだぞ? 説明しなくちゃならんことが山ほどあるし、君の部屋も、君の相棒の寝床も用意しなきゃならならない。それに、先々代の書斎は屋敷の中だが?」
笑いを噛み殺しながら、『先々代の書斎』というパワーワードをちらつかせると、オリヴィアがハッと息を飲んでピタリと抵抗をやめた。
なんてわかりやすいヤツ。
「無計画に森に入るよりも、先々代の探索の記録を頭に入れてからの方が効率がいい。それに、君の出資者でもある閣下は、ああ見えて、ケチでものすごく細かいんだ。資金を引き出すにしても、計画書の提出は必須だな」
「・・・・・はい」
悄然とした声音に、主人が完全に探索を諦めたことを察したのだろう。
ふーっと鼻息を吐いたウッドラフが、オリヴィアの首根っこをそっと離した。
「もちろん、計画書には目を通させてもらう。経営者としての責任があるからな。ここで働くのに、俺の頭の上を通り越して閣下とやりとりさせるつもりはないぞ」
気を引き締めて真面目な声音でそう告げると、オリヴィアの肩がビクッと震えた。
「・・・・と、当然だと思います。ホーソンの旦那様」
我に帰ったら、自分をウッドラフの上から見下ろす大男に恐怖がぶり返してきたらしい。
逸らされた目に怯えが走ったのに気づいたウィルフレッドは、ヒョイっとウッドラフの上から、オリヴィアのいる反対側へ降りた。
大きな芦毛の馬体が、震える彼女の温かい防御壁になるように。
「ウィルでいい。ウィルフレッドではなくて、ウィルで頼む。後ろの方は、君と一緒でワケありなんでな。いざという時に反応が遅れるかもしれない」
「・・・・はい、ではウィルさ、、、ん、と呼ばせていただきます。いざという時を考慮するなら、私はオリィでお願いします。一番呼ばれ慣れていますから」
案の定。ウィルフレッドを下ろしたウッドラフににオリヴィアが擦り寄って、擦り寄られた芦毛の魔馬は、主人に優しく鼻面を寄せている。
「そうか。わかった。こちらの都合に合わせてもらって悪いな。ありがとう、オリィ」
「たぶん、お互い様なので・・・。よ、よろしくお願いいたします、ウィルさま、あ、ウィルさん」
ウィルフレッドは背が高い。ウッドラフの背中の向こうに、俯く白くて細い首が見えると、その頼りなさ痛々しさに、胸がギュッと締め付けられるような気がする。
この子の前身は間違いなく、貴族の御令嬢だろう。
今は短い鳶色の髪も、きっと長かったはずだ。
平民にだって、こんな短い髪の女性はいないのに・・・
髪を切って、オリバー青年偽装をしなければならないほど追い詰められて、ここに辿り着いたのだろうなぁ。
ワケありウィルが同類オリィの事情を察し、こっそり長い長いため息を吐き出していると。
芦毛の魔馬にゴンと白い額で胸をどつかれた。
応援ありがとうございます!
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