伏喰童子

七転ヤオキ

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伏喰童子

エドワードの秘密

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 男は妻を亡くした。
 妻を亡くした男は、彼女を作ろうと思った。
 悪魔に身を売ろうとも、誰を犠牲にしたって、構わない。
 神、『ユニ様」は、悲しい顔をなさるだろう。悪魔と契約するなどと・・・
 それでも、彼は、彼女とまた言葉を交わしたかった・・・
 悪魔は言った。
「彼女のために、魂の入る場所を作るのだ。徐々に魂と体を馴染ませたあと、この薬で、体の元の主を殺せ」
 悪魔から渡されたのは、一見、薬に見える粒。
 悪魔は、手のひらに同じ色の粒を二つ、乗せた。途端にその手を手首ごと切り落としたい衝動に駆られる。
「っ!!なんだこれは!!?」
 驚いて振り落としてしまった粒を、悪魔は面白がるように手を叩いた。
 私は「何が面白い!」と怒鳴ると、悪魔は指を私の方に指して、バカにするように言った。
「ああ、面白いさ!女を蘇らせるために、こんなものに手を出すとはな!」
 悪魔は、クセのある長い髪を狂ったように揺らす。
 悪魔は再び丸薬を拾って私の手の平に乗せようとしたが、私は直接触りたくなかった。私は、すぐにズボンに手を突っ込み、入っていたハンカチの上に乗せるように命じた。悪魔はつまらなさそうだが、ハンカチの上に2粒乗せると、再び私に言った。
「彼女と近しいもの、子供、姉妹、母親、誰でもいい。それらの中に精神を宿せるようにした後、彼女の血を染み込ませた、この粒を一つ飲ませろ。もう一つは・・・まぁ、『おまけ』というやつだ、よしなにしたまえ」
 するとすぐに、悪魔は夜に紛れるように、姿を消した。

 私は言われた通り、彼女の『入れ物』を作ることにした。

 入れ物となる材料には、極度のストレスを与えると、脳の自己防衛により、身代わりにする人格を生み出す、もしくはダメージを受けにくい人格だろうか・・・どちらでもいい、その主人格でない方の人格に彼女を植え付ける。
 私はあらかじめ用意していた材料を数年かけて、ストレスを与えた。ゆっくり、じっくり、時には希望を持たせるように・・・・
 初めての実験だったが、ソレは上手くいった。やはり彼女から生まれた肉体だからだろうか。入れ物は着々と彼女の持っていた知識と思考を模倣し、彼女とほぼ同じ仕草、言葉、発想を生み出せていた。
 だがダメだった。
「性別が違う。拒絶反応を起こす可能性があるぞ」
 ある夜に、気まぐれに現れた悪魔に言われた。
「もっと初めに言ってくれ・・・」と言ったのは、実験が始まってから六年が過ぎたころだった。

 私は予定を変更して、彼女の妹『ガレッタ』を使うことにした。薬で昏倒させて、催眠状態にする。これにより、少しずつ彼女を姉であるエリスだと思わせる、いわゆる洗脳により、前のモノと近い状態にする。
 失敗作は、部屋の奥に閉じ込めて、使用人達に世話を任せた。
 泣き喚く様が、鬱陶しい。

