上 下
16 / 45
second contact

芽吹き

しおりを挟む
 一年後の再会を果たしてから、海斗は一週間に一度はうちの喫茶店に来るようになった。
 彼はいつもカウンターの端の席に座って、必ずカフェラテを注文する。
 とてもしあわせそうな笑顔で飲み干していくだけ。
 言葉を交わすことはほとんどない。

 だから海斗について、私はなにも知らないままだった。
 どこに住んでいるのか、なにをしているのか。
 年齢、血液型、誕生日といった個人的な情報はなにひとつ知らない。

 だけど、それでよかった。
 私の作ったカフェラテを喜んでくれる姿を見られるだけで、すごくうれしかった。
 まるで優介が飲んでくれているみたいだったから――

 そんなことが半年以上も続いたある日のこと。
 その日は雪が降りそうなほど冷たい風の吹く寒い冬の日だった。
 海斗が来ないかなあと、なんとなく外を見たときに「美緒ちゃん」と名前を呼ばれた。

「あっ、はい。なんでしょう?」

 弾かれるように我に返った。
 私の名を呼んだ相手に視線を向けて、笑顔を添える。
 カウンターの真ん中の席には黒縁のめがねをかけたスーツ姿の男性がひとり座っていた。
 年は私よりも五つ上で、近所の食品会社に勤めているその人は黒岩くろいわしげるさんという名前だった。
 私が店を手伝うようになってからのお客さんで、ここ半年くらいは毎日店に通ってくれている。

「誰かを待ってる?」

 黒岩さんがメガネの真ん中を人差し指で押し上げながら訊いた。
 思わず声をあげそうになって口元を手で抑える。
 黒岩さんのメガネの奥の目がきらりと鋭く光ったように見えた。

「もしかして、最近よく来る人? あの、なんか詐欺師っぽいというか、軽そうな感じの……」
「佐々木さんはそんな人じゃないですっ!」

 思わず言い返していた。
 だけどすぐに後悔した。
 黒岩さんの顔があからさまに不機嫌なものになったからだ。

「あの人、美緒ちゃんのなに?」
「ええっと……そう! 私の元会社の先輩なんです。辞めてからも心配してくれてて……」
「へぇ……そうなんだ。じゃあ、恋人関係ってわけでもないんだよね?」
「も、もちろんですよ。あんなステキな人が私の恋人なわけ、ないじゃないですか?」
「ステキな人、ねえ」

 低い声でつぶやく。
 同時にメガネを押し上げて、睨むように私を見ている。

「じゃあさあ。美緒ちゃんはぼくのことはどう思う?」

 突然降ってわいたような質問に、私は即答できなかった。
 すると黒岩さんは「いやになっちゃうなあ」とぼそりとこぼした。

「毎日、毎日、こんなさびれた喫茶店にわざわざ通っているのに、ぜんぜん感謝もされないんだなあ」
「あの、その。感謝してます。毎日通っていただいて」
「なら、その感謝の気持ちをきちんと示してよ。ほら、オーナーもおかみさんも先に帰っちゃったんでしょ? 今、この店にいるのってぼくら二人だけでしょ? ほらっ、お店も閉めてさ? この後、特に用ないでしょ? デートしようよ」

 黒岩さんがゆっくりと立ちあがった。
 カウンターを静かに回って私のほうへ近づいて来る。
 私は後ずさりした。
 そんな私を追いつめるように黒岩さんはカウンターの中へ入ってきた。

「いつ気づいてくれるかと思って待ってたけど、ぜんぜん気づかないんだよね、君って。ぼくが君を好きなんだって、わかっていながら気づかないフリしてたの?」
「あの……困ります。お客様はみなさん大事なんで……」
「ぼくは君の特別になりたいって言ってるんだよ!」

