アニマスブレイク

猫宮乾

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 あれから約二千年が経過した。務は、腐葉土色の手袋をはめ直し、風にマフラーが掬われる事実には素知らぬふりで、紙袋を抱え歩いていた。規則的な石畳が並ぶ街路にて、緑の葉が舞い散る様を視界の端に捉える。
 成熟したアトラスティス文明が、今では陸地の多くへと広がり、その交易・物流の速度もコストも、在りし日のあの街を喚起させるまでになった。統一世界政府は、ヘラクレスの柱と呼ばれ、実質アトラス達による帝政が敷かれている。
 結局彼らに敗れた太陽派もまた文明を興しはしたので、そうした別のセグメントは柱の向こう側の世界と呼ばれている。ヴェーダのチームや神代プロジェクトも残存していて、これらは互いに親交を深めているらしい。
 ポセイドン神殿を眺めてから、左手の環状帯を一瞥し、務は居住地が並ぶ区画へと進んでいった。アトラスとウシャスのやりとりをいつか見たようにも思ったが、今でも仲むつまじいアトラスとクレイトの夫妻を見ていると、父なる天での記憶など、夢だったのではないかとすら思えてくるのだった。
 自分たちの文明とは異なり、楕円が主流の玄関扉を押し開く。ドアノブの形は変わらない。やはり基礎的な人体構造が同一だからなのか、同じような用途の道具や器具は多い。街並みこそ異国の情緒を感じさせるとはいえ、この世界が異なる文明なのだといくら囁かれても、理解は出来るが実感は伴わない。
 あるいは、成熟し洗練された姿になってから、務がアトランティスへと住居を構えたからなのかもしれなかった。
「ただいま」そう声を掛け、靴を履いたまま中へと進む。どうしてもこの様式には、務は慣れられずにいた。ダイニングテーブルに紙袋を置くと、そこには丁度電話を切る所であるらしい梓月の姿があって、彼は片手を上げながら通話を切断した。女の声が聞こえた気がした。
「おかえり」務が袋から取り出した、紙カップに浸る珈琲を手に取り、梓月が笑う。
「遇津さんは?」
「またゲームしてるよ」務の問いに、呆れたように返した梓月は、視線で背後を振り返る。続くリビングのブラウン管に向かい、コントローラーを必死に操作している彼女の姿に、務もまた苦笑した。
 ブラウン管など、過去を振り返る動画番組でしか見たことがなかったから、この都市では標準のモニター型だと知って驚いている。勿論それは最初だけで、今では、自分で選択せずとも、勝手に番組を変更しながら映像が流れ続けるその箱を、務は好ましく思っていた。
「嗚呼、また負けた」
 心底悔しそうな声を漏らし、遇津が立ち上がる。
「あ、おかえり。お腹減った。何買ってきてくれたの?」
 彼女の長い髪をまとめる飾りも、確か似たような物が自分が生まれ暮らした街にもあったように、務は思った。沙希香がいて、有紗がいた、間宮と机を並べ、日和とごくたまにすれ違ったあの街。
「全部照り焼きチキンです」
 3人で対戦していて、最下位になり、罰ゲームとして買い出しに行かされたのは先ほどのことだった。照り焼きチキンと、ハニーサンドしか無かった物だから、その選択は別に意図したわけではなかったが、似たようなパンとチキンのセットを、間宮が好きだったことを、不意に思い出した。
 ゴミ処理場での一件の後、すぐに務は間宮の元を離れた。大八島国で神代プロジェクトを進めていた梓月に引き取ってもらい、次第に仕事も手伝うようになった。それは丁度アトランティス計画が実行に移された頃のことで、即ちもう二千年は間宮とも会っていない。
「梓月君はどれが良い?」
「フキが選んだ物ならどれでも良いよ」
「だから全部照り焼きチキンなんですけど」
「言うなよ務。ほら色々あるだろ? 愛情がかかってるとか、かかってないとか」
「じゃあ一番チキンが小さくて、美味しくなさそうな奴をあげるよ」
「フキちゃんそれって、俺に痩せろって暗に言ってるわけ?」
「別にそんなつもりじゃ……冗談だよ冗談、冗談も分からないの?」
「愛情がこもった冗談かどうか、俺すごく知りたいな。食べさせてよ」
「や、やだよ。恥ずかしい」
 唇を尖らせた遇津を眺め、務は半ば呆れながらも、可愛いなと感じた。普段はさばさばしているというのに、今のように頬を染めながらも意地になる所など、とても愛らしい。
 年上ながら、変に幼くも思える。
 多くの面では、自立した大人の女性らしい空気を纏っていることも、つい虐めたくなるような心地を誘うのかもしれない。
 だから叔父の、愛情を込めた意地悪な瞳が、彼女を見守っている理由も分かる気がした。
「一口だけだからね」
 黙ってしまった梓月に対し、結局パンの包装を取り、差し出した遇津を見て、結局食べさせるのかと、務は思わず吹き出した。
「な、何笑ってんの? 子供は、見ない」
「別に。嫌、子供ってさぁ」
 口元をきき手で押さえながら、務は目を伏せ笑った。梓月はにやにやしたまま、パンを頬張っている。ただ一人遇津だけが怒ったように、照れるように、唇を開閉させているのだった。
「もう良い、トイレ」
「別に宣言しなくて良いから。フキは、女の子なんだからさ」
「うっさい」
 テーブルを軽く叩いて、お手洗いへと足早に向かった彼女を一瞥し、務は腕を組んだ。