 ガレッタが死んだ。
 死なないようにしていたが、丸薬の拒絶反応だと推測する。
残された丸薬はあと一つ。

 もう時間がない。せめてあの失敗作に自分を・・・

 もうこれ以上、彼女を忘れたくない・・・・

◼︎
「・・・フク、思い出した。あの犬の呪い・・・」
 小さな少年は、キョウから翻訳してもらった手帳を、読めもしないが、パラパラと開いていく。
 キョウから呪いについて聞いた時、フクは、下の部屋で眠っているジキルに取り憑いている犬の呪いについて思い出したのだ。
「詳しく、聞けますか?」
 キョウは本物の「ジキル」の首に黄色い札を、セロハンテープのように、仮止めしてくっつけた。「これからの作戦に『彼は』使えるだろう」と、体をなるべく元に戻す処置らしい。
 フクは手帳に挟んであった写真を見て、眉を八の字に眉を曲げている。
「僕の先生に『かわいそうだから、見つけ次第、助けてあげて』って言われていたの。とは言ってもよくある呪術だから、一時期流行ってたの・・・
 方法は地面に首だけを出した犬を七日間、放置させて餓死させかけるの。七日目に息も絶え絶えの犬の目の前に餌を見せて、飛びつこうとしたら首を切って殺す。この時、首がエサのところまでに転がったら良い式神になるって・・・
 日本の術師はこれを『犬神憑き』って呼んでた」
「意外と有名なやつですね」とキョウが笑みをこぼす。苦笑いかと思ったが、どちらかというと目の前の死体への嘲りだろう。
「本来だったら、一族を食い殺すだけの呪術なの。だけど、このジキルさんの状態を見ると、薬に何か仕込まれてたみたい」
 はあ、とため息をつくと、ふと部屋の窓の外を眺める。
 北向きにある窓から月は見えず、薄暗い屋敷の植え込みの影が亡者のように立っているだけだ。
 ジキルが悪魔と契約したのは「死んだ妻を生き返らせる」こと、そのために自身の息子と妻の妹を犠牲にした。だが悪魔は具体的な説明をせず、適当な術をあしらった。
「私達がいた世界でも、死者を生き返らせる方法は多岐にわたりマスが、どの方法も完璧とは言い難イ。私なんかが、良い例です。何百、何千もの死体をキョンシーにしてきましたが、誰も「おはよう」とすら、言えないのデスカラ」
「・・・どんな神様だって、死者は生き返らせない。今は誰も試みようとはしないよ」
「やはり、そうですか」
 フクは写真を、元の本の中にしまう。この本の中には、夫婦の、二人だけの写真が残されている。
 写真の古さから、エドワード・ジキルが生まれる前に撮ったものだろう。
 男性の方はヘンリーだろうか、フクが恐怖を感じるほど厳しい顔だ。対照的に隣にいる女性は、柔らかな笑みを浮かべている。
 ふと、フクは、ヘンリーの体が、板のように真っ直ぐ伸びているのに違和感をえた。
本物のヘンリー・ジキルは写真撮りに緊張しているのかもしれない。今にも唸りそうな硬い表情は、固く握られた拳の裏返しだろう。

 この写真を挟んだ本は、あの秘密の部屋にあった。そして、最近まで使われていたらしいのだ。

「エドワードくんは、この写真をずっと大切にしていたんだね」
 いずれ彼らとの間に写るはずだった写真を、手元に置いていた。
 自分を傷つける父親と、いつか自分の体を乗っ取る母親の写真を、インクの汚れや擦り傷なく残されているのだ。
 ジキルがどんな気持ちで見ていたのか、フクには想像もつかなかった。

「フク、こちらの準備は終わりました」
 キョウが楽しそうに、『ヘンリー・ジキル』を椅子に座らせている。自分の支えていた主人が、実は偽物だったことに何の動揺も見せていない。
 それどころか、今にも鼻歌を歌って踊り出しそうだ。
 フクはたまらずに聞いた。
「キョウさん、なんで楽しそうなの?」
「え?楽しそうですカ?そうでしょうか?そうですね、そうかもしれませんねぇ!」
 キョウはだんだん興奮してきたのか、会話が弾んでいくのがわかる。
 いつの間にか、ワザとらしい日本語も、なくなっている。
「さっきたくさんの人形たちを失ってしまいました。が、こんなに美しい女性の器が残っていたんですよ!嬉しくないわけないですよねぇ!」
「ひっ・・・」
 急に、ズイズイとフクの顔を正面で覗き込んできた。
 フクはたまらず後ずさるが、先にキョウに肩を掴まれて逃げることができない!
「いいですか?このヘンリージキル様は、この女性よりも体積が大きく、水分含有量は、残っていた血液や床のシミだけでも明らかです!それなのに、このガレッタ様という女性は、皮膚の状態からしてみても奇跡的に生前と変わらないぐらいの水分量です!表面が若干乾燥してしまっていますが、それでもこの死体処理が完璧で、尚且つ私の知らない薬品や防腐処理、肉体処理をしているのは確かなんです!この世界だけの方法なのか、悪魔と呼ばれていた存在だけが知る処理なのか、わからないですが、これはまずジキル様を捕まえて聞かなきゃイケマセンヨネェ!!」
「ひゃぁ・・・」
 フクの喉の奥から悲鳴が上がる。
 途中から何を言っているのかわからなかったが、キョウの関心が死体について向いていることがわかった。
 ハアハアと息を荒くして、フクに詰め寄る姿は、悪鬼の興奮とも神の慈愛とも違う笑みだ。似たような笑みを思い出すならば、以前韓国のアイドルにハマっていたキシ姐の顔だろうか。
 キョウが人の死体を使う術を使っているのに、『黒煤』、邪気の類が現れないことの理由に納得いく答えが見つかった。