 目の前にやってきた黒岩さんが壁際に立つ私の手首を掴んだ。
 ものすごい強い力で掴まれて、「キャッ!」と咄嗟に悲鳴が飛び出した。

 そのときだった。
 ドアベルの音がカランコロンと鳴って反射的にドアのほうを見ると、見知った顔が立っていた。
 
 海斗だ。
 白いセーターに黒のロングコート、ジーパンというシンプルな出で立ちの彼は私を見ると、目を大きく開いた。
 海斗がやってきたことに私の心は大きく弾んだ。

 助かったと思った。
 反面、握りつぶされるように苦しくなる。
 彼の顔がみるみる険しいものに変わっていったからだ。

「……放せ」

 これまで聞いたこともないような、身震いするほど低音で彼は言った。

「彼女を放せ」
「おまえには関係ないだろう! そっちこそ出て行けよ! 彼女はこれから俺とデートに行くんだよ!」

 黒岩さんが私の腕を強く引っ張った。
 痛くてまた悲鳴を上げた。
 それが引き金だった。

 海斗がドアからカウンターまで走ってくると軽々とカウンターを飛び越えた。
 そのまま黒岩さんのスーツのジャケットの襟元を掴むと、キッチンのワークトップにうつぶせの姿勢になるように押し倒す。
 置いてあったガラスのコップが勢いに押されてシンクへ落ちた。
 ガシャンっとガラスの割れる音が響く。
 するとなにを思ったのか、海斗は黒岩さんの体を持ち上げるように顔をシンクへ突っ込んだ。
 
「ひいっ! 助けて!」
「彼女に乱暴なことをするな! 今度、同じことをしたら容赦しない! わかったな!」
「わかった! わかったから! もうこんなことはしないから!」

 黒岩さんが必死に訴えた。
 じたばたと懸命にもがいている。
 海斗は黙ったまま手を離した。
 すぐに身を起こした黒岩さんは慌ててカバンを掴むと、逃げるように店を出ていった。

 静寂が戻った。
 二人きりになったのに、しばらく私は海斗に声をかけられなかった。
 助けられたのに、お礼の言葉も出てこない。
 あっという間の出来事すぎて、理解するのに必死だった。

「ごめん」

 最初に切り出したのは海斗だった。

「手荒な真似してごめん。あと、コップを割っちゃったから。弁償します」

 私に背中を向けていた彼が振り返った。
 先ほどの鬼のような形相をした彼とはまったく違う。
 悪いことをした子供が勇気を振り絞って親に謝るときみたいに、肩に力が入っているみたいに見えた。

「ううん。いいんです」

 軽く左右に首を振って答えた。
 口元には笑顔を添えた。

「私のほうこそ、ありがとうございます。本当はすごくこわかったんです。佐々木さんが来なかったら、きっともっとひどいことをされていたかもしれないから」
「そう、ですか……」

 彼はほっとしたように小さく息を吐いた。
 それからシンクの中の割れたコップに手を伸ばす。
 刃物のように尖ったガラスのコップが彼の手の中にある。

「もしかして……それで黒岩さんのことを脅したんですか?」
「はい。ちょっとやりすぎたかなと反省してます。だけど、その……コントロールできなくて。自分でもすごくびっくりしているんですけど。感情ってカッとなるととまらないものなんですね」 
「感情はカッとなったときにとまらなくなるものじゃないんですよ?」
「え? 他にもとまらなくなるものがあるんですか?」

 初めて聞くようなきょとんとした顔で海斗は私を見た。
 そんな彼の態度に、私は知らず吹きだしていた。
 海斗が困ったように眉尻を下げる。

「ごめんなさい。その……なんか子供みたいな人だなって思っちゃって」
「子供みたいな人?」
「悪い意味じゃないんです! 本当に! 子供みたいにかわいい人だなって、ちょっと思っちゃって」 
「ああ、なるほど。そういう意味なんですね。よかった。呆れられたのかと思って、ちょっと凹みそうになりました」

 満面の笑みをたたえる彼の表情がとてもあどけなくて、私もつられて笑ってしまった。

「急いで片付けしますから、コートを脱いで少し待っていていただけますか?」
「え?」
「佐々木さんさえよければ、この後、ごはん一緒に食べませんか?」
「え? あ? いいんですか?」
「助けてもらったお礼に、ですから。ね?」
「ああっ! はい」

 先ほどの少年っぽさが影を潜めて、年相応の大人の男性の顔で海斗が笑った。
 コロコロと転がるように表情を変える彼と優介の影がまた重なる。

 優介もそうだった。
 一瞬で顔を変える。
 ちょっと真剣に話していたと思ったら、からかうように笑う。

 そうやって笑ったかと思ったら、またものすごく真剣な顔に変わる。
 笑ったり、ちょっと怒って見せたり、拗ねたり……そんな優介を思い出して私の胸がまたチクリとうずいた。
 だけど、そんな痛みをひた隠すように胸の奥へとしまい込む。
 そのまま手を動かす。
 
