アニマスブレイク

猫宮乾

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 妹から返信がなければ、きっと誰かが怪しむだろう。
 そんな考えで、以来務は、妹のふりをしてメールを打ち続けていた。姉には、具が変わったお粥を上げ下げする際に、日に日に有紗の具合が良くなっているようだと嘘を吐き続けながら。
 こんな事がばれたら、大学の進学など出来なくなるのではないのだろうか。
 こんな事がばれたら、姉も父も職を追われるのではないのだろうか。
 こんな事がばれたら、自分の人生は破滅するのかもしれない。
 そんな事ばかり考える。良心的な理性は、道を踏み外すなと警告してくる。
 けれどそれが何だと、無感情な理性が告げる。
 離人感が酷く、日に日に強まり続ける中では、全てがどうでも良いことであるように、務は感じていた。ただ確かなことは、出来る限り長い間、有紗のことを隠し続けなければならないと言うことだけだった。こうなってしまった以上、一度隠してしまった以上、糾弾からは逃れられないはずで、自分は何らかの手を打たなければならないのだろうと務は考えていた。
 有紗の部屋の温度を下げる事から始めた。強すぎる冷房は、務の部屋の側まで忍び寄ってくるとはいえ、どこまで腐敗を防いでくれるのか。腐敗に伴う悪臭を消すために、空気清浄機も強めた。けれど、これらは日増しに効果を失っていくはずだ。
 それでももう3日、務は何もないふりをして生活をしていた。
 初めは堅かった遺体が、次第に軟化してきていることも知っている。時折その体がピクリと跳ねることも知っている。ガスが抜ける音も聞こえる。そんな状況では深い眠りなど望みようもなく、一時微睡めば、腐りかけた妹が追いかけてくる夢を見た。転び、腐肉が削げ、白い大腿骨が顕わになる有紗。何という冒涜的な夢なのだろう。自責の念に駆られて止まない。
「なんだよ顔色悪いな」
 不意に声がかかった為、務は携帯電話を閉じた。
 見れば間宮が正面に仁王立ちして、画面をのぞき込もうとしているところだった。
 いつも彼は非常階段の音をさせない。
「ちょっと寝て無くてさ」
「三日ぶりのご出勤だって言うのに? それも昼休みに重役出勤。その上もう三時間目始まってるのにここにいる。結局でないのかよ、折角来たのに」
 いつも通りの揶揄だというのに、妙に腹が立った。今日は、姉が遅くなるかもしれないと言うから、買い物がてら、少し外の空気を吸いに来たのだ。姉の帰宅の心配さえなければ、正直家になど一秒でもいたくはない。しかし、自分がいない時分に、姉が妹の姿を見てしまったらと考えると、どうしても家を空けるわけにはいかない。
「今僕は自宅学習で良いんだよ。受験コースだし。通学してもしなくても良いの」
「そんな事は分かってるって。いやなんつーかまるで葬式あけみたいな顔してるぞ務」
 冗談めかした間宮の明るい声の中の、葬式という言葉に軽く息を飲んだ。
 もしも有紗の事を変に隠したりしなければ、昨日あたり葬儀だったのではないだろうか。
 弔われない遺体の魂は、安寧できるのだろうか。
 非科学的な事柄を信じているわけではなかったが、不意にそんな、感傷的な気分になった。
「務? 何かあったのか?」
「別に。ちょっと勉強してて寝てないだけだよ」
「勉強ねぇ。お前進路も決まってるし、遊べば? 少しは。バイトしてみるとか」
「遊んでるしバイトもしてるよ」
「え、嘘?」
「本当」
「何やってんだよ?」
「ゲームでRMT。ちょっとゲーム内の1000年を現実の1日で進められる方法見つけたから、一週間弱やって、そのアカウント売ってる。動物を作ったりするゲームなんだけど、結構面白いんだ」
「へぇ。何それ携帯のゲーム?」
「いや元々は違うけど、携帯でも出来るみたいだね」
「てかお前、携帯変えた? 弄ってる所自体、結構久しぶりに見た」
 何気ないその声に、務は動揺を隠そうと歯をきつく噛む。
 それから横に腰を下ろした間宮に向かい笑顔を浮かべた。
「変えてないよ。もう一台買ったけど」