【問題:なぜキョウから黒煤が漏れないのか?】
【答え:他人が入る余地など少しもないほど、趣味に走っているから】

「キョウさんって、今を生きてるって感じする」
「今を生きないで、いつ生きるんですカっ!時代というものはいつだって、我々を無情に引き剥がすんですよ!ならばすぐに行動に移したほうがいいに決まってるじゃないデスカっ!」
 「うひょー」と歓喜の声をあげて、死体たちに詰め寄っている。
 このままだと、キョウは夜通しで遺体を調べ始めると思ったフクは、キョウの後ろから「先に下のジキルさんをどうにかしよう」と注意した。
 ピタ、と落ち着いたキョウは自分の人差し指を、自分の下唇にちょんちょん、と触った。
「旦那様についている犬神は、」
 下で眠っているヘンリー・ジキルを名乗っている男。彼に憑いている犬神は間違いなく首を切断された、本物の「ヘンリー・ジキル」だ。彼は息子のエドワードを10歳になるまで、少年を秘密の部屋で隠し、妻の入れ物にしようとしたが、失敗。エドワードの代わりに、妻の妹『ガレッタ』を屋敷に招き入れ彼女を入れ物にした。だが結果は失敗。薬にガレッタが耐えきれず、死亡したとある。
 手帳にあった「失敗作を自分に・・・」というのは、妻の代わりに自分の魂を・・・

「エドワード君」
「そうですヨネ、父親のヘンリーは、息子に自分の人格を・・・」
「エドワード・ジキルが、自分の父親を殺したんだよ」
「・・・は?」
 キョウが予想外という顔で、フクを見る。
 フクからしてみれば、なぜヘンリーが自身を殺さなければならないのか、その発想がない。
「ヘンリーは自分の血に浸した丸薬を飲ませて、エドワード様の身体を乗っ取ってから、目の前の自身を殺したのでは?」
「それだと移した後、それまでは同じ人の魂が、二つあることになるじゃん。どっちを残すとかできるの?」
 写真の中のヘンリーも、下で眠っているヘンリーも実に我が強い。
 もしも、自分のコピーが目の前にいたら、自分はどう行動するのか・・・、おそらく、ろくな結果にならないだろう、とフクは思う。
 「そもそも」とフクは言葉を付け加える。椅子に腰掛けた状態のジキルの首元を凝視する。
 傷口はキョウが仮止めしたと言えど、ボコボコの傷口の線は、テープでくっつけたおもちゃように歪だ。だけど、初めから最後まで、その切り口、首の後ろから正面、真っ直ぐに両断したことを物語っている。
「ヘンリーさんは、奥さんのために、エドワード君の中に魂の入れる場所を増やした」
「詳しくは知らないけど」とフクは言葉を続ける。
「ヘンリーさんは、頭を刺激する薬とか知ってた、んじゃ無いかな」
 薬には、千差万別、多種多様の用途の効能と使い方がある。人格を増やす薬は聞いたことはないが、精神を落ち着かせたり、興奮させる薬は元の世界でも医療で使用されている。人格を増やすなど狙ってできるわけがないが、ストレスを精神的に追い込ませることはできたのだろう。
「ヘンリーさんは、増えた人格に入り込もうとしたみたいだけど、ストレス回避で増えた人格が空っぽなわけがない。だから犬神は今も、被り物のような姿でしか、今もエドワードくんにくっつけない半端な状態だ」
「ですが、エドワード様はまだ十歳の子供ですよ?子供の力で成人男性の首を切り落とせるものですか?」
「・・・できないの?」
「人間の子供はできませんね」
「そっか・・・、ただ犬神憑きの話に戻るんだけど、犬の首を切り落とすときにね、切り落とした術者の顔を見られると、犬神に食い殺されるんだって」
「まさか・・・」
「多分エドワードくん、結局失敗しちゃったんじゃないかな?ヘンリーさんに顔見られて・・・」
 フクが、ヘンリーの後ろにいるキョウを見上げる。
「なら、下で眠っている彼は・・・」
「僕もそれだけがわからない。人ってそんな早く成長できるものじゃないでしょ?
でも、あのジキルさんがもしエドワードくん(子供)だったら、さっき下で僕が見えたのも納得できないかな?」
 『ざしきわらし』を見る条件、それは・・・
「もとより、幼い子供だったなら、フクを見たって不思議じゃなかったんだ」

