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1巻
1-3
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まぁ、目に見える安心を欲している私は、それでもチュチュリナさんのほうが話しやすいんだけどね。
そう考えつつ、チュチュリナさんの陰からモゴモゴと返事をする。
「……ご、ごめんなさい。私の世界には貴方のような大きい人はいなくて、ちょっと……」
トーロンさんはニッカリと気のいい笑みを浮かべて「気にするな」と言ってくれた。
うん。今はまだ見慣れないから怖いけれど、彼とはそれなりに仲良くなれそうな気がする。
いよいよ歩きかと私がげんなりしていると、突然チュチュリナさんが肩を竦めて宣言した。
「仕方ないわね! じゃあ、私が運んであげるわ」
「……へ?」
どういう事か訊ねようと顔を上げた瞬間、私の体は彼女に抱えられていた。
右手に巨大ハンマー、左手に私。
周囲の魔族さん達が「あのチュチュリナが自ら世話役を買って出るなんて……」と驚いている。非常に失礼な雰囲気の中、トーロンさんだけが「やれやれ」と苦笑混じりの表情でチュチュリナさんに注意をする。
「チュチュリナ、あまり無理な飛行はするなよ?」
ただ、その注意で私の不安は見事に煽られているけれど……
「あの……チュチュリナさん?」
小脇に抱えられた状態から首を捻って、恐る恐る彼女の顔を窺おうとした瞬間……体にグンッと重力を感じた。
「それじゃあ、ひとっ飛び行くわよ?」
「へ? え⁉ いやぁぁぁぁぁぁぁ……」
何が起こったか把握する前に地面が急激に遠ざかっていくのが見え……意識が飛んだ。
「着いたわよ~」
ペチペチと軽く頬を叩かれてハッと目を覚ます。私は見知らぬ場所にいた。
状況がわからなくて周囲をキョロキョロ見回す。どうやら石造りの荘厳な建物の中にいるようだ。
えっと、私は確か……
「フフフ……私との空の旅が心地よくて転寝しちゃうなんて、可愛いわね」
楽しげに私に語り掛けてくる美女――チュチュリナさんを見て、記憶が一気に繋がった。
そうだ。私、チュチュリナさんの超高速アクロバット飛行による運搬で意識を失ったんだった。
恨めしげにチュチュリナさんを見ると、彼女はからかいでも嫌味でもない笑顔で「楽しかった?」と聞いてくる。
……この人、本当に悪気なくあの恐怖のフライトをやってたんだ。
そう痛感して、ガックリと項垂れる。
今ならガルゥさんの言葉の意味が、嫌という程よくわかる。
この人は見た目は人間っぽくても、あの魔族さん達の中で一番魔族らしくぶっ飛んだ人だ。
しかも、親切心からの言動でこれなのだから、本当に性質が悪い。
もし万が一、今後何か魔族さんの力を借りないといけない時には、見た目への恐怖を克服して中身が優しそうな人に助けてもらおうと思う。……トーロンさんとかトーロンさんとかトーロンさんとか。
動こうとしてみるけど、まだ足がプルプル震えてしまう。座り込んだままの私を、チュチュリナさんはまた小脇に抱えた。
「さぁ、立って頂戴。この向こうに魔王様がいらっしゃるわよ」
立てと言われても、私の足は地面に着いていないのですが?
それはともかく、目の前には立派な扉がある。という事は、ここが魔王城の執務室らしい。
チュチュリナさんはそのまま扉を開けると思いきや、ふと足を止めた。
「あら? これじゃあ、ノックが出来ないわ。困ったわねぇ。まぁ、これで叩けばいいかしら?」
再び右手に巨大ハンマー、左手に私を持ったチュチュリナさんが、私の身長の三倍はある大きなドアの前で眉尻を下げる。そして、ヒョイッと持ち上げた巨大ハンマーを見て、コテンッと首を傾げた。
……って、まさかそれでドアを叩くつもりじゃないですよね?
それはノックじゃなくて破壊行動って言うんですよ⁉
私と同じ事を考えたらしく、ドアの脇に控えていた護衛らしきミノタウロスさん達が、ギョッとした顔でチュチュリナさんを見ている。
そんな私達に構わず、巨大ハンマーを振り被ろうとするチュチュリナさん。
「せ~の……」
「「ちょっと待ってください! ノックは私がしますから‼」」
ミノタウロスさんと私の声が、同時に慌てて彼女を止める。
この瞬間、私と彼は種族を越えて同じ気持ちになった。
……チュチュリナさんに、魔王様の執務室を壊させてはいけないと。
「あらそう? じゃあお願いね」
私達の焦り具合などまるで気にせず、チュチュリナさんはあっさりとハンマーを床に下ろす。
私達から見たら明らかな破壊行動でも、この人にとっては本当に「手が塞がっちゃった! ノック出来ない。どうしよう?」程度の事だったらしい。
私は小脇に抱えられた状態のまま、ノックがしやすいようにドアに近づけられた。
「この先に魔王様が‼」なんていう緊張感を覚える間もなく、チュチュリナさんにドアを壊させないように、大慌てでノックをした。
…………
……どうやらこのドアは頑丈すぎて、私のノックでは音すらしないらしい。
チュチュリナさんがそれに気付いて再びハンマーを構える前に、私はミノタウロスさんにヘルプの視線を送った。
ミノタウロスさんはすぐに私の視線の意味に気付いてくれる。空気の読める人でよかった。
「い、異世界のお嬢さんの手が傷ついたら大変ですので、私が代わりにさせていただきます‼」