「え、なんだよそれ?」
「だからバイト用にさ。これ、有紗と同じ機種なんだ。お揃」
「……へぇ」
「何かな、その間は」
「いや……やっぱりお前もシスコン的なものじゃないかなってな」
「お前も、って、何を間宮は宣言してるんだろうね。よく分かってるよ既に、君が妹大好きだって事は」
「おぅ。え、そういえばそろそろ有紗ちゃんの具合は良くなったのか? いつから学校こられそうなんだって日和が気にしてるんだよ」
 それまでの冗談めかした声音が、少し落ち着いたものになり、神妙な顔つきで、間宮がこちらを見ていることに、務は気がついた。
 確かに間宮日和からのメールは毎日何通も届く。先ほども、派手なデコレーションで返信を終えた所だ。病院でもう数日は自宅にいるように言われた、という主旨の文を送ったように思う。
「病院でもう暫く休んだ方が良いって言われたらしいよ。見た目は元気そうなんだけどね」
「病院て何処の?」
「さぁ。僕はついて行かなかったから分からないけど。何で?」
「初診うちの病院だったって聴いてるからさ。来てたんなら祖父ちゃんが言ってそうなもんだけどなぁって」
 そういえばこの周辺で最も大きい病院は、間宮総合病院だったなと思い出す。だが間宮という名字は、この街では珍しいわけでもないから、想定していなかった。
「そうなんだ。言ってなかったの? なら別の所に行ったのかな。本当は行ってないのかもね。休み癖ついてるのかもしれない。後で沙希香に聴いてみるよ。それより間宮の家が病院てのが初耳」
「え、それは妹から聴いてないの?」
「有紗からは兎も角、間宮の口からは聴くのが初」
 聴いていなければならない話題だったのだろうかと目を伏せながら考える。
 ここの所、有紗の一件ですっかり失念していたが、最後に間宮と会った時の会話を思い出した。結局の所、もう妹からあの件を聴くことは叶わない。けれど携帯電話の履歴を眺め、何度か関連しそうな話題を目にしたのは確かだった。
「ああ、悪ぃ……確かにそうだよな」
 だが、信じるのが到底不可能に思える、滑稽無糖な話題に思えた。
 例えば、蓬の陸地の隕石による原発の爆発事故は、実はMIOによるテロ事件だった、等というものがそれだ。
 遅効性の神経ガスを周囲に散布した後、核弾頭を中空爆発させ電子機器を破壊した、そんな内容だった。だから生き延びた人間は、発掘調査で天然ガスに出くわした場合に備え用意してあった防毒着を装備出来た三名だけなのだと、そんな話が妹の送受信したメールから読み取れた。妹にその話をした相手というのが、生存者の内の一人で、生存者の内のもう一人は、現在も後遺症に苦しんでいるのだという。最後の一人は、MIO側の人間で、全てで10着あった防毒着を纏った残りの7名を射殺し姿を消したのだという。
 その最後の一人が、今横で困惑した表情をしている、間宮良和なのだと妹は書いていた。自分と同じ歳なのだから、当時の彼は14歳になったかならないかといった年齢だったはずだ。妹に拠れば、当時の間宮は既に、大学院まで卒業していた設定だ。確かに近年では遺伝子レベルでコーディネートされた天才児は多いとは聴く。その上勉強している姿など滅多に見ないが、間宮の成績は良いらしい。だがそれは根拠としてはあまりにも弱い。間宮が天才だろうがそうでは無かろうが興味はないが、人を何人も射殺できるような人間だとは思えない。たまに暗い目をしていることはあるが、根本的に優しい人間だと感じるのだ。少なくとも、妹の遺体の横で平然と暮らしている自分とは違う。
「なぁ」
 ぼんやりとしていた務は、間宮の声で我に返った。
「友達でも言えない事があるってお前言ってたよな。隠しておきたい事ってさ。正直嬉しかった。でもな、世の中には、言って楽になることもあるんじゃないかと俺は思う。そういうのを聴くのが友達なんじゃないか? 俺だって無理に聴こうとは思わないけどな、もし何かあったんなら、言えよ? 聴いてやるから」

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