【完結済】尽くされ下手の君に

天知 カナイ

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部屋に向かうホテルの廊下を歩きながら、ぼそりと伽羅は言った。
「‥左柄さんにご迷惑なんじゃないでしょうか‥」
清永せいえいは声を上げて笑った。
「いや、あいつ多分、かなり喜ぶと思うぞ」
「そうですか‥」
浮かない伽羅の返事を聞いて清永は立ち止まり、振り返って伽羅の顔を見た。
少しうつむきがちに立っている伽羅の姿はどことなく寂しげで、何やら考え込んでいるようにも見えた。
「‥伽羅、何か気になることでもあるのか?」
「‥いえ、何も」
「伽羅」

清永は伽羅の手を取って少し自分の方へ引いて握りしめた。伽羅の身体が清永に近づく。
「何を考えてる?何を心配しているのか俺にも言ってくれ」
「何も‥」
「伽羅のその顔は、何もない顔じゃないだろう?俺にはわかるぞ」
伽羅はますます下を向いた。この漠然とした不安を、どのように説明すればいいのか、全くわからなかった。
黙って立ちすくんだまま何も言わない伽羅に、清永は心の裡でそっとため息をつく。‥かなりの時間を伽羅と過ごしていると思うのに、伽羅がこのところ思い悩んでいるその内容がわからない。今のところ、わかりやすい嫌がらせも受けていないはずなのに、何を気に病んでいるのかがさっぱりわからないことが、最近の清永の悩みでもあった。

問い詰めたとしても伽羅は言わないだろう。それがわかっているから余計に歯がゆい気持ちになる。立ったままの伽羅の手を取って、じっとその目を見つめてみる。
「言いにくいかもしれないが、‥俺は伽羅の悩みを共有したい。言ってほしいと思っている」
「‥清永さん‥」
伽羅は何度も口を開いては閉じ、開いては閉じを繰り返した。清永はそんな伽羅を黙ってただ見守っていた。

「‥‥あの、自分でも、よくわからないんです」
「‥‥何が?」
伽羅は下を向いたまま答える。
「何が、心に引っかかっているのか‥」
「引っかかってる、のか?それで落ち着かないのか?」
「‥まあ、そうですね‥」
清永はふむ、と考えながら横目にそっと伽羅の顔を盗み見た。悩ましげな顔のまま俯いている伽羅は元気がないように見えた。

「よし、とりあえず部屋に入ってから話そう」
清永はそう言って伽羅の背に手を添えて、部屋の中に入るよう促した。
伽羅たちが滞在している部屋の中は、ひと月ほどの滞在で少しばかり生活感が出てきていた。ソファにかかっていた檀の上着を退けて伽羅を座らせると、部屋に据え付けられているポットを使って、清永が手早くお茶を淹れる。伽羅はテーブルの上に散らばっているノートや紙類を揃えて隅に置いた。空いたスペースに清永がお茶を置く。
ありがとうございます、と礼を言って伽羅はお茶を飲んだ。爽やかな緑茶の香りが鼻に抜けて、気持ちがふっと落ち着くのを感じた。さすがにスイートルームということなのか、部屋に置かれる茶葉はどれもいいものらしく美味しいものばかりだった。

清永は伽羅の向かいに座って自分も茶を飲んだ。飲んだカップをそっと机に置いて膝の上で手を組み、じっと伽羅の顔を見つめた。
「伽羅」
「はい‥」
清永は伽羅の目をじっと見つめたまま、できるだけ優しい声を心がけて言った。
「伽羅がわからない、と言っても、俺は心配だ。‥だから、俺が質問する。それに伽羅が答えてほしい。できるか?」
「は、い、できる、と思います」
「よし、じゃあ聞くぞ」

清永は胸の内で色々なことに思いを巡らせながら、言葉にしていった。
「俺といるのは嫌か?」
「そんなことは、ないです」
「俺のせいで何か困ったことになっていないか」
「いえ‥むしろ色々とお世話になりすぎてて、どうすればいいかわからないくらいです」
「‥俺が色々するのが、負担に感じるのか?」
伽羅は少し口ごもった。
「負担にならない、というのは‥嘘になりますね‥私になぜこんなふうにお金をかけてくださるのか‥正直わからないので‥」