彼はチュチュリナさんが反応するより早く、ドアをノックしてくれる……今度こそ私は見た目に左右されず、正しい相手に助けを求められたようだ。
「魔王陛下、侍女頭のチュチュリナ様と異世界のお客様がお見えです‼」
ミノタウロスさんの低い声が廊下に響き渡る。
……え? チュチュリナさんって侍女頭だったの⁉ 確かにメイド服を着てるから侍女かメイドのどちらかだとは思っていたけれど……こんな粗雑な人なのに、上の地位とは思ってなかったよ。
もちろん、心の中ではそう思っても口には出さない。私もまだ命は惜しい。
「……入れ」
重厚な扉の向こうから、決して大きくはないのによく響く男性の声が聞こえた。
耳に心地よいテノールの声は、さっきまで一緒にいた魔族の人達のそれとは違って、人間的な美声だ。少しホッとする。
「魔王様、失礼いたし……ますっ‼」
バンッ‼
チュチュリナさんが蹴りによりドアを開ける。
油断してた私とミノタウロスさんは、同時に「ヒッ」と声を上げて全身の毛を逆立てた。
恐る恐る開け放たれたドアの向こうに視線を向ける。
「……チュチュリナ、ドアは静かに開け閉めするものだと、何度言えばわかるのですか?」
思いの外近くから聞こえた、絶対零度の声。さっき返事があった人の声とは違う。
穏やかだけれど怒りが滲み出ている声を聞いて視線を上げると、何処かチュチュリナさんに似た雰囲気の美形の執事さんが、ニッコリと微笑んでいた。
「ひっ! ……に、兄様、ごめんなさい」
さっきまで、どんな暴挙も顔色一つ変えずにやっていた、チュチュリナさんの表情が引き攣る。
それと同時に、彼女は条件反射のように起立の姿勢になった。
小脇に抱えられていた私は手を離されて……当然床に落ちる。
「きゃっ!」
体は重力に従って床に向かっていく。痛みを覚悟して目を瞑ると、フワリと何か温かいものに包まれ、体が浮いた。
「……その上、お客様を落とすとは何事ですか? ……失礼しました、異世界のお客様」
床に着く直前で浮いている私の手を引き、立たせてくれる美形の執事さん。
ニッコリと微笑むと牙が見えるのがやや怖いけれど、見た目は凄く人間っぽい。
「魔王城の執事長を務めております、スルート・ヴァンプと申します。先程から妹のチュチュリナが大変失礼をいたしました」
胸に手をあて、姿勢よくお辞儀をするスルートさんは、如何にも優秀な執事といった感じだ。
「い、いえ、チュチュリナさんにはここまで連れて来ていただいたり、色々と親切にしていただきましたので……」
やり方はかなり恐怖だったけれど、そこは敢えて言わない。
そんな事よりも、私はさっさと用事を済ませてお家に帰りたい。
「只今お茶の準備をしてまいりますので、暫く陛下とお待ちください」
スルートさんはにこやかにチュチュリナさんの首根っこを掴んで、彼女の巨大ハンマーごと持ち上げると、さっさとその場を去っていった。
そのあまりのスマートさに、声を掛けるタイミングを逃した私は、見事その場に置き去りにされてしまう。
……まだ視線を向ける事すら出来ていない魔王様と共に。
目の前で無情にも閉められる扉。
背後から、強者だけが醸し出せる圧倒的な威圧感が伝わってくる。
ギギギギ……とまるで油の切れたブリキの人形のような仕草で首を捻って、正面の執務机に座っている人物を見た。
「……この仕事だけ片付ける。暫く座って待っていろ」
「は、はいぃぃ‼」
ボソッと呟かれた言葉にピンッと背筋を伸ばす。慌てて言われた通り執務机の前に設置されている応接セットへと腰を下ろした。
魔王様を窺うように見ると……凄く人間っぽい美丈夫だった。
漆黒の長髪を一本に束ね、その左右には黒曜石のような角が渦を描いている。
深紅の瞳の下には隈があり、周囲におどろおどろしい空気を振りまいていた。
その姿は、まさに女性向けの小説に出てくる魔王そのものだ。
……って、隈?
なんだか様子がおかしいと思い、魔王様がこちらを向かないのをいい事にジッと凝視する。すると、彼は何かブツブツと呟いていた。
「一枚……二枚……三枚……」
あれ? これってもしかして、あの有名なホラー話のセリフじゃ?
「四枚……五枚……六枚……」
ついつい定番のあのセリフを求めて、耳を傾ける。
「七枚……八枚……九枚……」
遂に来た九枚目。その次に来る言葉を期待して、ゴクリと唾を呑む。
「…………一枚……多い‼ 誰だ、俺の仕事をこっそり増やしたやつは‼」
魔王様はバンッ‼ と机を勢いよく叩き、立ち上がった。その瞳は怒りに染められ、頬には鱗が浮いている。
彼の周囲は、蜃気楼のように揺れ動いて見える。どうやら、体から熱を発しているらしい。
魔王様はお怒りMAXな様子で、いつの間にか縦に伸びた瞳孔で部屋をぐるりと見回した。自分の無実を訴えるように、私は必死で首を横に振る。
魔王様はそんな私をチラッと見ただけで特に何も言わず、周囲に目を向け続ける。
その時……
ガチャンッ。
壁に飾ってあった全身鎧が、小さく鳴った。
魔王様はパッとそれを捉えて、ニタリッと笑う。
「そんな所で何をやってるのかな? デュラール?」
彼はそう言いながら足早に鎧に近づき、スパーンとその頭を叩き落とした。
「ヒッ! すみません、魔王陛下。つい出来心で……」
残された鎧の体が焦ってワタワタと動いた後、九十度の綺麗なお辞儀をした。床に転がった頭は、必死に言い訳を重ねる。
首がない鎧と、首だけの鎧……
もしかして、首のない妖精……デュラハンさん……ですよね?
