怪奇幻想恐怖短編集

春泥

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屍彼女(2)

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 どれくらいの時間が経過したのか。眠っていたのかもしれなかった。シゲルははっと顔をあげた。かさこそという耳ざわりな音がしていた。
 玄関の方だ。
 ベランダに通じるガラス戸は遮光性のぶ厚いカーテンを閉めてあるので外の様子はわからないが、時計を見ると、もう完全に夜だ。
 カチリ、という音と共に、ドアが軋んで開く音。がちゃん、とチェーンに阻まれ、悪態をつく声。オトネの声だ。

「シゲル、あたしよ。ドアを開けて」

 ぞっとするような猫なで声。少し前まではオトネだったものの声。彼はできるだけ平静を装って、寝室へ行き、それから玄関へ向かった。

 薄く開いたドアの隙間から細い腕が伸びて、チェーンを外そうともがいていた。ゲームを始めて百八十六日、彼女は最愛の恋人だった。彼がそのように設定し、二人の関係を築いてきたのだ。童顔で華奢だが脱ぐと豊満で、恥ずかしいと言いながら彼の要望にはなんでも応えてくれる、現実の世界には絶対に存在しない理想的な彼女。

 リビングデッド・ハニー(Living Dead Honey)、通称屍彼女しかばねかのじょは、恋愛ゲームである。プレイヤーの好みによってカスタマイズされた「恋人」との恋愛を楽しんでいると、ある日恋人が死に、ゾンビになってしまう。変わり果てた姿の恋人を受け入れ愛し続けるのか、それとも恋人の魂の安息を求めてゾンビハンターとなる、あるいはゾンビと化した恋人に追われながらサバイバルへと転じるなど、プレイヤーの好みで選択できる。とにかく、恋人がゾンビ化してからがこのゲームの真骨頂だと開発者は考えており、一定のラブラブな期間が過ぎると、車に轢かれたり風呂で溺れたり、恋人は様々な理由で命を落とすように設計されている。

 しかし、プレイヤーの中には、シゲルのように遅かれ早かれゾンビになる運命にある恋人にぞっこん惚れこんでしまい、彼女のゾンビ化をなんとか阻止してゲームを継続させようとする者が少なくない。これまでの最高ゾンビ化阻止記録は、三年と少々で、シゲルはその記録を塗り替える気満々だったのだが……

 まさか、餅をのどに詰まらせるとは。そんな死に方があるとは、どのゲーム実況でも聞いたことがなかった。

 とりあえず、外出を減らせば彼女が死ぬきっかけは劇的に減ると聞いていたため、シゲルは時に暴力に訴えてでも、オトネを二人の愛の巣であるマンションに軟禁状態にしていたのだ。それでも結局、ゲームの都合上一度死ななければならない彼女を止めることは叶わなかったが。

「シゲル、シゲルでしょ? 早く開けて。ゾンビに追われてるのよ……」

 日没後はゾンビが跋扈する時間帯である。ゾンビに噛まれれば、プレイヤー自身もゾンビになってしまうため、最も危険な時間帯だ。ゾンビの動作は生きていた頃より遅く、知能も低くなる。そのため、恋人がゾンビになった場合は、彼女に噛みつかれないように専用のマスクを購入し装着させれば、今後も生活を共にしていくことが可能だ。さらには、自ら進んで彼女に噛まれて彼女と同じ生きる屍になることを選び、愛を証明することも――

 彼はゆっくりと、チェーンを外した。

「信じてたわ、シゲル。私がどんなになっても愛してくれるって」

 ゆっくりとした動きで、オトネが中に入って来た。ワンピースの前が破れて、片方の乳房が剥き出しになっていた。髪に泥がついてよごれていたし、皮膚が青白く生気を失っていたが、まだ美しかった。スカートの下から、垂れ下がった腸の端が覗いていたとしても。

 ギクシャクとした動きで、オトネは後ずさるシゲルに追いつくと、背の高い彼の首に腕を巻き付け、顔を引き寄せた。

「私のこと、愛してるでしょ?」

 オトネが背伸びをして、血の気を失った唇がシゲル目の前に迫って来た。口の端に干からびかけた餅がくっついていた。

「いいや」

 シゲルは後ろ手に隠し持っていた銃でオトネの額の真ん中を打ち抜いた。そして、

「ターミネーション!」

 と叫んだ。彼の目の前に、赤と青のボタンがついた小さな箱が現れた。赤いボタンにはYのマーク、青にはNのマークがついている。

「オトネ、ヲ、ターミネーション、シマス、カ?」

 どこからともなく機械的な音声が響いた。頭を撃ち抜かれ脳を床に飛び散らせ後ろに倒れたオトネが、ゆっくりとした動作で起き上がろうとしていた。

 シゲルは、赤いボタンを押した。その途端、オトネの体が糸の切れた人形のように、くたくたと床に崩れ落ちて動かなくなった。


 G A M E  O V E R


 という文字が視界一杯に広がった。シゲルはゴーグルを外し、散らかりきった部屋の中を見回した。
 やってしまった。
 ターミネーションすると、これまで積み上げてきたオトネとの愛の記録が全て消去されてしまう。また一から始めるか、ゲームをやめるかだ。
 明日はバイトに行かなければならない。そうしないと、ゾンビの噛みつき防止マスクに課金する金すらない。いっそのこと、自分もゾンビになって恋愛を続けるという手もあったが、お互い徐々に腐っていく体で愛を交わすというのは、シゲルの趣味ではなかった(一部にはそれが目的でこのゲームをプレイする連中もいることは確かだが)。ゾンビになったプレイヤーは、他のプレイヤーから狩られる存在になるので、危険も増す。

 これまで数々のヴァーチャルな恋愛ゲームに手を出してきたシゲルだが、この屍彼女のクオリティに勝るものはないと思っていた(無論、彼女が死ぬ前までの話だが)。
 また明日から新しい恋人を設定し直して関係を築いていかなければならないのかと思うと気が滅入ったが、今度は思い切って無人の離島を買ってもよいと思った。そこで二人きりの生活をすれば、彼女の寿命は飛躍的に伸びるはずだった。それでも、孤島に引きこもるだけでは不十分で、侵入者や島の動物の襲撃などに備えてさらに防御のための装備を買いこまなければならないが。
「結局金なんだよなあ」
 シゲルはそう呟いて、汗臭いベッドに潜り込んだ。
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