清永はその言葉を聞いてすくっと立ち上がり、伽羅の横まで歩いていくとそのすぐ横に跪いて伽羅の手を取った。伽羅はぴく、と肩を揺らしたが、取られた手を払うようなことはしなかった。
「伽羅は、尽くされるのに慣れていないんだな」
清永はそう言って伽羅の手の甲をすりっと撫でた。伽羅はその動きに息が止まりそうになった。‥清永の行動は、よくこんなふうに伽羅の心を大きく乱す。
「つ、尽くされる、いわれもないので‥」
「伽羅」
清永は片手には伽羅の手を握りながら、もう片手で伽羅の頬をそっと撫でた。薄化粧の頬を優しく撫でられて、また伽羅の拍動は早くなる。
「俺は、伽羅が好きだ。ずっと言っているから伽羅はわかっているかと思っていたが‥伽羅が好きだから伽羅の喜ぶことがしたいし、自分の持てる力全てを使ってでも伽羅を守りたい。だから結果的に伽羅に尽くしている形になってるんだ」

静かな口調で熱く愛を語る清永の声を聞いていると、なぜか伽羅は鼻の奥がツンと痛くなってきた。‥何でだ、何で泣きそうなんだ、こんな場面で泣くなんて変だよ私。やめろやめろ、すぐ泣くなんて嫌だ、論理的じゃない。
伽羅の願いもむなしく、睫毛が震えて涙が一粒、ぽろりと零れ落ちた。零れた涙は伽羅の手を握っている清永の拳の上に落ちて、清永を驚かせた。
「伽羅?何が、嫌だった?」
ひくっとしゃくりあげながら、必死に伽羅は言った。
「‥っ、何も、何も嫌じゃありません‥何で、泣いてるのか‥わか‥」
清永は反対側に回り込んで伽羅の隣に座ると、ゆっくりと肩に腕を回して伽羅を抱き寄せた。また、伽羅の身体がぴくっと揺れた。

「伽羅。俺は伽羅が好きだ。伽羅の気持ちさえ俺に向いてくれればこの後の人生を伽羅と過ごしたいと思っている。‥申し訳ないが俺の家はある意味特殊だし、普通の人のような幸せは伽羅にやれないかもしれない、苦労もかけると思う。‥‥だが、伽羅さえ隣にいてくれたら俺は踏ん張れる気がするんだ」
涙が止まらない。次々と溢れる涙を止めるすべがない。伽羅は洟も涙もボロボロ零して顔がぐっちゃぐちゃになっているのがわかっていたが、そのままにしていた。ぽたぽた零れ続ける涙を見た清永はティッシュの箱を取って伽羅に差し出した。
何枚かとったティッシュで顔を拭い、洟をかんでいる伽羅を、清永は愛おしそうに見つめる。

まさかに洟をかんでいる女を見てかわいらしいと思う日がこようとは思っていなかった。清永はしみじみそう思ってぐしぐし泣いている伽羅のことを見つめていた。これまで、色んな会合やパーティーにも招かれ、様々な立場の人に会ってきた。その中には無論芸能人や各国のモデルなど、錚々たる美しさの男女がいた。
だが、その中の誰一人として清永の心を動かさなかった。
清永の心を動かしたのは、この伽羅の持つ甘く爽やかで落ち着ける『匂い』だけだった。人柄を知ればその香りはより甘やかに、より爽やかに感じられた。

何度も洟をかんで、洟の頭を赤くしている伽羅を、誰よりもかわいらしいと思う。この腕に閉じ込めて、安全なところに隠しておきたい。
だが、どうにも自分の気持ちは伝わっていなかったように感じた。
伽羅が三回洟をかんで、顔をごしごし擦って涙をぬぐったのを見計らい、清永はまた声をかけた。
「伽羅」
「‥はい」
「早い、と思うだろうが‥俺はお前が好きだ。愛している、と言っていいと思う。お前の傍に俺以外の男を近づけたくないし近づいてほしくない。お前の人生を共に歩むのが、俺以外の男であってほしくない。俺は、そういう気持ちでいつも伽羅を見ている」
そう言って横から伽羅の顔を覗き込んだ。何度も乱暴に拭われた伽羅の顔は、マスカラやアイラインがこすれて目の周りが黒っぽくなってしまっている。パンダのようなその顔を見て、清永はふっと笑った。手元のティッシュを水で濡らして優しく伽羅の顔を拭ってやった。
伽羅はされるがままになりながらも身体を硬直させ、「スミマセン‥」と言って顔を赤くしている。



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