目の前で繰り広げられる光景を見て、驚きと恐怖で停止していた頭が少しずつ動き始める。
それと同時に、体の硬直も少しずつ解れてきた。
ひとまず、魔王様が叩き落とした首は元々取れているものだという事にホッとし、二人にソッと背を向ける。
「仕事中に何か問題が起きたなら、コソコソと誤魔化そうとせずにちゃんと報告と詫びをしろ! それが社会人としての最低限のルールだろ‼」
「す、すみませんでした‼」
背後で行われる上司と部下の会話。
二人の姿さえ見なければ、凄くまともな会話なんだけどなぁ……
その後、暫く魔王様の説教は続き、ペコペコと謝りつつデュラハンさんは部屋を出ていった。
「……待たせたな」
デュラハンさんが出ていったのを見届けた後、魔王様は私の対面にあるソファにドッカリと座った。
魔王様らしい威厳と威圧感はあるのに、その表情には疲労が滲み出ている。何処となく、仕事から帰ってきてぐったりとしている時のお父さんと重なって見えた。
「えっと……お疲れ様です?」
ソファの背凭れに体を預け、隈の出来た目を片手で覆う姿を見て、相手は魔王様だとわかっているのに、そんな言葉がすんなりと口から零れた。
「あぁ、もう疲れた。毎日毎日毎日毎日仕事しても仕事してもどんどん新しい仕事が増えて終わらん。最後にまともに休暇を取ってから、もう何十年経つ? あいつら、最終的には俺に任せれば全て済むと思ってやがる。魔王なんてなるもんじゃない。……早く辞めたい」
私の一言が効いたのか、魔王様の口から一気に愚痴が零れ出した。
心なしか纏っているオーラも、暗く淀んだものになった気がする。
「こっちは忙しいって言ってるのに、『俺が次の魔王だぁぁ!』とか言って挑んでくるやつはいるわ、『若造に魔王は任せられない』って絡んでくるやつもいる。そんなにやりたければやればいいって思うのに、そういうやつらに限って実力がねぇから、魔王の座を譲りたくても周りが許さねぇ」
……苦労されてるんですね、魔王様。
思わず、同情の気持ちが湧き出てくる。
「なぁ、知ってるか⁉ 魔王の仕事には、国や種族間の問題解決から魔族共が壊した城の修復まで含まれるんだぞ⁉ あいつら、俺がやれば一瞬で終わるからって全部俺に押しつけて、それで自分達は定時に上がって飲みに行ってやがる。俺だってたまにはのんびり飲みに行きたい‼ 癒しが欲しい、癒しが‼」
バンッと机に手をついて、前のめりに訴えてくる魔王様。
晩酌で酔っぱらった父に、中間管理職の大変さについて愚痴を聞かされた時の事を思い出す。
「お、落ち着いてください、お父……魔王様‼」
ついつい言い間違えそうになって、慌てて言い換えた。
魔族は長寿らしいから実年齢とは一致しないんだろうけれど、見た目的には二十代半ばから後半くらいの魔王様に向かって、いくらなんでもお父さんは失礼すぎる。
「異世界の……そういえば、まだ名前も聞いていなかったな。俺は現魔王、ダレン・ドラコニスという。お前の名を聞いてもいいか?」
不意に魔王様が、私に名を訊ねてくる。
どうやら、一通り鬱憤を吐き出した事で、疲労感から飛びかけていた理性が少し戻ってきたようだ。
「伊吹芽衣といいます。ヒューマ国の王様に頼まれて(強制的に)魔王様にお手紙を届けに来ました」
魔王様は、黙っていれば声を掛けるのが恐れ多い程の威厳と美貌を持った方だけど……ついさっきまでの愚痴のオンパレードを見たからか、特に緊張する事なく自己紹介が出来た。
多分、魔王様の中に垣間見えた非常に人間っぽい感情(愚痴)と、見た目の人間っぽさが原因だと思う。
「手紙……ヒューマの王がか? 何用だ?」
コテンッと首を傾げた魔王様が、眉間に皺を寄せる。
「実は……」
用件を言いかけて……私は口を閉じた。
私、この「仕事しんどいもう辞めたい」と言いまくってる魔王様に「実は退職延期になりました!」と言えるのか?
日々の生活のちょっとした愚痴なら、まだ「ドンマイ!」って程度で済ませられるかもしれないけれど、魔王様の目の下に出来た隈と言っている内容からして、恐らくこの人の苦労はそんな簡単なものではないだろう。
背中に冷たいものが流れていく。
私は空気が読める日本人。
だからこそ、この人にとっての最悪なニュースを口頭で伝える気まずさを、ひしひしと感じる。
「……こちらがそのお手紙になります」
私は冷や汗を流しながら、愛想笑いを浮かべる。
結局私の口からはその残酷なニュースを告げる事は出来ず、ヒューマ国の王様に無理矢理押し付けられた手紙を、魔王様に差し出した。
ただ魔王様が手紙を受け取る瞬間、その目を見られず、サッと視線を逸らしてしまったけれど。
「ん? 悪いな」
何も知らない魔王様は、頭に『?』をくっつけながらも素直に手紙を受け取る。
そしてどっかりとソファに腰を下ろしたまま、手紙を開いて目を通した。
チッチッチッ……
何処かに置いてあるであろう時計の音が、やけに室内に響く。
無言で手紙を読む魔王様を待つ時間が、とてつもなく長く感じる。
魔王様の表情は徐々に厳しくなり、私は気まずい空気に耐えきれなくなった。
「……そ、そうだ! 他にもお預かりしている荷物があるので、ここに出しますね‼」
私は普段よりワントーン声を上げて、わざと明るく宣言すると、ソファから立ち上がってマジックバッグを開ける。
このマジックバッグというものはとても不思議で、鞄に手を入れるととても大きな空間に行きつく。そして、探しているものに自然と触れる事が出来るのだ。
さっきの手紙の時は、なんの違和感も躊躇いもなくサッと出せた。
しかし、今回取り出したいのは、物が何かわからない『詫びの品』。
