さるのゆめ

トマトふぁ之助

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いき餌

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 緋猿は改心した訳ではなかった。勿論納得もしていない。ほんの少し力が戻ればこんな子供一匹、腕の一振りで地面の染みにできた。
 それをしなかったのは、やはり借りができてしまった故である。
 幡が四十八の眷属達を全て浄化し、彼岸へ見送るまでに半年がかかった。最後の一人を送り出した後青年は体調を崩し、現在大学病院に短期入院している。幡の影に身を潜める緋猿はいよいよ付き人の如くこき使われて若干ノイローゼ気味だ。明日は待ち望んだ退院。本当に、長かった。
 「おいカス!コーラ!!……げえっ、これメーカー違えじゃん。兄貴来たら元のやつ飲みたいっつっといて」
 「なあ。なあ、小童。お前、忘れとらんか?」
 「ああ?」
 「儂は神だぞ」
 「はァ~?」
 青年は心底馬鹿に仕切った目で緋猿を睨めあげる。
 「儂は神だ。そりゃ多少在り方が曲がったがな、邪だろうが魔だろうが祀る者を数百年絶やさなかったありがたぁい御神体なんだよ」
 「何が言いてえの?」
 「敬え。もっと儂を大事にしろ」
 「……そんなこと言われてもよ」
 投げ渡されたペットボトルの蓋をひねりつつ幡が首を傾げた。
 「お前、正式に神様じゃねえしな。会報に載ってねえもん」
 「かいほう」
 「毎年正月に届くんだよ……もう兄貴が確認してるけど、さるさまとか、ヒエン?だっけ。お前の名前、登記されてねえから」
 会報「やおよろず」なる怪しげな文書はどこからどうみても家庭印刷機で刷ったようなペラペラのコピー本であった。全二十頁、B5版のホチキス製本。神威の欠片も感じさせない。
 「んなわけあるか!!大体どこが発行しておるこんな文!五穀豊穣、日の輪を呼ぶ緋猿様だぞ!!短く見積もって五百年は土地を支配してきた!!」
 「知らねえよ。どんな力があったって、あのせっまい神域で指示出すだけの引き篭もり生活だろ?要は知名度が足りねえのよ。そもそもお前のやってたこと、加護ってより祟りが本領だしさあ」
 「ぐ、ぐ、うぎぎ……っ!!」
 にべにもない。肩を怒らせ憤慨する緋猿を尻目に、幡が差し入れの果物を頬張っている。もとより肉付きの薄かった身体はこの半年を経てさらに骨張ってしまい、少し屈むだけで患者衣の隙間から血色の悪い肌が見える。こんながりがりの体で、少しも緋猿を怖がらない不遜さも鼻についた。一発小突いてやろうかと良からぬ考えが頭をよぎったときである。
 「……本当によく喋る……。」
 「あ。兄貴」
 足音もさせず、病室の入り口に静がやってきていた。法衣姿でよくもこの猛暑を練り歩けるものだ。不気味なことに、すました顔には汗ひとつかいていない。
 「兄貴ぃ。糖質カットじゃないコーラが飲みてえ」
 「お前は少し節制しなさい。病院食は残さず食べているだろうな?袋菓子は余分に食べているようだけど、忘れずに薬も飲んでいるはずだな」
 「ん、う、うん……そりゃもちろん」
 緋猿は見逃さなかったが、青年は素早く錠剤を後ろ手に隠した。次々見舞いにくる客から揚げ鳥だ西洋菓子だと餌付けされているのを静が把握していないわけはない。しかし珍しい。幡の兄は何かにつけ弟を甘やかしたがる輩の筆頭で、いつもならば手土産片手に笑顔を崩さないものだが。罰が悪そうな幡を難しそうな顔で見据えてから、長身の法師は壁に立てかけてあったパイプ椅子に腰を下ろした。
 「……明日の晩。お前の退院に合わせて遷座を行うことが決まった」
 メロンを刺した銀匙が、床に落下して衝突音を立てた。もったいねえと顔を顰める緋猿が視線を戻せば、幡が口を半開きにして固まっている。唐突に顔色が悪い。白い顔が血を抜いたように青褪めている。
 「な、ぁ、は?遷座って」
 「?なンだ、センザってなんだ」
 「うるせえ!!」
 「げえッ!!なにをする小童!!」
 纏わりつく大猿の影にチョップを食らわせ、その勢いのまま兄の胸ぐらを掴み喚き出す。
 「え?えっ!?何で!?俺とこいつが!?やんなくていいって言ってただろ!!」
 「九宝院の連中に情報が漏れた。正式に……祟り神を鎮めた証を見せろ、と言ってきている」
 「あ、証って」
 「紋だな。十中八九」
 幡の青褪めた顔が更に色を失う。硬直してしまった青年の影から、改めて緋猿は僧侶に問うた。
 「センザってなんだ。モンってのは?」
 「……そうですね。緋猿殿にも心して聞いて頂きたい。これは貴方と弟の今後に関わる話です」