 カウンターの外へ戻った海斗がコートを脱いだ。
 二つ折りに畳みながら、いつもの席に腰を下ろした。
 膝の上にコートを置く。その上で両手を重ねると、窓の外の景色に彼は目を向けた。
 日はすっかり落ちて辺りは暗くなっている。
 通り向かいの民家の明かりと、時折流れるように通りかかる車のヘッドライトをぼんやりと彼は眺めていた。

 洗い物を済ませて、グラスを拭き終えると、エプロンを脱いだ。
 グラスを置いたカウンターの上で小さく畳む。
 実家の母に電話を掛けて、夕飯は済ませてくると伝える。
 コートを羽織るとエアコンのボタンを消した。

「行きましょう」

 片づけの作業中、飲み物を出そうとした私に「洗い物が増えちゃいますから」と断って、ただ終わるのを待っていてくれた彼に声をかける。

「街と違って、あんまりお洒落なお店とかはないので、ここからちょっと行ったところにある定食屋さんになっちゃいますけど、そこでもいいですか?」
「ええ、かまいません。瀬崎さんこそ、いいんですか? 別にお礼なんていらないんですよ?」
「いえいえ、こういうことはきちんとしておきたいんで」

 そこで私は一旦言葉を切って、含みのある笑みを海斗に向ける。
 彼は小首を傾げて私の言葉の続きを待った。すぅっと息を大きく吸い込むと、私は満面の笑みで海斗に告げた。

「びっくりしないでくださいね! 本当にすごいんですから」
「そう言われたら俄然、行きたくなりますね!」
「後悔しないでくださいね」
「もちろんです。ドンッと来いですよ!」

 そう言いあって、私たちはどちらともなく笑いだした。

 海斗の車で店から数百メートルほどのところにある定食屋に向かう。
 老夫婦が営む昔ながらの定食屋の古い木造作りの建物の柱は黒光りしており、畳もすっかり色あせていた。
 使い古されたクッションは綿がすっかり硬くなってしまっている。
 机を挟んで向かい合う形で、平べったくなった座布団に腰を下ろした。
 お冷とおしぼりを出してくれるおかみさんに、私は『エビフライ定食』を、海斗は『フライ盛り定食』を頼んだ。

 海斗はグラスの水に口をつけると、まるでビールを飲んだ時のように『ぷはぁっ』と大きく息を吐き出した。
 そして木製の長テーブルの上に額を押しつけて「よかったあ」とこぼした。

「なんか今頃になって、瀬崎さんに怪我がなくてよかったってホッとしちゃいました。俺、本当にあんなふうに取り乱すこと経験なかったから。今頃になってこう、ドキドキしてきたっていうか……」
「佐々木さんが怒るイメージなかったので、私もビックリしました」

 物静かなイメージもあったから、余計に驚いたのはたしかだ。
 すると海斗はなにかを思いついたかのようにガバリッと勢いよく上半身を起こすと、「瀬崎さん」と大きな声で私の名を呼んだ。
 私たち以外お客のいない店内に、海斗の声とフライが揚がる油の音だけが木霊する。
 私は海斗の勢いに圧倒されると背筋を伸ばして「は……い……」と返事をした。

「あの、今度は俺が食事に誘います。そうだな。えっと。瀬崎さんの誕生日とかどうですか? ああ……って誕生日知らなかったな、俺。いや、それより誕生日は他に先約があるか……って、なに言っているんだ!? 迷惑ですよね。すみません。今のは忘れてください!」

 後半は一人で言って、一人で答えている状態だった。
 その間もクルクルと目まぐるしく表情を変える海斗を、私は驚くほど冷静に見つめていた。
 だからだろうか。

「ありません」

 私はハッキリとそう答えていた。

「先約なんてありませんから」

 私の答えに海斗は声にならない声で小さく驚いた。
 真っ直ぐに、視線を外すことのない彼を見つめ返して、私は笑みを作った。

「誕生日、お祝いしていただけるなら、私もとても嬉しいです」
「え……あ……嘘? いや……本当?」

 その場で両腕をグッと握りしめ、ガッツポーズをして喜ぶ海斗を私は笑って見つめていた。

 私の中でほんの少し変化が生まれる。
 それは地に撒いた種がほんの少し芽を出した程度だったかもしれない。
 それでも私の心の池に小さな、本当に小さな石がポトンと静かに落とされたような気がしたのだ。

 この後、運ばれてきたフライの盛り合わせのあまりのボリュームに、海斗の顔は険しくなっていく。
 量の多さに苦しみながらも楽しげに喜んで食べる彼の姿を見つめながら、私は静かにエビフライを口にした。
しおりを挟む
1 / 4

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!


処理中です...