鞄に手を突っ込んだはいいものの、どうすればそれを取り出せるのかわからない。私は一度固まってしまったけど……困る事はなかった。
どうやら、手を入れた瞬間に『詫びの品』と思い浮かべていたお陰で、上手く指定が出来ていたようだ。次々に何かが手に触れる。それを握って引っ張り出すと……あら不思議。鞄のサイズより明らかに大きくて、私の腕力じゃとても持ち上げられないはずのものが、口から顔を覗かせる。
すると、急に手の中からそれは消えて、私が置きたかった場所にポンッと現れた。
続けて他のものも、まるで鞄からペットボトルを取り出すような手軽さで、どんどん置いていく。
それは、まさに魔法の為せる業。
驚きと感動に浸りつつ、私は黙々と鞄の中の『詫びの品』を取り出していった。
その間、じんわりとした熱とプスプスという何かが焼ける音、そして焦げ臭さを感じたけれど、全て気付かないフリをした。
うん、私は荷運び作業で忙しいから、後ろを見てる余裕がないんだ。
だから、背後から聞こえる怒りと悲しみの呟きも聞こえない。
聞こえないったら聞こえない。
「……勇者が酔って死亡? 新たな勇者が育つまで引退を待ってくれだと?」
地を這うような低い声に、思わず「ヒッ」と背筋を震わせる。
「……なぁ、メイ殿? これは一体どういう事だと思う?」
私が一通り荷物を出し終えると、頃合いを見計らったように、魔王様から名指しで声を掛けられてしまう。振り向きたくないけれど、振り向かないわけにはいかない。
「ハ……ハハハハ……私もいきなりこちらに呼び出されてそれを渡され、こっちに飛ばされただけなので詳しくは……」
引き攣る頬を無理矢理持ち上げ、全力の愛想笑いを浮かべながら振り返る。
そこには……魔王がいた。
いや、そこに魔王様がいるのはわかってるんだけど、彼が二段階くらい恐ろしい形態へと進化していたのだ。
頬や首筋には黒く硬そうな鱗が浮かび上がり、縦に伸びた赤い瞳孔は鋭さを増している。
漆黒の髪から生えている黒曜石のような角は太さが増し、今や大きな弧を描いて背にまで達しそうだ。
顔と同様に鱗が浮かんでいる手には、鋭い漆黒の爪。
私に話しかけるために薄く開かれた口からは、チュチュリナさんのものとは違い、噛み殺す事に特化していそうな太く鋭い牙が見える。
その体からは高温が発せられているようで、さっきまでは普通のソファだったものが魔王様の周囲だけ赤くドロリと溶けている。……まるで、そこだけマグマに変わったかのようだ。
「俺には、勇者が死んだからもう少し引退を待てって、この手紙に書いてあるように見えるんだが?」
緩慢な動きで首を傾げる魔王様。その圧倒的な強者である事を突き付けるような動作に、喉の奥がキュッと締まり、声にならない悲鳴が漏れる。
「こ、こ、こ、これがお詫びの品だそうです‼」
半泣きになりながら、背筋をピンッと伸ばして今取り出したばかりの品を示す。
……なんで私がこんな目に。
ヒューマ国の王様は、私が行くのが一番安全だって言っていたけれど、それは本当だろうか?
今、私は心の底から命の危険を感じているのだけど。
チラッと救いを求めるように、この部屋に一つしかない扉へと視線を向ける。
この状況では逃げるのは悪手でしかないからしようとも思わないけれど、せめて執事のスルートさんが戻ってきてくれると祈る事くらいはしてもいいと思う。
さっきまでのお父さんに感じるのと同じ親しみなんて一気に吹き飛ばしてくれた魔王様に、私が出来る事なんてほぼない。
出来て、必死にペコペコ謝るくらいだ。私が悪いわけでもないのに。
「あの……その……ごめんなさい! 魔王様がとても苦労されているのも、早く魔王を辞めたいのもよくわかっているんですけど……」
涙を浮かべて震える声で訴える私を、魔王様がジッと見つめる。
私はキュッと胸の前で両手を握り合わせてプルプルと震えながら、一生懸命言葉を紡いだ。
「あの……あの……私からもヒューマ国の王様には早くなんとかするよう頼みたいとは思ってるんですけど、私は部外者の異世界人で出来る事があまりなくてですね……」
……本当に、なんで私がこんなに頑張らないといけないんだろう? 私、無理矢理手紙を託されただけのただの部外者ですよね?
本来ここで謝るべきは私ではなくて、ヒューマ国の王様を筆頭にした上層部の人達ですよね⁉
「ま、魔王様に無理をお願いする対価には程遠いかもしれないんですけど、せめてものお詫びというか……こ、この品を魔王様の慰めにでもしていただければと思ったりなんかするわけで……」
ああもう、自分でも焦りすぎて何を言っているかわからない。
今こそフルルさんという防御力も癒し力もある存在が欲しい。
或いは、この場の雰囲気全てをクラッシュしてくれるチュチュリナさんの破壊力とか、この過熱した魔王様を冷やしてくれそうなスルートさんの冷却力とか……とにかく、少しでも私に向けられている威圧を緩和できる何かが欲しい。
「……」
「……」
私の願いも虚しく、救いは何も訪れなかった。
お互いの目を見つめ合ったままの無言の時間が、どれくらい続いただろうか?
とても長く感じたけれど、きっと数分の出来事だったと思う。
先に沈黙を破ったのは、魔王様だった。
「……こっちへ来い」
「フゥ」と小さく息を吐き出すと同時に、魔王様の座っていた椅子が元の状態へと戻り、体から発せられていた熱が消失する。浮き出ている鱗の数も減り、爪と牙が短くなった。
完璧に元通りとまではいかないまでも、魔王様は幾分か攻撃力を緩和してくれたらしい。彼は私を手招き、隣へ座るよう促す。
凄く行きたくない。
何をされるか、何を言われるか、いつさっきの状態に戻るのかわからないのに……本能的に恐怖を感じる相手の傍に行きたい人間が、存在するだろうか?