 遷座というのは普通の場合、神仏や神体を移動させることを言う。かつて治めた土地から新しい土地へ引っ越しを行う際に使う言葉だが、幡の一族において遷座とは「肉体に神を招き入れる」儀式のことを言った。
 「これは端から無理のある行為です。人という容器に神を移すには、魂の規格、つまり入り込むに足る容量がない」
 常人にこの儀式を施すと死ぬ。無理に納めようとすれば肉が四方に散って膝から上は原型を止めないそうだ。
 「うちは祖先に事情があって、尊い方々を迎え入れるに叶う血筋です。先祖に神に嫁いだ者があったとか。生まれつき器が大きくできているのです。廃仏毀釈の騒動で名のある地神達が住処を追われた際、当時の当主は各地へ飛び回り、打ち壊された寺社から安全な場所へと神々を運び移しました。法師のなりをし始めたも運搬を怪しまれずにこなすため。土地から土地へ、飛脚のように働いたそうです。……我が一族において、遷座とは神仏の御輿として奉仕することでした。しかし今は、違う」
 静の足元で影が蠢く。無形の闇が、ぞろりとその足首へ纏わりついている。……緋猿はそれが獣の尾だと気づいた。微かに犬の匂いがする。
 「この遷座が一時的なものでなく、神仏を肉体へ封じ込める儀式に改変されたのは祖父の代からです。正しいやり方はわかりません。口伝を聞いた弟子たちは皆怪死を遂げ、秘伝の書は火事で焼けてしまった」
 「…………今のやり方というのは?」
 「腹に呪具を仕込んだ者を一晩、神域の入り口へ置き去りにします」
 そして終わった頃合いで引き上げる。生贄を犯した者は呪具を介して人間の皮へと収められ、完全に使い魔とされてしまうらしい。これではあるべき主従が覆る。本来の目的から大きく逸脱した行為だ。信仰も何もあったものではない。
 「おぞましい……これだから人間は……」
 「しかしこのやり方は成功率が低かった。祖父の指示で兄弟達は儀式を行いましたが、三人のうち二人が行方知れずに。一人は式が裏返り、赤子のうちに神域へと呑み込まれました。俺の場合完全にお目溢しを頂いただけですから、正しく成功した事例はない。どちらにとっても愚かな慣習だ」
 緋猿の影の後ろで、青年が物言いたげに兄を見ていた。数度視線を彷徨わせ、やがて布団を被って口をつぐむ。
 静は穏やかに口角をあげ、手を組んで緋猿へ語りかけた。
 「緋猿殿は今、呪具なしの幡に封をされている状態です。幡は一族随一の能力者。このままでも支障はないでしょうが……外の者にはそれでは不安なようで。確かに封じ込めたという証明が必要なのです」
 法衣の袖が捲られると、上腕に赤黒い痣がのたうっていた。静は痣を指でなぞり、紋とは此れだとさし示す。
 「神域で緋猿殿が弟に手をつければ、幡の腹にはこれと似た呪紋が浮かぶでしょう。完全に封印がなされた証です。それは縛りとなって貴方を弟の肉へ封じ込める。弟の許可なくば影の外へも出られない、非常に非力な存在に成り果てる……。嫌ですか?
 ……よかった。ならば対策もできましょう」
 反省したようですから、すぐに逃してあげますね。僧侶の仕草は慈愛に満ちていた。
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