怪奇幻想恐怖短編集

春泥

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日溜まりの血溜まり(1)

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 十時間を超える難産だった。妊婦は十七歳、初産で、逆子だった。産気づいたのは夜で、すぐに医者が呼ばれたが、今はもう闇が白々とほころび始めた気配があった。妊婦の体力は限界に達していた。

 室内は血の海だった。昨年結婚したばかりの夫婦の寝室は、質素ながら清潔に保たれていた。
 少なくともこれまでは。
 獣染みた唸り声を上げベッドの上で身悶えている妊婦の下半身は、赤くぐっしょりと濡れ、シーツにも染みが大きく広がっている。彼女と同い年の若い夫は、部屋の外で耳を塞いで歯を食いしばっている。狭いキッチンには同居する夫の両親も血の気を失った顔でテーブルについている。

 両手を血に染めた医者が寝室から出てきて、首を横に振った。泣き崩れる姑。天を仰ぐ舅。医者は、母体は出血が多くどの道助からないが、赤ん坊だけなら救えるかもしれない、と放心状態の夫に告げる。許可をいただけるなら、帝王切開で赤子を取り出そう、と。

 赤子を取り出すとはどういうことなのか説明を受けた夫は、青い顔から更に血の気が引いて、今にも倒れそうな様子であった。しっかりしろ、と彼の父親が彼の頬に張り手を二発食らわせる。
 マリアのことは諦めるしかない。だが赤ん坊は助けよう。

 唇の端が切れ血を滲ませた夫は、医者に向かって、弱々しく頷いた。医者は全力を尽くすと言い残して、再び寝室の中に消えた。

 そして半時も経たないうちに、弱々しい赤子の泣き声が聞こえ、キッチンに居る大人達は安堵と絶望の入り混じった息を漏らした。

 医者に呼ばれて夫がおずおずと寝室に入ると、惨劇の後のように血飛沫が壁まで飛び散った部屋のベッドに、既にこと切れた妻が横たわっていた。胸のところまで毛布がかけられていたが、腰の辺りを中心に赤い染みが大きく広がっている。汗で光る彼女の顔はやつれてはいるが、穏やかだ。しかし、若い夫は、彼女の額に汗ではりついた髪をのけてやろうとさえしない。ガラス玉のように空を凝視する目を閉じてやったのは医者だ。

 部屋の中に湯を張ったタライが運び込まれ、医者は丁寧に赤子についた血を拭い取った。体を乾かされ、清潔な布にくるまれた小さな弱々しい命を、医者はベッドサイドに跪いて泣いている夫に手渡した。夫は涙でぐしゃぐしゃになった顔で我が子を見つめた。

 男の子ですよ、と医者は言い、彼の肩を優しく叩いた。

 医者は道具を片付け、寝室の後片付けを始めた姑に別れを告げた。

 医者を玄関まで送りながら、姑は丁寧に礼を述べた。あなたのお陰で、子供だけは一命をとりとめた。これは神のご加護だ。と胸に下げた十字架に口づけをした。

 ドアを開くと、疲労の滲む医者の瞳に、丘の向こうから上ってくる太陽の光が射るように差し込んだ。彼は眩暈を覚え、ふらついた。姑は驚いて、夫を呼んだ。彼は歳をとっていたが、まだまだ現役の屈強な農夫だ。舅は医者の腕を支えて、キッチンに運び込んだ。

 これは気付きませんで、先生もさぞお疲れでしょう。朝食の準備はできています。貧しい農民の食事ですが、温かいミルク粥を召し上がれば、少しは気分がよくなるかもしれません。と老いた父親は言った。

 そういえば、空腹であることをすっかり忘れていた。まことにかたじけないことだが、食事を呼ばれることにしよう。と医者は言った。
 そして彼は、老いた舅と姑、妻を失ったばかりの夫と、生まれたばかりの赤ん坊を、皆殺しにした。
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