少なくとも私は行きたくない。
でも……この状況で行かないという選択肢は、私には残されていなかった。
だって、何段階か魔王度を低下させてくれたとはいえ、お怒りモードが完璧に去ったわけではないのだ。それは顔に浮かんだままの鱗を見れば、容易に推測できる。
「は、はいぃ、喜んでぇ……」
もちろん、嘘である。全く嬉しくなんてない。
それでも逃げ出したくなる本能を必死で押し込めて、ゆっくりゆっくりと震える足で魔王様のお隣に移動し、ストンッと座る。
そう考えつつ、チュチュリナさんの陰からモゴモゴと返事をする。
「……ご、ごめんなさい。私の世界には貴方のような大きい人はいなくて、ちょっと……」
トーロンさんはニッカリと気のいい笑みを浮かべて「気にするな」と言ってくれた。
うん。今はまだ見慣れないから怖いけれど、彼とはそれなりに仲良くなれそうな気がする。
いよいよ歩きかと私がげんなりしていると、突然チュチュリナさんが肩を竦めて宣言した。
「仕方ないわね! じゃあ、私が運んであげるわ」
「……へ?」
どういう事か訊ねようと顔を上げた瞬間、私の体は彼女に抱えられていた。
右手に巨大ハンマー、左手に私。
周囲の魔族さん達が「あのチュチュリナが自ら世話役を買って出るなんて……」と驚いている。非常に失礼な雰囲気の中、トーロンさんだけが「やれやれ」と苦笑混じりの表情でチュチュリナさんに注意をする。
「チュチュリナ、あまり無理な飛行はするなよ?」
ただ、その注意で私の不安は見事に煽られているけれど……
「あの……チュチュリナさん?」
小脇に抱えられた状態から首を捻って、恐る恐る彼女の顔を窺おうとした瞬間……体にグンッと重力を感じた。
「それじゃあ、ひとっ飛び行くわよ?」
「へ? え⁉ いやぁぁぁぁぁぁぁ……」
何が起こったか把握する前に地面が急激に遠ざかっていくのが見え……意識が飛んだ。
「着いたわよ~」
ペチペチと軽く頬を叩かれてハッと目を覚ます。私は見知らぬ場所にいた。
状況がわからなくて周囲をキョロキョロ見回す。どうやら石造りの荘厳な建物の中にいるようだ。
えっと、私は確か……
「フフフ……私との空の旅が心地よくて転寝しちゃうなんて、可愛いわね」
楽しげに私に語り掛けてくる美女――チュチュリナさんを見て、記憶が一気に繋がった。
そうだ。私、チュチュリナさんの超高速アクロバット飛行による運搬で意識を失ったんだった。
恨めしげにチュチュリナさんを見ると、彼女はからかいでも嫌味でもない笑顔で「楽しかった?」と聞いてくる。
……この人、本当に悪気なくあの恐怖のフライトをやってたんだ。
そう痛感して、ガックリと項垂れる。
今ならガルゥさんの言葉の意味が、嫌という程よくわかる。
この人は見た目は人間っぽくても、あの魔族さん達の中で一番魔族らしくぶっ飛んだ人だ。
しかも、親切心からの言動でこれなのだから、本当に性質が悪い。
もし万が一、今後何か魔族さんの力を借りないといけない時には、見た目への恐怖を克服して中身が優しそうな人に助けてもらおうと思う。……トーロンさんとかトーロンさんとかトーロンさんとか。
動こうとしてみるけど、まだ足がプルプル震えてしまう。座り込んだままの私を、チュチュリナさんはまた小脇に抱えた。
「さぁ、立って頂戴。この向こうに魔王様がいらっしゃるわよ」
立てと言われても、私の足は地面に着いていないのですが?
それはともかく、目の前には立派な扉がある。という事は、ここが魔王城の執務室らしい。
チュチュリナさんはそのまま扉を開けると思いきや、ふと足を止めた。
「あら? これじゃあ、ノックが出来ないわ。困ったわねぇ。まぁ、これで叩けばいいかしら?」
再び右手に巨大ハンマー、左手に私を持ったチュチュリナさんが、私の身長の三倍はある大きなドアの前で眉尻を下げる。そして、ヒョイッと持ち上げた巨大ハンマーを見て、コテンッと首を傾げた。
……って、まさかそれでドアを叩くつもりじゃないですよね?
それはノックじゃなくて破壊行動って言うんですよ⁉
私と同じ事を考えたらしく、ドアの脇に控えていた護衛らしきミノタウロスさん達が、ギョッとした顔でチュチュリナさんを見ている。
そんな私達に構わず、巨大ハンマーを振り被ろうとするチュチュリナさん。
「せ~の……」
「「ちょっと待ってください! ノックは私がしますから‼」」
ミノタウロスさんと私の声が、同時に慌てて彼女を止める。
この瞬間、私と彼は種族を越えて同じ気持ちになった。
……チュチュリナさんに、魔王様の執務室を壊させてはいけないと。
「あらそう? じゃあお願いね」
私達の焦り具合などまるで気にせず、チュチュリナさんはあっさりとハンマーを床に下ろす。
私達から見たら明らかな破壊行動でも、この人にとっては本当に「手が塞がっちゃった! ノック出来ない。どうしよう?」程度の事だったらしい。
私は小脇に抱えられた状態のまま、ノックがしやすいようにドアに近づけられた。
「この先に魔王様が‼」なんていう緊張感を覚える間もなく、チュチュリナさんにドアを壊させないように、大慌てでノックをした。
…………
……どうやらこのドアは頑丈すぎて、私のノックでは音すらしないらしい。
チュチュリナさんがそれに気付いて再びハンマーを構える前に、私はミノタウロスさんにヘルプの視線を送った。
ミノタウロスさんはすぐに私の視線の意味に気付いてくれる。空気の読める人でよかった。
「い、異世界のお嬢さんの手が傷ついたら大変ですので、私が代わりにさせていただきます‼」
