ダメ執事の沈黙

猫宮乾

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 そう、これは夢だ。
 まだ十三歳だった俺は、幼い妹の手を握っていた。

 貧民街の片隅で、ガクガクと震えている妹の体をなんとか温めようと、片腕で抱き寄せ、もう片方の手では骨のような妹の指先を握っていた。

 俺達は貧民街で生まれ育った兄妹だ。
 父は最初から不在で、母は妹を俺に引き合わせると、再び貧民街を出ていった。

 せめて孤児院の前に捨ててやれば良かったと当時の母には言いたいが、娼婦をしていた母は、貧民街の片隅に、俺を住まわせる小さな家を一応構えていたのでそこに妹を連れてきたのである。母は俺に妹を預けると、富豪の愛人になる事が決まったからとして、二度と会う事は無いだろうと笑って去っていった。

 それが母を見た最後の記憶で、その後俺は、妹と二人で生きてきた。

 食べるものもほとんどなく、痩せた土ではいくら野菜を植えても育たない。週に一度、孤児院や教会の人間が炊き出しに来てくれる事が、俺と妹にとっての命綱でもあった。

 だが、妹のマリアは、昨日から発熱している。満足に食べられない状況では、風邪は十分な死因となる。俺は決意し、破れた薄いボロボロの毛布をマリアの肩にかけてから、笑った。

「待ってろ、すぐに戻る」
「お兄ちゃん、どこへ行くの?」
「ごみを捨てに行くだけだ」

 それは嘘だったが、俺は必死に笑って見せたし、熱に浮かされている様子のマリアは、ぼんやりとしているようで、何も言わなかった。

 外へと出た俺は、空に輝く太陽の白さを忌々しく思いながら、貧民街を抜けた。
 少し進んで孤児院の壁を見る。だがその横も通り過ぎて、裕福そうな商人や貴族が足を運ぶ事が多い飲食店街を目指した。

 俺の身なりでは逆に目立ったから、皆が俺を避けようとした。
 暗黙の了解で、貧民街に生きる俺のような者はいないものとして扱われている。

 でも俺にとっては、きちんと俺もマリアも存在する。生きている。そして、生き続けるためには、薬を買うお金がいる。体力をつけるために食べるパンもいる。俺はその二つを手に入れるべく、ここまで来た。

 俺はそれまでに、盗みを働いた事は一度も無かったが、妹を助けるためだと決意していた。
 しかし手法が分からない。

 そう思っていると、丁度停まった黒い馬車から、黒い外套を纏った貴族が一人、護衛もつけずに降りてきたのが見えた。

 俺は全力で走って、ぶつかった。貴族は財布を外套に入れていると聞いた事があったから、ぶつかった時に、すろうと思った結果だ。

「危ない」

 だが、俺はその青年に抱き留められた。
 ――失敗した。
 そう気づき、目を丸くして、俺は真っ蒼になった。

 そんな俺を両腕で抱きしめている青年は、黒い髪の上に、黒いシルクハットをかぶっている。紫と闇を混ぜ合わせたような、綺麗な瞳をしている。僅かに釣り目だ。俺は過去に、こんなに綺麗な瞳を目にした事は無かったから、一瞬だけ見惚れた。

「大丈夫? 怪我はないかな?」
「……っ」

 そもそも、ボロ布のような汚れた服を着ている俺を、あっさり抱きしめる貴族というのは、後々考えれば非常に珍しいとしか言えなかった。

「名前は?」
「……」
「僕は、ジェフリーというんだよ」

 そう言って俺の体から両腕を外すと、右手でその青年は、俺の頬に触れた。そして親指で、俺の頬の汚れを拭った。

「ふぅん。中々綺麗な顔立ちだね。碧眼がキラキラしている。何歳?」

 それを聞いた時、俺は別の意味で蒼褪めた。娼婦をしていた母似の俺は、母譲りの美貌だと、時に囁かれ、おかしな貴族に押し倒されそうになった事が何度かあったからだ。その都度、殴って逃げてきた。

「ここで、何を?」
「……」
「言葉が分からない?」
「……」
「――僕は、食事に来たんだ。お腹が減ってしまってね」

 青年……ジェフリー様は、そう言うと、今度は俺の唇を人差し指でなぞった。俺が後退ろうとすると、もう一方の手を俺の腰に回した。そして目を伏せる。長い睫毛、端正な顔、それが俺の正面に迫り、驚いて硬直している内に、俺は唇にキスをされた。触れるだけの優しいキスだった。

「ごちそうさま。ああ、もしかして、君もお腹がすいているのかな? 僕の趣味は、孤児院への寄付で、ね。どうぞ、良かったら」

 ジェフリー様はそう言うと、あっさりと再び俺を腕から解放し、懐から取り出した財布から、紙幣を二枚手にして、俺に差し出した。俺はそれを奪うように右手でとり、すぐに走った。すりには失敗したが、気が変わられては困るし、あれ以上何かされるわけにもいかないと思っていた。

 その金で無事にパンと薬を買った俺は、数日後、マリアが回復した時は、本当に嬉しくなった。同時に――やはりスリをしてでも、生きていかなければならないと決意し、残った金で、平民に見える服を買った。街にまぎれこめる身なりをし、そしてその日、初めてすりに成功した。罪悪感はあったが、生きる事に必死だった。

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