もどろきさん

藤瀬 慶久

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第41話 帰郷

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 隆が傷を負った多景の艦長代行として本土へ戻っている頃、伊香立村の秋川家では千佳が仏間に端座していた。
 千佳の対面に座っているのは、姉の喜代と叔母の志保だ。

 喜代は両手を着き、額を畳にこすりつけんばかりの姿勢になっていて、背筋を伸ばして座る千佳はどうしても喜代を見下ろす格好になっていた。
 そんな二人の様子を志保は心配そうに見ている。

「今更厚かましいことを言っているのは分かっています。でも、お願いします。
 どうか私達をこの家に置いて下さい。お願いします」

 正直に言うと、千佳は戸惑っていた。
 確かに以前千佳は喜代を追い出した。それは、単に喜代の言動に腹が立ったからというだけでなく、今まで我がまま勝手をしてきた喜代を周囲の大人たちが受け入れようとしていたことに腹を立てたからだ。
 父も母も喜代の勝手な振舞を叱ってはいたが、それはそれとして喜代が帰って来ることそのものは嫌がっていなかった。

 千佳はそうした周囲の態度にこそ腹を立てたのだ。
『お姉ちゃんばかり好き勝手したのに、ずるい』
 有り体にいえば、それが千佳の本音だった。

 だが、今は少し感じ方が違っている。
 千佳も子を授かってから、その時の両親や志保の気持ちが少しは理解できるようになっていた。

 つまるところ、親とはそうした生き物なのだ。

 例えば真知子や清が同じように家を飛び出したとして、同じようにふらりと帰って来たら千佳は何をおいても迎え入れてやっただろう。たとえ誰に何を言われても、我が子を守ろうとするだろう。
 自分も人の子の親となった今、ようやくその気持ちが理解できた。

 家の外からは喜代の産んだ男の子が清と一緒になって遊んでいる声が聞こえる。
 清の方が一歳年上だが、初対面であるにも拘わらず、何のわだかまりも無く一緒に転げ回って遊んでいる。

 喜代も千佳と同じなのだろう。我が子を守るため、少しでも安全に過ごせる場所を求めて帰郷してきたのだ。
 朝鮮半島にまではまだ戦火は及んでいないが、もうこの戦争は勝てないと誰もが分かっている。喜代の夫も、少しでも安全に過ごせるようにと妻子を内地に帰らせたのだろう。

「おねえちゃん。顔を上げて」

 千佳がそう言うと、恐る恐るという感じで喜代が顔を上げた。

「ウチも田んぼの仕事も人手が足りなくて困ってたんよ。帰ってきた以上はしっかりと働いてもらうから、覚悟しておいてね」

 そう言って千佳が笑うと、喜代は思わず涙をこぼした。

「ありがとう。千佳、本当にありがとう」
「近頃は物騒やから、ウチとしても人が増えるのは有難いんよ。これからは力合わせて、ちゃんと生きていこう」
「うん……うん」

 志保はその様子を見て心底ほっとしたような顔をした。

 今や新次郎は工場に行ったきり滅多に帰って来ず、母も腰を痛めてしまって農作業は全て千佳と真知子が回している現状だ。
 加えて食糧不足も益々深刻になっており、畑泥棒なども増えてきている。

 そんな中で女だけで切り盛りする家庭は、いかにも不安で心細い。例え女手とはいえ、家に人が増えることは純粋に有難かった。



 年が明けて昭和二十年となった一月。
 隆は軍令部の山本親雄大佐と共に横浜の連合艦隊司令部を訪れた。
 目の前には参謀長の草鹿龍之介少将を始め、連合艦隊参謀の面々が顔を揃えている。その中には神重徳大佐の顔もあった。

「それで、今日はどのような用件でわざわざ参られたのですか?」

 連合艦隊参謀長の草鹿が山本に顔を向ける。
 おおよその用件は察しがついているはずだが、草鹿の顔に不機嫌の色は無い。その顔を見て山本は幾分か安心したように口を開いた。

「先日のレイテ島での戦闘について、第二艦隊参謀より軍令部に要望がありました。今日はそれを伝えに参りました」
「……伺いましょう」
「では。
 今回の戦闘において、栗田・西村両艦隊は味方の航空支援のないまま突撃し、多くの犠牲を払うこととなりました。
 西村艦隊においては特にそれが顕著であり、ここに居る秋川中佐を始め生還できた将兵はほんの一部です。
 味方の航空支援の無い場合、航空兵力の優勢な敵と戦闘を行うことは無謀とも言える行為であり、今後連合艦隊にはこうした作戦を慎んで頂くようお願いしたい」

 山本の言葉に対し、草鹿は目を伏せがちにしながらもはっきりと頷いた。

「承知しました。今後の作戦は……」
「お待ちください」

 承諾の返答をしかけた草鹿を遮り、神重徳大佐が立ち上がった。一座の視線が神に集まる。
 山本や隆も同じく神を見たが、神の視線は山本ではなくはっきりと隆に向いていた。