 薄暗かった部屋も、あかりをつけなければ真っ暗になっている。時計があれば、おそらく夜の八時は過ぎているだろう。
 キョウは夜目が効く。
 月明かりがわずかしかない部屋でもどこに何があるのか、問題なくはっきり見える。だが、目の前の少年の顔だけが、黒いペンキで塗りつぶされたかのように、視認できない。
(そろそろ、彼の人柄というものが、わかってきた気がする・・・)
 きっと笑顔で舌なめずりしているだろう少年を咎めることはしないし、キョウはできない。
 キョウとて人の死体を扱っている以上、清廉潔白ではないのは確かだ。だが、目の前の少年は「ざしきわらし」という幸運の象徴として立場を置きながらも、彼が笑顔を見せるのは人の妬みや恨み、そして呪いなどの『悪意』とされるものに接したときだ。
 彼の言う『黒煤』というものは、それらから出るという・・・
 それを食す彼は、ある意味誰よりも『悪事』を望んでいると言っても過言ではないのだろうか?
(その割に、自信なさげなのは何故なんでしょうね・・・)
「悪意」を食らう。
 それだけでも、守り神として人から喜ばれそうなものなのに、なぜ周りから「落ちこぼれ」と呼ばれるのか。
ことん、・・・ことん、・・・ごと・・・ギィ・・・・

「ねえ、キョウさん・・・」
「ええ」
 突然、呼びかけられても動じることなく返事をする。
 フクの視線の先には扉。つい数分前までは、隙間なく、きっちりと閉じられていた扉だ。だが今では月明かりが漏れて、人一人分の影を生み出している。
 廊下の窓の丸い月を背景に、扉を支えに立っている男は今にも倒れそうなほど、荒い呼吸を繰り返している。
 おそらく立っているのも限界なのだろう、だが、反対の右手には、使用人たちを何人も葬った太い幅のナタが、我々に燃え盛るような殺意を向けていた。
◼︎
お父様は、僕に「エリスの器になるのだ」といつも言ってくれた・・・。
 特別な『教育』
 特別な『会話』
 特別な『思想』
 そして『秘密の思い出』
 お父様は、僕と二人っきりで丁寧に教えてくれた。
 僕が本の内容を理解すると、「さすがエリスの子だ」と言った。僕は嬉しくて、もっとお勉強を頑張った。
頑張ってた。
 僕はお父様が大好きだ。
お父様の望む「エリス」との思い出。
「エリス」の言葉遣い。
「エリス」の知恵。
「エリス」が、お父様に使う言葉。
「エリス」が、お父様に作る食事。
「エリス」が、お父様を観察する目。
「エリス」が、お父様の癖を笑う声色。
「エリス」が、お父様の声を聞く耳の傾け方。
「エリス」が、帰ってきたお父様の香りを嗅ぐ姿勢。
「エリス」の、お父様への愛。

