バベル 本の舟・塔の亡霊

春泥

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第一部 本の舟

プロローグ 水の向こう

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 水の彼方には何があるのだろうか
 天気の良い日、ワタルは塔の窓から水平線を眺めながら、そんなことを考える。

 何もない、と長老は言い、大人たちも口を揃えて同意するが、大人というものはおしなべて長老の言葉には異を唱えないものらしいので、彼らが口にすること即ち長老の言葉であり、するとこの世界には、いくらかの子供と長老ただ一人しか存在していないことになりはしないか、とワタルはこっそりゲンヤに相談してみたことがある。
 ゲンヤ曰く、それは長老の言葉ですらなく、先人達の犠牲によって証明された真理に過ぎない。
 本に跨って孤独な旅に出ることをワタルが夢想するのはそんな時だ。
 水は青みがかったエメラルド色で、澄んでいるのだがあまりにも深いため、底まで見通すことはできない。本は真ん中で開いてもそう大きくないため、膝から下は常に水に浸かっている状態だ。

 水の底には何があるのか、とワタルは問うてみたことがある。

 罪だ。と長老は言い、だから悪事を働いた人間は水没刑に処されるのだ、と怖い顔でワタルを睨んだ。
 コミューンの人間が想像し得る最悪の事態、それが水没刑だ。刑は塔から遠く離れた水上で執行されるため、それがどのように行われるのか、ワタルは見たことがない。
 しかし、刑の執行人と罪人が舟に乗って漕ぎ出すところは、コミューンの民全員で見送るとなっていた。大の大人が恥も外聞もなく許しを請う姿は、ワタルがこれまで見た中で最も醜悪で恐ろしいものだと言っていい。

 ああなりたくなければ掟を破らず、善良なコミューンの一員として生きるように。

 遠ざかって行く罪人の泣き声がほぼ聞こえなくなった頃に長老がそう締めくくって、見送りの儀式は完了する。

 水没刑を科された罪人は、水の向こうでどのような目にあうのだろうか

 その名の通り水没させられて、溺れ死ぬのか。
 実はあれはただの脅しで、舟は一旦沖へ漕ぎ出すが、頃合いを見計らって罪人をこっそり塔に連れ戻し、更生を誓わせてコミューンのどこか目立たないところ――なにしろ、塔は広大で果てしなく上に伸びているという話だから――に配置換えをして、生かしてやるのではないか。

 ワタルがゲンヤにそう言うと、ゲンヤはそんなことはあり得ない、と即座に否定した。
 コミューンは貧しく、食糧不足は深刻な問題である。罪人を許し養う余裕はない。水没刑というのは、要は口減らしなのだから、と。

 しかし、とワタルは尚も食い下がる。

 食料が不足しているのは間違いない。
 だが、水没刑を下されるような大罪というのは、そう頻繁に発生するものではない。従って、コミューン全体の人口を考えれば、たまに一人ぐらい口減らしをしたところで、皆の取り分が増えるわけではない。
 仮に、罪人をこっそりコミューンに戻したことにより、不要なはずの食料一人分を新たに捻出する必要が生じたとしても、それぞれの民の取り分からほんの少し、小さいスプーンの先にほんの少しぐらいの量を取り分けて集めれば、一人分ぐらいは容易に確保できるではないか。

 それは、とゲンヤ。

 病人が出た場合や育ち盛りの子の成長を助成する特別措置のために既に行われていることで、皆コミューンの善良な人々の暮らしを支えるためだからと黙して耐えているのである。民への食料供給量は既に限界レベルにまで低下している。罪人のための忍耐や余剰は残っていない。
 我々は皆労働を分かち合い、それぞれの役割を果たすことでコミューンのメンバーたる資格を得ている。それを踏みにじり、取り返しのつかない罪を犯したと判断された罪人にのみ、長老は最も重い水没刑を下すのである。神の教えに背いた罪人に情けをかけていては、善良な民が浮かばれない。

 その神の教えというのも、結局はそれが真理なのだと長老をはじめ我々が勝手に信じているものではないのか。とワタル。

 今のは、聞かなかったことにしよう。

 ゲンヤはワタルから目を背けて言った。
 どうも、君は私を信用しすぎる。幼馴染だからといって、今の私は選ばれし者であることを忘れるな。

 君が長老になったら、僕を水没刑にするのか。

 君は善良な人間だ。優しい心を持っている。だが、コミューンの掟に従わないなら、いつの日か、そうせざるを得ない日が来るかもしれない。

 君だって優しい心を持っていた――ワタルは心の中でそう思った。
 人は、そんなに変われるものだろうか。

 私にそんなことをさせないでくれ。

 遠ざかって行くゲンヤの背中越しに、そんな呟きが聞こえた気がした。
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