「そんな事してると、愛想尽かされちゃいますよ」
「今の半分くらいになっても構わんよ。あいつ俺にものすごくものすごーく惚れてるもん」
「もん、て……いやぁ、僕ショックです。もっと僕の叔父さんと、遇津さんは大人で落ちついた恋愛関係なんだとばかり」
「冷静な恋愛なんて、そんなの恋じゃないと俺は思うよ。務もそのうち分かるさ」
 頬を緩めながら語る叔父に対し、務は苦笑しながら頷いた。
 目の前の二人の、穏やかで温かい関係を目にする度に、務は、失った幼いアイリ達と過ごした優しい日々が、それでも確かに自分にも、安心感のある関係性をもたらしていてくれたのだと思い出していった。
 だから時折、遇津に惹かれていると感じる自分が許せなくて、二人の間に入れない寂しさを痛感することにもたえられなくて、務は神代プロジェクトのエリアを出る決意をした。考えても見れば、間宮にしろ梓月にしろ、自分の面倒を見ていてくれたのだ。今ではプロジェクトに、少しずつながらも参画できるようになった自分が、独り立ちしないことの方がおかしいだろう。そう考え、二人の邪魔をしちゃ悪いから、と務が言った時の遇津の動揺の仕方と言ったら無かった。
 アトランティス文明の主力地域であるアトランティス島へと越してきた彼を、今でもこうして二人が訪ねてきてくれる理由を、務は未だ訊ねたことはなかったけれど、確かにありがたいと思っている。
「喧嘩友達だとばかり思ってたんだけどな」
「喧嘩する程仲が良い、って言葉があってだな」
「それは男女の間でしか通用しない言葉ですね」
 何とはなしに呟いた務は、ふと間宮の顔を思い浮かべた。自分と彼は、恐らく長いこと喧嘩をしているのだろう。けれどそんな可愛らしい名前の関係では、本質は言い表す事が困難な、実際にはもっと冷酷で陰惨な関係であるように感じる。すればするほど関係が悪化していく、積もる雪よりも激しく、かつ融解しない関係だ。
「なぁ、務」
「え?」梓月の声に、不意に思考が途切れた。
「まだ良和の事が許せないか?」心中を言い当てられた思いで、虚を突かれた務は息を飲む。
「お前、あいつのことを思い出してる時、何時も同じ顔をしてるよ」
 務の動揺を察した様子で、溜息混じりに梓月が笑った。
「でもな、もし何かあったら、良和を頼れ」
「何かって……大体もう、一緒にいた時間より、会ってない時間の方が長いのに、今更何を頼るって言うんだよ。そんな虫のいい話……」
「何かは何かだ。起きてみなければ分からないけどな、兎に角、何だってあいつなら、助けてくれるさ」
「どうして梓月さんは、そこまで間宮のことを信用してるの? 僕には無理だ」
「あいつは論理的な人間だけどな、理性より感情で動く質なんだよ。だから一件理不尽に見える行動でも、あいつの気持ちになってみると、分からんでも無い。つまり分かりやすい上に、情にも厚い。優しいんだよあいつは根本的に。ただそれだけだな」
「情に厚い? 何処が?」
「損得勘定抜きで行動する所とかな」
「そんなのよっぽど焔紀の方が」
「まぁ別に奴を頼っても良いだろうけどさ、その時は沢山の物を捨てる覚悟をしなきゃならないと思う」
「どういう意味?」
「お前には向いてないと思うって事。それより、俺、今日先に発つ事にしたから、今夜はフキの事を頼むな」
「え?」急に変わった話題に、驚いて務が顔を上げた時、丁度遇津も戻ってきた。
「今、発つって言わなかった?」
「んー、言ったけど」
「待って、私も」
「航空券が一席分しか取れなかったんだよ。急ぎだから、俺、先に帰るわ」
「急ぎって何の仕事?」すねるような遇津の声と眼差しに向かい、梓月が肩を竦める。
「放射能の無効化装置の関係」
「だってあれは未だ試作段階で、十分な効果なんて期待できないし、そんな、急ぐような案件……」
「さっきヴェーダのラートナーから連絡があってな。ちょっと思いついたことがあるんだよ。何だよ、俺がいなくて寂しいの? 嬉しいな、俺だってフキの事置いていきたくないよ」
「寂しいわけ無……」
「そうか、残念」
「……寂しいよ」
「とりあえず一日分の着替えだけ持って出るから、用意してきてもらえると助かる。そしたらチュゥしてあげるよ」
「……うん……ちょっと待ってて」
 心底悲しそうな様子で、螺旋階段を上り、上階へと向かっていく彼女を眺めながら、務は首を傾げた。
「さっきの電話、ラートナーからだったの?」
「まぁな。それより務、一つ頼まれてくれないか?」
「別に一つでも二つでも、出来ることであれば構わないけど」
「これを良和に渡してくれ。会った時で良いから」
「待ってよ、それは」梓月が机の上に置いた白い封筒を、慌てて務は押し返す。
「そろそろ仲直りしたらどうだ? 会うきっかけがないと、どんどん会いづらくなるだろ? 色々言ったから、面倒だと思ってるかもしれないけどな、これが叔父さんからの最後の助言。受け取れよ」
 目の前に強く差し出された封筒を、忌々しい思いで務が見据えていると、慌ただしく遇津が戻ってきた。彼女の手から外套と鞄を受け取りながら、立ち上がった梓月が屈む。
 目の前で二人が口づけする場面から目をそらす意味も込めて、務はただ、その封筒を眺めていた。
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