 だけど、僕は「エリス」が、お父様への隠し事だけは知らなかった。
 だから僕は、『エリス』のことを知るために、お父様に頼んで、彼女の部屋を眺めてた。
 部屋の両側には、本棚がみっちり置かれていて、奥のガラス窓の前に置かれた机が、部屋の主を気取っている。
 僕は机の側までよると、机の上を一つ一つ、観察する。
 整理整頓された机の上。お父様と一緒に写った写真が置いてある。エリスは大切なものを近くに置く癖がある。彼女の机の横には、赤ん坊を入れる揺籠が置かれている。きっと仕事をしながら、お父様との子を見るつもりだったのだろう。
 僕は机の上の写真を手にとった。この部屋に入ったのは久しぶりなのか、写真立ての跡が机の上に取り残された。
 写真はお父様の持つものと変わらない、二人の写真だ。いずれエリスの姿が僕の姿になるのを、実は心待ちにしている。なぜなら僕の写真はこの屋敷に一つもないからだ。
「早くエリスになれないかなぁ・・・」
 僕はワクワクが止まらなくて、ふふふ、と笑いが溢れた。
 ふと、写真たての中の写真が傾いていることに気がついた。持ち上げた時にずれたのだろうか。すぐに裏返して、ふたの金具を開けた。すると、バラっと中身が机の上に散らばってしまった。僕は写真立てを横に置いて、すぐに中身を集めた。

『愛しい我が子、エドワードへ』
 一枚の紙が、僕の目を射止めた。

(僕あての・・・手紙?)
 手紙はシンプルなもので、一枚の紙を二つに折っただけのものだ。なぜそんなものがあるのだろうかと、考える。エリスは表にこそ出さないが、実はイベントごとが大好きである。
 お父様との初デートの日、誕生日、妹の入学式があった日など、事細かに覚えていて、よく手紙とプレゼントを送っていた。そのことはお父様から聞いていたので、よく知っている。
 おそらく、この手紙もその類なのだろう。

『愛しい我が子、エドワードへ
 お誕生日、おめでとう。
 私がこの手紙を書いているこの瞬間、まだあなたは私のお腹の中にいます。
 ですが、毎年、あなたの誕生日に手紙を書き、いつの日か贈りたいと思っています。
 今は決まっていませんが、この手紙を読んでいるあなたが、自分のことを卑下している時にでも渡したいと思っています。
 そうならないことを望みたくはありますが、私とヘンリーの間の子です。自分の力不足に打ちひしがれて、死にたくなる時があります。私もありましたとも。
 なので、もしもそうなった時にはこの手紙を読んでください。もしかしたら、未来の私は反対しているかもしれませんが、少なくとも今のエドワードの選択を私は支持します。
 誰かに道を強要されているかもしれません。誰かに非難されているかもしれません。それでも私はあなたの選択を尊重します。
 失敗してもいいのです。私たちに反抗しても構いません。
それでも、自分を蔑ろにしたり、卑下したり、一生の傷になるようなことをしないでください。あなたが健やかに入れることを私は望みます。
 最後になりますが、お誕生日、おめでとう。私とヘンリーの息子、エドワード・ジキルへ。
愛してる」

 ぽた ぱた ぱた・・・

 紙の上に、大きい水滴がいくつも落ちた。
 紙に書かれていたのは『愛の言葉』。お父様でもなく、お父様が語るエリスでもない。本物の『お母様』がくれたボクへの言葉だった。
 お父様へ送る手紙は、事務的な表現が多かったのに、この手紙は子供に向けての慈愛が感じ取れた。
 そう、子供・・・エドワード、この僕だ。
「お、おかあ・・さま・・」
 僕は嗚咽を漏らす。
 僕は知らない。彼女が子供についてどんなふうに思ってるか。
 僕は知らない。彼女が子供に望んでいたことを。
 僕は知らない。彼女が生まれてくる子供のことを、どれだけ愛していたか。
 僕は知らない。僕は知らない。僕は知らない・・・・。
 でも・・・・
 僕は知ってしまった。彼女が望んでいることを・・・。
「『お母様』は、望まない・・・!」
 お母様は、我が子(僕)の体を犠牲に蘇りたくない。
 誰よりもエリスを、誰よりもお父様を知ってしまった、僕が出した『答え』!
「僕はどうしたらいいの・・・?」
 お父様は『エリス』を蘇らせようとしている。『エリス』は僕の体を使って蘇る。でも『お母様』はそれを望んでいない!
 彼女を知り尽くした、彼女自身になりつつある僕が、知ってしまった!
 