彼はチュチュリナさんが反応するより早く、ドアをノックしてくれる……今度こそ私は見た目に左右されず、正しい相手に助けを求められたようだ。
「魔王陛下、侍女頭のチュチュリナ様と異世界のお客様がお見えです‼」
ミノタウロスさんの低い声が廊下に響き渡る。
……え? チュチュリナさんって侍女頭だったの⁉ 確かにメイド服を着てるから侍女かメイドのどちらかだとは思っていたけれど……こんな粗雑な人なのに、上の地位とは思ってなかったよ。
もちろん、心の中ではそう思っても口には出さない。私もまだ命は惜しい。
「……入れ」
重厚な扉の向こうから、決して大きくはないのによく響く男性の声が聞こえた。
耳に心地よいテノールの声は、さっきまで一緒にいた魔族の人達のそれとは違って、人間的な美声だ。少しホッとする。
「魔王様、失礼いたし……ますっ‼」
バンッ‼
チュチュリナさんが蹴りによりドアを開ける。
油断してた私とミノタウロスさんは、同時に「ヒッ」と声を上げて全身の毛を逆立てた。
恐る恐る開け放たれたドアの向こうに視線を向ける。
「……チュチュリナ、ドアは静かに開け閉めするものだと、何度言えばわかるのですか?」
思いの外近くから聞こえた、絶対零度の声。さっき返事があった人の声とは違う。
穏やかだけれど怒りが滲み出ている声を聞いて視線を上げると、何処かチュチュリナさんに似た雰囲気の美形の執事さんが、ニッコリと微笑んでいた。
「ひっ! ……に、兄様、ごめんなさい」
さっきまで、どんな暴挙も顔色一つ変えずにやっていた、チュチュリナさんの表情が引き攣る。
それと同時に、彼女は条件反射のように起立の姿勢になった。
小脇に抱えられていた私は手を離されて……当然床に落ちる。
「きゃっ!」
体は重力に従って床に向かっていく。痛みを覚悟して目を瞑ると、フワリと何か温かいものに包まれ、体が浮いた。
「……その上、お客様を落とすとは何事ですか? ……失礼しました、異世界のお客様」
床に着く直前で浮いている私の手を引き、立たせてくれる美形の執事さん。
ニッコリと微笑むと牙が見えるのがやや怖いけれど、見た目は凄く人間っぽい。
「魔王城の執事長を務めております、スルート・ヴァンプと申します。先程から妹のチュチュリナが大変失礼をいたしました」
胸に手をあて、姿勢よくお辞儀をするスルートさんは、如何にも優秀な執事といった感じだ。
「い、いえ、チュチュリナさんにはここまで連れて来ていただいたり、色々と親切にしていただきましたので……」
やり方はかなり恐怖だったけれど、そこは敢えて言わない。
そんな事よりも、私はさっさと用事を済ませてお家に帰りたい。
「只今お茶の準備をしてまいりますので、暫く陛下とお待ちください」
スルートさんはにこやかにチュチュリナさんの首根っこを掴んで、彼女の巨大ハンマーごと持ち上げると、さっさとその場を去っていった。
そのあまりのスマートさに、声を掛けるタイミングを逃した私は、見事その場に置き去りにされてしまう。
……まだ視線を向ける事すら出来ていない魔王様と共に。
目の前で無情にも閉められる扉。
背後から、強者だけが醸し出せる圧倒的な威圧感が伝わってくる。
ギギギギ……とまるで油の切れたブリキの人形のような仕草で首を捻って、正面の執務机に座っている人物を見た。
「……この仕事だけ片付ける。暫く座って待っていろ」
「は、はいぃぃ‼」
ボソッと呟かれた言葉にピンッと背筋を伸ばす。慌てて言われた通り執務机の前に設置されている応接セットへと腰を下ろした。
魔王様を窺うように見ると……凄く人間っぽい美丈夫だった。
漆黒の長髪を一本に束ね、その左右には黒曜石のような角が渦を描いている。
深紅の瞳の下には隈があり、周囲におどろおどろしい空気を振りまいていた。
その姿は、まさに女性向けの小説に出てくる魔王そのものだ。
……って、隈?
なんだか様子がおかしいと思い、魔王様がこちらを向かないのをいい事にジッと凝視する。すると、彼は何かブツブツと呟いていた。
「一枚……二枚……三枚……」
あれ? これってもしかして、あの有名なホラー話のセリフじゃ?
「四枚……五枚……六枚……」
ついつい定番のあのセリフを求めて、耳を傾ける。
「七枚……八枚……九枚……」
遂に来た九枚目。その次に来る言葉を期待して、ゴクリと唾を呑む。
「…………一枚……多い‼ 誰だ、俺の仕事をこっそり増やしたやつは‼」
魔王様はバンッ‼ と机を勢いよく叩き、立ち上がった。その瞳は怒りに染められ、頬には鱗が浮いている。
彼の周囲は、蜃気楼のように揺れ動いて見える。どうやら、体から熱を発しているらしい。
魔王様はお怒りMAXな様子で、いつの間にか縦に伸びた瞳孔で部屋をぐるりと見回した。自分の無実を訴えるように、私は必死で首を横に振る。
魔王様はそんな私をチラッと見ただけで特に何も言わず、周囲に目を向け続ける。
その時……
ガチャンッ。
壁に飾ってあった全身鎧が、小さく鳴った。
魔王様はパッとそれを捉えて、ニタリッと笑う。
「そんな所で何をやってるのかな? デュラール?」
彼はそう言いながら足早に鎧に近づき、スパーンとその頭を叩き落とした。
「ヒッ! すみません、魔王陛下。つい出来心で……」
残された鎧の体が焦ってワタワタと動いた後、九十度の綺麗なお辞儀をした。床に転がった頭は、必死に言い訳を重ねる。
首がない鎧と、首だけの鎧……
もしかして、首のない妖精……デュラハンさん……ですよね?