「神大佐。何か不服でも?」
「ええ、不服です。
 これまでの戦闘において失敗したのは、現場に勇気が欠けていたためであります。勇気さえあれば、優勢な敵航空兵力があっても大艦をもって上陸作戦時の攻防戦に参加させることは必ずしも不可能ではないと考えます」

 周囲は少しざわついたが、隆は神の言葉にさほど驚きはしなかった。神重徳ならば言いそうなことだと思っていたからだ。
 だが、予想はしていても腹が立つのは変わらない。
『勇気』だの『大和魂』だのと言うもので航空機が落とせるのならば、誰もこんな苦労などはしていない。

 言い返そうとした隆を制止し、山本が神に言葉を返した。

「神さん。これは単に勇気だけの問題ではない。
 実際、第一次ソロモン海戦ではあんた自身が上空援護がないことを理由に第八艦隊の撤退を進言しているじゃないですか。
 自分は撤退しておいて他人には勇気が足りないと言い切るのはいささか……」

 山本の言葉に神の顔が見る見る真っ赤になった。

「あの時は何よりも艦艇の損害を抑えるようにと軍令部総長からの指令があったからだ! だが、レイテ島の戦いではそんな指令は出ていない!
 そもそも、艦隊司令が玉砕覚悟の前進を指示していたのに、戦隊司令の勝手な判断で反転したことは重大な命令違反だと我々は考えている。
 蒲生戦隊司令に今少し勇気があれば、必ずやレイテ湾に屯するアメリカ艦艇を撃滅し、レイテ島を――ひいてはフィリピンを奪回できただろう」

 あくまでも自説を曲げない神の言葉に山本も深く息を吐いた。
 航空機支援の無い艦隊突撃はただの自殺に等しい。このことは、もはや海軍の現場では常識となっている。
 事実、航空機支援の重要性は第二艦隊だけでなく第一機動艦隊からも軍令部に具申されている。神の言動はこうした現場の艦隊の意見を封殺するものであり、ただの根性論、精神論の類でしかなかった。

 その時、隆は静かに、だがはっきりと言った。

「フィリピンの奪回は、できたかもしれません」

 山本が驚いて隆を見、神はそれ見た事かと言わんばかりに笑った。
 だが、続く隆の言葉に神は押し黙った。

「ですが、フィリピンを維持できたとも思えません。あの時、我々がレイテ湾に突撃し、敵艦艇を追い払ったとして、その後連合艦隊は増援を出せましたか?」

「そ、それは……」

「そんなものは無かった。栗田艦隊は敵の空襲に苦しみ、我々西村艦隊からの呼びかけに応答すらできない状態でした。
 味方航空機は少数で、それでも栗田艦隊を支援しようと特攻によって多くの航空機が散ってゆきました。
 果たして、我々は何のために突撃すべきだったのか。フィリピンを確保する目途も立たず、例え確保しても補給の目もない。そんな状況で我々がレイテ島に上陸して、一体何ができたのでしょうか?」

 神を始め、連合艦隊参謀の全員が押し黙った。
 誰も彼も、言われるまでも無く当時の状況は分かっている。増援が出せたかと問われれば、そんな物は出せなかったという結論しかない。

「我々は、臆病故に反転したのではない。勇気が無かったから反転したのではない。
 あのまま戦い、勝った所で無駄に死ぬだけだったからこそ、反転したのです。生きてもう一度戦う道を選んだのです」

 これは隆なりの連合艦隊司令部に対する皮肉だった。
 連合艦隊司令部は当初から現場に玉砕を望んでいた。現場が悉く玉砕すれば、国民に対しての言い訳も立つということだろう。

 だが、現場で玉砕するその一人一人は、誰かの夫であり、誰かの息子であり、誰かの父親なのだ。
 誰しも無駄死にをしたい者など居ない。そのことを言外に込めた。

「お話はよくわかりました。今後はこのようなことの無いよう、徹底させましょう」

 参謀長の草鹿の言葉が虚しく響く。
 神などはとても納得したような表情ではないが、ともあれ連合艦隊参謀長の口からその言葉を引き出したことで、山本は一定の成果とした。
 だが、隆はその言葉を心から信じることは出来なかった。

 敵は沖縄に迫っている。

 レイテ島の海戦で投入された特攻部隊は、以前から研究こそされていたものの実戦に投入することは上層部が許さなかった。
 事実、レイテ沖海戦で特攻を命令した大西瀧治郎中将は、当初から特攻には反対の立場を貫いていた。

 だが、特攻は実施された。

 特攻するのは何も航空機だけではない。
 レイテ湾に臨んだ西村艦隊などは、まさに軍艦による特攻と言えるだろう。
 今回は『現場の判断』によって生き延びたが、このまま戦争を継続する限りいつかは軍艦ごと敵に突撃する日が来るだろう。

 蒲生の期待していた『終戦に向けた工作』を隆も期待せずにはいられなかった。

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