「僕は・・、僕は、僕は、僕は、ボクは、ボクはボクはボクはッぼくは・・・!!?」
 壊れた鳩時計のように、何度も何度も何度も繰り返していたらしい・・・
 頭を掻きむしっている僕を、見つけた使用人たちから教えてもらったことだ。
 それから三日ほど僕は、ベッドから起き上がることができなかった。何も食べれず、使用人たちも気味悪くなっていたほどだ。
 それもそうだろう・・・今までにはない感情が僕に湧き立っていた。
 いや、これは、僕ではない・・・エリスのだ・・。今まで知らなかった分、新しく『エリス』が書き換えられていく・・・。

 エリスが・・・怒っているのだ。
 
「お前はここから出てくるな」
 お父様はそれから、僕を部屋から出してくれなくなった。僕が、エリスが、お父様に苛立ちを抱えていたのだ。何度も、エリスが僕の口を借りて父に訴える。エリスは「もうこんなことをやめてくれ」と言ったのだ。「エドワードをもう解放して、普通に暮らしてくれ」と。
(でも、僕は・・・お父様は・・・)
 お父様は、僕の中のエリスは間違っているらしい。理想のエリスではないらしい。
でも、僕の中にいる『エリス』は、間違いなく・・・
(僕のお母様だ・・・)
「お父様・・・エリスは・・・お母様はね」
「お前には失望した・・・」
「お父様!!」
 バタン、と閉じられた扉。今でもこの部屋は真っ暗で、ずっと閉じられたままだ。
今でも、僕の世界は朝が来ない・・・。

◼︎
 フクはコクリ、と唾を飲み込む。
 部屋の入り口に立っていたのは、言わずもがな、犬神憑きのエドワード・ジキルだ。夕方見たときよりも、犬の被り物は頭部だけでなく、曲がった背中まで、ジキルの体から生えている。犬神は本物のヘンリー・ジキルから生み出された本物に近いものだとしても、本人はフク達の後ろに物言わぬ体となっている。あれはもう執念の塊というものだろう。
 犬神はフクを見て、「グルル・・」と唸っている。
「キョウさん、作戦開始、ってやつだよ」
「知道了(わかりました)、・・・手筈通りに」
 キョウがジキルと立てた作戦は、シンプルだ。
 キョウが犬神を『ヘンリー・ジキル』の体に封印し、それまでフクが部屋に隠した捕縛陣の中に誘い込むのだ。問題といえばフクがうっかり捕縛陣の中に入ることぐらいだろうが、すでに場所は知っている。
「鬼さんこちら!てのなるほうへ!」
 軽い足音で部屋中を駆け回るフクを、犬神がガチンガチンと鋭い歯を鳴らす。それと同時に、本体のエドワードがフクを捕まえようと、ブンブンと鋭い音を立てながらナタを振り回している。
 フクは「ひゃ」とか情けない声をあげているが、薄皮一枚といったところで避けている。それがエドワードについている犬神を苛立たせて、キョウのことまで視野に入れていない。
(これなら!)
「フク!」
 執務室の奥、ジキルの体の背後に立つキョウがフクを呼ぶ声が聞こえた。フクは犬神の鼻先を蹴って一っ飛びで机まで飛んだ。
 虫を追うツバメのように、素早く滑らかな動きで、飛んでいったフクを追いかけた。
 フクの体をすっぽり包める大きな前足で床を食い込ませ、全力で飛び掛かる犬神は、犬の躍動感があるが、引きずられるように母体が血を吐きながら追いかける様は、確かに禁忌とされるほど痛ましく、悍ましい。

