怪奇幻想恐怖短編集

春泥

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日溜まりの血溜まり(2)

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「どうしてそうなるのかしら。全く理解に苦しむわ」

 と妻のマリアは言った。腹を立てるとこめかみに青い血管が浮き出て一層魅力的になる、と夫のミフネヤは密かに思っているのだが、勿論口に出すほど愚かではない。

「だから、空腹が耐え難かったんだ」

 彼は肩をすくめて言う。

「難産に苦しむ妊婦と二人きりで、彼女は大量に出血していたんでしょう。いくらでもつまみ食いできたのに、一体何のために一家全員手にかける必要があるのよ。しかも、わざわざ母親の命を犠牲にして命を救った赤ちゃんまで」

 ミフネヤは二頭の馬に鞭を入れながら、思う。確かに、もう二三年は、あののどかな村に留まってもよかった。子供達は難しい病にかかっていると言って、村人たちの目に触れないようにしておけば、彼らが決して成長しないことも、あと三年ぐらいならごまかすことができたはずだ。

 マリア――彼の患者の若い妊婦と同じ名前の彼の妻――が子供達に手をかけた時、エリザベスは十三歳、ジョンは十歳だった。彼らは永遠にその時の姿を留めることになる。子供を仲間にするのは危険だとミフネヤは散々妻に説いたのだが。
 そのマリアに手をかけたのはミフネヤだ。マリアはずっと子供を欲しがっていたのだが、そのせいで通常の方法では子を持てないようになった。全ては彼の責任だと言えなくもない。

 念願の子供を手に入れたマリアが今欲しているのは安息の地だという。田舎に落ち着いて、のんびり暮らしたい。たとえそれが豚や鼠などの動物の血を啜って生きることを意味しても。
 ミフネヤは妻のためならばそれも我慢できたが、子供達は一年も経たずに田舎に飽きてしまう。彼らはミフネヤやマリアのようには日中太陽の下で長く行動することができない。人目に触れてはならないという以外に、体質的に無理なのだ。
 だから病気であることにして昼間は外に出ず、外出は夕方から明け方まで、学校に行くことも友達を作ることも叶わない。
 もっとも、彼等の外見は幼くとも、二人とも既に二十年以上生きている。同じ年恰好の子供らと馬が合うわけがなかった。それなのにいつまでも子供扱いされることも、彼等を苛立たせ、反抗的にさせる。

 じきに両親の言いつけを破って村人を襲い始めることは、避けられなかっただろう。彼は頑なに否定したが、村では夜間の家畜の不審死が相次いでいる。

 しかし、ミフネヤ自身、動物の血に少々飽きがきていたところだった。医者という職業柄、誘惑が多いのも難点であった。特にあの初産の若い妊婦のように、大量出血などされてしまっては。
 ミフネヤは優秀な医者であり、あの母子については双方の命を救うべく全力を尽くしたと神に誓ってもよい(神がそれを信じるかどうかはまた別の話)。
 しかし、死にゆく母親の腹を切り裂いて赤子を子宮から取り出した時は、体内から溢れ出る血の匂いに我を忘れそうになった。
 それでも何とか自制し、妻と子供達の待つ家に帰ろうと思った。

 しかし

 あの時丘の斜面から姿を覗かせた太陽の光に目が眩んで家の中に再度招き入れられることがなければ、夢中になって家族四人――若い夫とその両親に生まれたばかりの赤子――の血を啜った後に我に返って自宅に戻り、まだ眠っていたマリアを叩き起こして大慌てで荷造りをし、子供達の頭から何枚も毛布を被せ、幌馬車に載せて夜逃げ――ではなく早朝にあわただしく村を逃げ出すこともなかったのだとミフネヤは思う。

 あの善良なる農民一家が惨殺されたことは、今日中に村人に発見されるだろう。だから彼は馬車を引く二頭の馬を気の毒に思いながら、激しく鞭を振り下ろしている。今回の逃亡にはあまり時間がない。数人あるいは十数名の追っ手なら、彼とマリアで対応可能だ。子供達だって、陽が暮れれば日光を気にせず行動できる。
 だが、追っ手を殺せばまた新たな追っ手がかかる。既に数百年生きているミフネヤとて、さんさんと照り付ける太陽の下では力を完全に発揮することはできない。

 それにもかかわらず、彼は太陽が好きだった。最初の何十年かは、少しでも日光を浴びようものなら大火傷を負ったものだ。だから、徐々に日光への耐性ができて、太陽を再び我が目で見られるようになり、そのあたたかな日射しを皮膚で感じられるようになった時の彼の喜びは大変なものだった。彼は、血を流すのであれば夜の闇の中ではなく、きつく照り付ける日射しの下の方がよいと思っている。

 丁度、その日の朝、すっかり満腹した彼が、再びドアを開けてもうすっかり太陽が姿を現した外界へ踏み出した時、乾燥しきった埃っぽい道の上に滴り落ちた血が作った真っ赤な水溜まりのように。

 まだ恍惚状態から完全に脱しきれていなかった彼は、片手に心臓を握りしめていることに気が付かなかったのだ。あのように美しいものを、隠さなければならないのは残念なことだったが、誰の体から抜き取ったのかも覚えていない心臓を近くの叢に放り投げると、血溜まりを靴で踏みにじった。

 自宅へと足早に急ぐ途中で、彼は牛の手綱を引いた一人の農夫に出くわした。

「先生、大変な怪我だ。どうなすった?」
「これは、私の血ではありません。夕べ遅くにジョゼフさんの若奥さんが産気づいて……しかし、残念ながら、奥さんも、赤ちゃんも」

 彼は親切で腕の良い医者だと評判だったから、農夫は彼の言うことを少しも疑わなかった。

「なんてこった。後で……カミさんと様子を見に行くことにしましょう。先生も、大変でしたなあ」

 去っていく農夫と牛の尻尾をしばらく見送って、ミフネヤは帰宅し、まだ眠っていたマリアを起こした。マリアは夫の姿を一目見て状況を察したようだった。

「また引っ越しなの? ああもう、まったく」

 口では文句を言いながら、彼女の行動は素早かった。身の回りの物を素早くまとめて、一家は荷馬車に乗り込んだ。また次の村を探さなければならない。
 今度は都会がいい、と荷台の奥の暗がりから、息子のジョンの声がした。
 その前に、村人を皆殺しにすればいいのに、と娘のエリザベスの声。そうすればこんなに慌てて逃げなくても済むのに。

 若い二人は人間に対して情け容赦ないが、マリアの残酷さはそれ以上だ。
 マリアが癇癪を起こして二人の喉笛を噛み切ったりしなければいいが、とミフネヤは思う。子供を何人持とうとも、最終的に彼らを塵芥にするのはいつも気性の激しいマリアだった。

「黙っていないと、下を噛み切るぞ。馬車が崖から転落するかもしれない。お前たちは寝ていなさい」

 ミフネヤはそう言って、夜になるまでに山を越えられるだろうか、と思った。彼は頭からかぶっている外套の位置を直した。

 太陽はほぼ真上から彼を照らしていた。
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