目の前で繰り広げられる光景を見て、驚きと恐怖で停止していた頭が少しずつ動き始める。
それと同時に、体の硬直も少しずつ解れてきた。
ひとまず、魔王様が叩き落とした首は元々取れているものだという事にホッとし、二人にソッと背を向ける。
「仕事中に何か問題が起きたなら、コソコソと誤魔化そうとせずにちゃんと報告と詫びをしろ! それが社会人としての最低限のルールだろ‼」
「す、すみませんでした‼」
背後で行われる上司と部下の会話。
二人の姿さえ見なければ、凄くまともな会話なんだけどなぁ……
その後、暫く魔王様の説教は続き、ペコペコと謝りつつデュラハンさんは部屋を出ていった。
「……待たせたな」
デュラハンさんが出ていったのを見届けた後、魔王様は私の対面にあるソファにドッカリと座った。
魔王様らしい威厳と威圧感はあるのに、その表情には疲労が滲み出ている。何処となく、仕事から帰ってきてぐったりとしている時のお父さんと重なって見えた。
「えっと……お疲れ様です?」
ソファの背凭れに体を預け、隈の出来た目を片手で覆う姿を見て、相手は魔王様だとわかっているのに、そんな言葉がすんなりと口から零れた。
「あぁ、もう疲れた。毎日毎日毎日毎日仕事しても仕事してもどんどん新しい仕事が増えて終わらん。最後にまともに休暇を取ってから、もう何十年経つ? あいつら、最終的には俺に任せれば全て済むと思ってやがる。魔王なんてなるもんじゃない。……早く辞めたい」
私の一言が効いたのか、魔王様の口から一気に愚痴が零れ出した。
心なしか纏っているオーラも、暗く淀んだものになった気がする。
「こっちは忙しいって言ってるのに、『俺が次の魔王だぁぁ!』とか言って挑んでくるやつはいるわ、『若造に魔王は任せられない』って絡んでくるやつもいる。そんなにやりたければやればいいって思うのに、そういうやつらに限って実力がねぇから、魔王の座を譲りたくても周りが許さねぇ」
……苦労されてるんですね、魔王様。
思わず、同情の気持ちが湧き出てくる。
「なぁ、知ってるか⁉ 魔王の仕事には、国や種族間の問題解決から魔族共が壊した城の修復まで含まれるんだぞ⁉ あいつら、俺がやれば一瞬で終わるからって全部俺に押しつけて、それで自分達は定時に上がって飲みに行ってやがる。俺だってたまにはのんびり飲みに行きたい‼ 癒しが欲しい、癒しが‼」
バンッと机に手をついて、前のめりに訴えてくる魔王様。
晩酌で酔っぱらった父に、中間管理職の大変さについて愚痴を聞かされた時の事を思い出す。
「お、落ち着いてください、お父……魔王様‼」
ついつい言い間違えそうになって、慌てて言い換えた。
魔族は長寿らしいから実年齢とは一致しないんだろうけれど、見た目的には二十代半ばから後半くらいの魔王様に向かって、いくらなんでもお父さんは失礼すぎる。
「異世界の……そういえば、まだ名前も聞いていなかったな。俺は現魔王、ダレン・ドラコニスという。お前の名を聞いてもいいか?」
不意に魔王様が、私に名を訊ねてくる。
どうやら、一通り鬱憤を吐き出した事で、疲労感から飛びかけていた理性が少し戻ってきたようだ。
「伊吹芽衣といいます。ヒューマ国の王様に頼まれて(強制的に)魔王様にお手紙を届けに来ました」
魔王様は、黙っていれば声を掛けるのが恐れ多い程の威厳と美貌を持った方だけど……ついさっきまでの愚痴のオンパレードを見たからか、特に緊張する事なく自己紹介が出来た。
多分、魔王様の中に垣間見えた非常に人間っぽい感情(愚痴)と、見た目の人間っぽさが原因だと思う。
「手紙……ヒューマの王がか? 何用だ?」
コテンッと首を傾げた魔王様が、眉間に皺を寄せる。
「実は……」
用件を言いかけて……私は口を閉じた。
私、この「仕事しんどいもう辞めたい」と言いまくってる魔王様に「実は退職延期になりました!」と言えるのか?
日々の生活のちょっとした愚痴なら、まだ「ドンマイ!」って程度で済ませられるかもしれないけれど、魔王様の目の下に出来た隈と言っている内容からして、恐らくこの人の苦労はそんな簡単なものではないだろう。
背中に冷たいものが流れていく。
私は空気が読める日本人。
だからこそ、この人にとっての最悪なニュースを口頭で伝える気まずさを、ひしひしと感じる。
「……こちらがそのお手紙になります」
私は冷や汗を流しながら、愛想笑いを浮かべる。
結局私の口からはその残酷なニュースを告げる事は出来ず、ヒューマ国の王様に無理矢理押し付けられた手紙を、魔王様に差し出した。
ただ魔王様が手紙を受け取る瞬間、その目を見られず、サッと視線を逸らしてしまったけれど。
「ん? 悪いな」
何も知らない魔王様は、頭に『?』をくっつけながらも素直に手紙を受け取る。
そしてどっかりとソファに腰を下ろしたまま、手紙を開いて目を通した。
チッチッチッ……
何処かに置いてあるであろう時計の音が、やけに室内に響く。
無言で手紙を読む魔王様を待つ時間が、とてつもなく長く感じる。
魔王様の表情は徐々に厳しくなり、私は気まずい空気に耐えきれなくなった。
「……そ、そうだ! 他にもお預かりしている荷物があるので、ここに出しますね‼」
私は普段よりワントーン声を上げて、わざと明るく宣言すると、ソファから立ち上がってマジックバッグを開ける。
このマジックバッグというものはとても不思議で、鞄に手を入れるととても大きな空間に行きつく。そして、探しているものに自然と触れる事が出来るのだ。
さっきの手紙の時は、なんの違和感も躊躇いもなくサッと出せた。
しかし、今回取り出したいのは、物が何かわからない『詫びの品』。
鞄に手を突っ込んだはいいものの、どうすればそれを取り出せるのかわからない。私は一度固まってしまったけど……困る事はなかった。
どうやら、手を入れた瞬間に『詫びの品』と思い浮かべていたお陰で、上手く指定が出来ていたようだ。次々に何かが手に触れる。それを握って引っ張り出すと……あら不思議。鞄のサイズより明らかに大きくて、私の腕力じゃとても持ち上げられないはずのものが、口から顔を覗かせる。