「かかりましたネ」

 犬神が机の前まで足を踏み込むと、周囲に電光が走った。
ギャンギャン!!
 犬が、ようやく自分が罠に嵌っていたと、怒りの声を甲高く吠える。
 犬が戸惑う間もなく、じゃらじゃらと犬神とエドワードの体に、呪力で形成された鎖が巻き付いていく。犬もただ囚われるだけではなく、鎖に噛み付いたりして抵抗する。
 犬が食いちぎらんと、口を開けると下顎に鎖が巻きつき、前足で掻こうとすれば肘を曲げたまま地面に縫い止められる。どんどんと鎖が巻き付いて、犬神自体の体が見えなくなっていく。
「さあ、【飲み込め!】」
 キョウが糸を纏めて引くような手振りをすると、ずり、ずり、と犬神がフク達の元へ引き摺られていく。いや、正確にはフク達の元ではなく、その手前にある『ヘンリー・ジキル』の体だ。
 犬はなす術なく、その体に、食われるように引き摺り込まれていく。
「おお・・・」
 場違いな歓声が、キョウの横にいる少年からあげられたが、犬が完全に収まった瞬間、すぐに封印の札をジキルの頭に貼り付けた。
「フク!今です!!」
 札を貼った瞬間、一瞬にして札が黒く変色し、ドロドロに腐っていった。札ごしとはいえ、貼り付けた指先が、刺激物に触れたようにジリジリする。
 キョウが手も足も出なかったのは、この犬の怨念の強さだ。
 ヘンリー・ジキルの遺体を封印の器として使ったから、まだ原型を保っているが、1分もしないうちに内側から食い破ってくるだろう。それを保つために、用意した札を貼り付けていかなければならない。
(それまでにフクが、この呪物を喰らえれば・・・!)
「どいて」
 とん、と机の上を踏み台にした音が聞こえたと思ったら、キョウの頭上から声がした。 
 バッ、と上を見上げると、フクが天井から降ってきたので、間一髪のところでかわした。
 ばくん、と低い音が部屋中に鳴り響く。
【ウマい・・なぁ・・・】
 ばき、ばき、と骨が折れ、ブチャ、ビチャと液体が弾く咀嚼音が目の前の少年から聞こえる。少年がいる場所には、椅子にかけた成人男性が座っていた。それが今では少年の後ろ姿しか見えない。
 昼間にも複数人いた人形達を喰らっていたが、その時は紫外線避けのために雨戸を閉め切っていてよく見えなかった。だが、今、部屋の入り口から差し込む月明かりで、その様子をはっきり見た。
 フクがキョウの真上から飛んできた時、一瞬にして彼の体は十倍ぐらいの大きさに広がった。
 違う、広がったのは体ではない、彼の口だ。
 フクの口が、サメや鯨のように上下に裂けたのだ。
 それだけではない、フクの口端は首元までに収まらず、肩、指先まで裂けた。口の中を見せていた。口の中には、虫の足のような細長い、複雑な構造の触手が無数に生えていて、それが封印した遺体をしっかり掴んで体に収めていった。
 むしゃ、むしゃ、と口を動かして、可愛らしく食べているフク。
 流石のキョウといえど、腰を抜かした。
 今までに奇妙なものだって見てきたキョウも、生まれて初めてカマキリやコオロギの口の中を見た時のような衝撃があった。
「はわぁ・・・」
 決死とはいかないが、困難を極めるだろうと思っていた封印が、わずか数秒で解決してしまった。だがそれよりも、こくん、と喉を鳴らして「ご馳走様」と行儀よく手を合わせているフクの本性の一端を見てしまったことに、思考が停止してしまっている。
 だがすぐにそれも、元に戻る。
「キョウさん!エドワードくんを診て!」
 フクがキョウの腕を引っ張る。
「えっ!ああ・・はい」
 動けなくなった体を叱咤して、どうにか立ち上がってよろよろと、フクの手に支えられてエドワードの元へ移動する。
 その間にも、フクの手が先ほどハエトリグサのように開いていたことを、思い出していた。
「エドワードくん、大丈夫?」
 フクが連れていってくれたのは、うつ伏せに倒れている少年がいた。普通の十歳より背が高いが、彼こそがヘンリー・ジキルを名乗っていた『エドワード・ジキル』なのだろうと頭で理解する。
 足元を見ると、いつも履いている靴がなく、靴下のままだ。今まで履いていたものは厚底だったのだろうか・・・。
 彼の脈、呼吸、瞼をこじ開けて、何度か月明かりで瞳孔の動きを確認すると、心配するフクを見て大きく頷いた。
「今は呼吸と脈は早いですが、もう犬神が取れたなら、あとはゆっくり回復に向かうでしょう」
 事態が落ち着いたら、しっかりした医師に診せるべきだが、ただ眠っているだけの少年の顔は安らかだ。
「よかったぁ・・・」
 安心したフクに先ほど『食事』をして黒く汚れた口元を、よだれを拭いたハンカチで綺麗にした。
(もうこれ、あとで燃やそう)
 持っていたら、それこそ呪物になりそうなキョウのハンカチは、誰にも知られずに燃やされることになる。少し哀れに思いながらも、懐にしまい。エドワードを部屋に運ぼうという話になった。
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