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第四章 感情を超えた

君の匂い。

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 久方ぶりとあってか、水樹のヒートは二週間も続いた。抑制剤や往診のおかげで初日のような発情には至らないものの、倦怠感や熱、眠気が襲いかかり、ここまで悪化するとは水樹本人が思ってもみなかった。
 通常、数ヶ月に一週間続くヒートの間は学校を休まなくてはならない。これは会社勤めの社会人にも言える。本人の体調回復でもあり、フェロモンを撒き散らしてはならないために与えられたオメガの義務でもある。意味合いとしては後者の方が大きい。
 つまり、水樹は二週間も学校を休んだわけで不審がられてもおかしくはない。幸か不幸か、病み上がりには定期テストが待ち受けており、テスト勉強に血眼になるクラスメイト達からは深く質問されなかった。話題に触れられても「遊佐君! これ、休んでた分のプリント!」「こっからテスト出すみたいだから私の見せるよ」くらいだ。
 怒涛のテスト週間も去り、季節は青葉に水粒がつき始める五月下旬。
「行けええ! 陸上部の意地を見せてやれえ!」
「惜しいっ。バトン練習もう一回しよ!」
 来たる体育祭に向け、週三回の体育は競技の練習で埋めつくされた。授業だというのに音楽がかかっているのは生徒達へのエールではなく、
「彼方、ここのターンってどうすんの?」
「あ、それはこう、こうこう!」
「なるほど、わからん」
「守谷君っ! 腕の回し方ってこうで合っている?」
「そうそう。あと、足もリズムに乗せられたらいいな。バク転リーダーの高岸 たかぎしさんが上手いから参考にしてみるといいよ」
「ありがとう!」
 集団の中心で彼方が指揮っている。クラス対抗競技でダンスを披露することになり、男子のリーダーはダンスが上手い彼方が必然的にリーダーとなった。
 水樹は水道で顔を洗い、塩の香りがするタオルで拭った。今日は特に暑い。水樹が所属するダンスグループはテントで疲弊した体を休ませていた。
「声出してこー! あとスマイル、スマイル!」
「お、鬼だ、あいつっ!」
「指示が的確なのか肌感覚なのかわかん……ねっ……」
 文句を吐きつつも、踊る男子達の表情は明るい。彼方の教え方は懇切丁寧で、何度でも付き合ってくれる。下手でも怒らず、適材適所のパートを作ったのも彼方だった。
 汗は自然のアクセサリーらしいが、まさしくその通りだ。今の彼方は近くて遠い存在。
 つむじや肌を照りつける太陽にくらり。すぐに影へ避難した。
「隣、いい?」
 水分補給していたら、さっきまでリーダー業を務めていた彼方が声をかけてきた。水樹は二、三回瞬きを繰り返し、こくこく頷く。
「ちょっと張り切りすぎてさ。女子のパートはリーダーの丸内まるうちが担ってくれるから休みにきた」
 笑う彼方に少しだけ疲労の跡がある。水樹は彼方が座れるくらいまで砂利の上を尻で滑るが、「もっと近くにいて」と開いた隙間を埋められる。
(心臓の音、どうか聞こえませんように……)
 視線を足の山に落とす。
 休み明け、彼方は不安そうにしながらもいつも通り話しかけにきてくれた。モーニングメッセージは最初『おはよう! 今日会えるね!』といった元気なものから、翌日には『具合悪い? 安静にしてね』という気遣いに変わる。学校で会えなかろうが、『今日もお互いに頑張ろうね』と最後の一文は変えずに添える。既読もつかず、返信がなかったとしても、彼方は必ず毎朝七時に水樹宛に送信した。
「まだ体調が優れない?」
 頭から降ってきた声に温かみと滲んだものがある。胸が締めつけられ、針を突き刺された気分になった。ちらりと覗き見するんじゃなかったと後悔する。そんな後ろめたさが表情にありありと出たのだろう。
「保健室、行く?」
 まるで行かないで、と含みを持たせた言い方に聞こえる。水樹は首を振り、メモに書く。
『体調は大丈夫。ごめんね、心配かけて』
「そりゃ心配するよ、水樹君は大切な人だもん」
 また、グサリ。彼方の親切心が水樹の心を乱す。笑顔で当然のように返されるのだからたまったもんじゃない。
 「太陽が雲に隠れたわ」とあっちの方から喜びの声。
(俺は妄想の中といえ、彼方君を汚した。どう顔を合わせたらいいかわかんないよ)
 また視線を落とし、体を小さく丸める。影から闇へと移り変わる。
 水樹は必要最低限以上に彼方と話ができなくなっていた。テスト期間中も体育祭に向けての準備期間中もろくに話せていない。彼方がこっちにくる前に逃げてしまうのも理由の一つだった。
 恋愛感情のないまま友人同士で付き合ったり、セックスもしないだろう。ましてや番になるとかならないとかは、友達同士がしていい遊びの延長線じゃない。
 彼方は人として好きだ。相手もきっとそうだから自分と仲良くしてくれている。頭の片隅からの願いはオメガの本能に侵されたからであり──、
(なんで俺、オメガに産まれちゃったんだろ……)
 母はベータ、恐らく水樹が幼い頃に亡くなった父もベータなんだろう。両家共にベータしかいないのだから絶対そうだ。
 もちろん息子もベータだと安心していただろう遊佐家の長男にオメガが産まれた。数年前に他界した両家の祖父母は水樹を可愛がってくれたが、見えないところで相当苦しんだはずだ。
 ヒート後も精神不安定。それにベータはベータなりに悩みがあるに決まっている。比較する自分自身に腹が立った。
(このまま避け続けて、彼方君から本格的に嫌われた方がいいのかな)
 腰近くで感じた温かさが離れる。顔を伏せて黙りこくったせいだ。自らそう起こした癖に恐怖心を抱くなんて天邪鬼よりタチが悪い。
 ふわっ、となにかを丸まった背に被せられた。
「もうすぐ雨降るみたい。冷やさないようにね」
 彼方は微笑むとテントを出て行く。「授業終わりまでもつかな~」とクラスメイト達と笑い、空を見上げていた。
 被せられたものが背中から落っこちる前に、胸まで持ってくる。ナイロン生地の紺色ジャージ。サイズ違いで同色のものを水樹は着用していた。
 右胸にある『守谷』の刺繍が、彼方の持ち物であることを示す。
(彼方……君の……ジャージ)
 内側がホカホカになったジャージが胸を包む。顔を埋めてみると爽やかな汗の酸っぱさに、嗅いだだけで心がぽかぽかする彼方の匂い。本当に脱いだばかりだ。
 すー、はー。小さく呼吸すると鼻腔をぴりぴりっと刺激される。人一倍ダンスしているのに全然臭くない。むしろ心地良い。
(嗅いじゃダメ……なのに。ふっ、くらくらする……)
「ねえ、なんかいい匂いしない?」
「ほんとだ~。花……みたい。けどちょっと香水にしてはキツすぎかも……」
 濃くなった影が雨を報せ、眠気を誘う。このところ睡眠を摂りすぎだ。昼食後はすぐに眠くなり、夕方まで起きないこともある。
(べっちょべちょになったペンギン伯爵よりも匂いが濃いなあ……)
 水樹の液体でふわふわの毛が失われたぬいぐるみ。時間も経てば必然的に彼方の匂いも消えていった。イヤーカフからもしない。
 まるで深い眠りに堕ちるように。水樹は山座りのまま砂利の上に倒れ、気を失った。
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