すると、急に手の中からそれは消えて、私が置きたかった場所にポンッと現れた。
続けて他のものも、まるで鞄からペットボトルを取り出すような手軽さで、どんどん置いていく。
それは、まさに魔法の為せる業。
驚きと感動に浸りつつ、私は黙々と鞄の中の『詫びの品』を取り出していった。
その間、じんわりとした熱とプスプスという何かが焼ける音、そして焦げ臭さを感じたけれど、全て気付かないフリをした。
うん、私は荷運び作業で忙しいから、後ろを見てる余裕がないんだ。
だから、背後から聞こえる怒りと悲しみの呟きも聞こえない。
聞こえないったら聞こえない。
「……勇者が酔って死亡? 新たな勇者が育つまで引退を待ってくれだと?」
地を這うような低い声に、思わず「ヒッ」と背筋を震わせる。
「……なぁ、メイ殿? これは一体どういう事だと思う?」
私が一通り荷物を出し終えると、頃合いを見計らったように、魔王様から名指しで声を掛けられてしまう。振り向きたくないけれど、振り向かないわけにはいかない。
「ハ……ハハハハ……私もいきなりこちらに呼び出されてそれを渡され、こっちに飛ばされただけなので詳しくは……」
引き攣る頬を無理矢理持ち上げ、全力の愛想笑いを浮かべながら振り返る。
そこには……魔王がいた。
いや、そこに魔王様がいるのはわかってるんだけど、彼が二段階くらい恐ろしい形態へと進化していたのだ。
頬や首筋には黒く硬そうな鱗が浮かび上がり、縦に伸びた赤い瞳孔は鋭さを増している。
漆黒の髪から生えている黒曜石のような角は太さが増し、今や大きな弧を描いて背にまで達しそうだ。
顔と同様に鱗が浮かんでいる手には、鋭い漆黒の爪。
私に話しかけるために薄く開かれた口からは、チュチュリナさんのものとは違い、噛み殺す事に特化していそうな太く鋭い牙が見える。
その体からは高温が発せられているようで、さっきまでは普通のソファだったものが魔王様の周囲だけ赤くドロリと溶けている。……まるで、そこだけマグマに変わったかのようだ。
「俺には、勇者が死んだからもう少し引退を待てって、この手紙に書いてあるように見えるんだが?」
緩慢な動きで首を傾げる魔王様。その圧倒的な強者である事を突き付けるような動作に、喉の奥がキュッと締まり、声にならない悲鳴が漏れる。
「こ、こ、こ、これがお詫びの品だそうです‼」
半泣きになりながら、背筋をピンッと伸ばして今取り出したばかりの品を示す。
……なんで私がこんな目に。
ヒューマ国の王様は、私が行くのが一番安全だって言っていたけれど、それは本当だろうか?
今、私は心の底から命の危険を感じているのだけど。
チラッと救いを求めるように、この部屋に一つしかない扉へと視線を向ける。
この状況では逃げるのは悪手でしかないからしようとも思わないけれど、せめて執事のスルートさんが戻ってきてくれると祈る事くらいはしてもいいと思う。
さっきまでのお父さんに感じるのと同じ親しみなんて一気に吹き飛ばしてくれた魔王様に、私が出来る事なんてほぼない。
出来て、必死にペコペコ謝るくらいだ。私が悪いわけでもないのに。
「あの……その……ごめんなさい! 魔王様がとても苦労されているのも、早く魔王を辞めたいのもよくわかっているんですけど……」
涙を浮かべて震える声で訴える私を、魔王様がジッと見つめる。
私はキュッと胸の前で両手を握り合わせてプルプルと震えながら、一生懸命言葉を紡いだ。
「あの……あの……私からもヒューマ国の王様には早くなんとかするよう頼みたいとは思ってるんですけど、私は部外者の異世界人で出来る事があまりなくてですね……」
……本当に、なんで私がこんなに頑張らないといけないんだろう? 私、無理矢理手紙を託されただけのただの部外者ですよね?
本来ここで謝るべきは私ではなくて、ヒューマ国の王様を筆頭にした上層部の人達ですよね⁉
「ま、魔王様に無理をお願いする対価には程遠いかもしれないんですけど、せめてものお詫びというか……こ、この品を魔王様の慰めにでもしていただければと思ったりなんかするわけで……」
ああもう、自分でも焦りすぎて何を言っているかわからない。
今こそフルルさんという防御力も癒し力もある存在が欲しい。
或いは、この場の雰囲気全てをクラッシュしてくれるチュチュリナさんの破壊力とか、この過熱した魔王様を冷やしてくれそうなスルートさんの冷却力とか……とにかく、少しでも私に向けられている威圧を緩和できる何かが欲しい。
「……」
「……」
私の願いも虚しく、救いは何も訪れなかった。
お互いの目を見つめ合ったままの無言の時間が、どれくらい続いただろうか?
とても長く感じたけれど、きっと数分の出来事だったと思う。
先に沈黙を破ったのは、魔王様だった。
「……こっちへ来い」
「フゥ」と小さく息を吐き出すと同時に、魔王様の座っていた椅子が元の状態へと戻り、体から発せられていた熱が消失する。浮き出ている鱗の数も減り、爪と牙が短くなった。
完璧に元通りとまではいかないまでも、魔王様は幾分か攻撃力を緩和してくれたらしい。彼は私を手招き、隣へ座るよう促す。
凄く行きたくない。
何をされるか、何を言われるか、いつさっきの状態に戻るのかわからないのに……本能的に恐怖を感じる相手の傍に行きたい人間が、存在するだろうか?
少なくとも私は行きたくない。
でも……この状況で行かないという選択肢は、私には残されていなかった。
だって、何段階か魔王度を低下させてくれたとはいえ、お怒りモードが完璧に去ったわけではないのだ。それは顔に浮かんだままの鱗を見れば、容易に推測できる。
「は、はいぃ、喜んでぇ……」
もちろん、嘘である。全く嬉しくなんてない。
それでも逃げ出したくなる本能を必死で押し込めて、ゆっくりゆっくりと震える足で魔王様のお隣に移動し、ストンッと座る。
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