バベル 本の舟・塔の亡霊

春泥

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第一章

08 贋作師(がんさくし)

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 突然名前を呼ばれて驚くワタルに、司書は続けて言う。相変わらず、書見台の上に広げられた書物を凝視したままだ。横から見ると、見開いて瞬き一つしない瞳が、眼窩から転げ落ちそうだ。

「パウが見込んだ見習いというのは、君のことだろう?」

「はあ、見習い、です」とワタル。彼の瞳も、驚きのために見開かれ、司書の視線の先を追っている。

「やあ、こんな美しいものは、初めて見ました」
 と息を呑んで一歩近づこうとしたワタルを、司書は片手を上げて制した。
「今、とても重要な箇所を写しているんだ。少し待ってくれるかな」
 ワタルは「すみません」と小声で呟いて、静かに数歩後ろに下がった。

 司書は、自分の左側に設置された書見台に広げられた原書から、右の作業机上にバンドで固定された紙に文字を写し取っている。そこに書かれている文字は、ワタルが覚えたばかりの文字と似ていたし、ワタルが知る単語に似た配列の言葉がいくつも見受けられたにもかかわらず、内容がとんと理解できなかった。どうやらそれはワタルが一晩かけて学んだ言語とは似て非なるもの、いわば兄弟言語といったもののようだった。

 しかし意味は分からずとも、文字自体に美しい装飾が施されているのに加え、余白の部分にも色とりどりの植物や動物の絵が描かれており、見ていて飽きなかった。余白の装飾はところどころで本文の文字にからみついており、頁全体が一枚の絵画のようだった。

 その繊細な芸術品を、作業台の横のテーブルに置かれた色鮮やかなインクの入った小さな壺を次々と手に取り、その都度筆を持ち変えながら、司書は驚くほどの精巧さで写し取っていた。文字の色使いや大きさは勿論、筆の流れや跳ね具合、行間のスペースまでも、寸分たがわぬ正確性――少なくともワタルの目にはそう映った――である。左手で文字を写していたと思えば、右手で彩色を施し、このような技が人間にできるものかとワタルが見とれていると

「これは、贋作」と司書が言った。相変わらず作業に集中している彼は、ワタルには一瞥もくれないというのに。
「がんさく? 何ですかそれは」

「本物と偽れるほど高いクオリティの写本のことだよ。パウ以外の司書なら大抵騙しおおせるぐらいのね。俺は写字工、ということになっているが、贋作師と呼ばれる方が好きだ。自分以上の偉大な誰かになれたかのように錯覚できるからね。しかし」

 贋作師は、鮮やかな緑色のインク壺と筆を傍らのテーブルに置いてから、ようやくワタルに向き合った。

「紙の質までそっくり再現するのはなかなか骨が折れるんだよ。これは羊皮紙。そこまでする必要はない、と言われるけどね。みんなわかっちゃいないのさ。俺の作る贋作は、今ではほぼ百バーセント原書の持つ効能を再現できるんだからね。贋作作りの情熱を軽く見てもらっては困る。君が贋作師になれないのは、誠に残念だよ。パウが許さないだろうからね。でも、君には間違いなく素質があると思うんだ。塔の外に出たこともないのに、塔の外観の様子を正確に描いてみせたというじゃないか。それも、今よりうんと小さい頃に」

 幼い頃、父親の作業場で煉瓦を焼いた後の炭を竈から指でこそげ落としながら、鼻歌混じりに床に描いた絵を見て、大人たちが驚きの声を上げたので、ワタルはてっきり怒られるのかと思い首をすくめたが、予想に反して、職人の一人がこんなことを言ったのだった。

「これは、舟に乗って漕ぎ出した時に、はるか遠くから眺めたこの塔の姿にそっくりだ」

 その不運な煉瓦職人は、くじ引きで水没刑の執行役に任命されたことがあったのだとワタルは後から知った。そんなことを思い出しながらワタルは

「僕は、自分が将来何になるのか、まだわかりません」
 と正直に言った。

「そうかい。君はパウの後継者なんだと思っていたが。まあ、あの人は物事をちゃんと説明しないからなあ。あれ、わざとじゃなくて、頭の中がとっちらかっているせいなんだよ。悪く思わないでやってくれたまえ。で、用事は何?」

 と贋作師に問われて、ワタルは慌てて、パウを探していることを告げた。贋作師は首を振って言う。
「彼が平生何をしているのかなんて、誰も知らないよ。君、最初のパズルをもう解いたのかい?」

 贋作師はワタルが懐から取り出した『ユンとユラ』を手に取って頁をめった。

「ふん、これが頭痛薬だって? バカを言っちゃいけない。元の本の効能はそうだが、この粗悪な写本は、煎じて飲んだりしたら腹が下ってひどい目に遭うぞ。便秘で苦しんでいる者がいたら、くれてやるといい。それ以外は絶対に飲んだりしたら駄目だ。贋作の芸術のなんたるかも知らない無粋な写本師の仕事だからそんな風になるのさ。ニセモノのことなら、一番詳しいのはこの俺だからね、何でも訊きに来るといい。それから」

 と贋作師は一冊の本を近くの書棚から抜き取り、ワタルに渡した。それほど大きくないものの、分厚くてずしりとした重みがあった。

「これは、オリジナルそっくりだが実は写本だ。勿論、俺の作品さ。ただ、オリジナルだと信じて銀を製造できると思ったら、鉄ができてきてびっくり、っていう、そういう遊び心を盛り込んでみたんだが、生憎まだ誰も引っかからない」

 困った顔をしているワタルに、贋作師はにやりとした。

「これは『辞書』というものだ。薄っぺらい絵本が一冊読めただけでは、まだその言語を習得したとは言えない。他の本を読んでみろ。知らない言葉が山のように出て来るぞ。『辞書』というのは、そういう時に役に立つ。それを持っているといい。銀を欲しがっている奴に、何食わぬ顔で渡してやってもいいけどね。ただし、結果がどうなったか、後で必ず俺に報告するんだぞ」

 パウの無軌道さを批判した贋作師とて、ワタルに手とり足取り『辞書』の使い方を教えてはくれなかったが、『辞書』は子供のためのお伽噺とは異なり、そこにはワタルを感服させる秩序があった。整然と示された規則を発見するのは、自力でもさほどの手間はかからず、それからの一週間、ワタルは辞書を片手に片っ端から図書館の書物を読んでいった。
 終いには辞書も最初から最後まで読破したが、ワタルの驚いたことに、本を読むための辞書はそれ一冊では足りず、分野ごと(例えば、農業や天文学)に何冊も存在していることが分かった。

 辞書を最初に読みこめば、後の読書が楽になる、と程なく学んだワタルだが、それでも、彼が読むことができるのはまだ『ユンとユラ』と同じ文字と規則で書かれた書物に限られていた。一体、いつになったら別の言語にとりかかれるのかと焦りも感じたが、司書見習い初日の失敗を大いに反省し、睡眠時間を削りすぎないように気をつけてはいた。それでも、窓のない図書館内ではつい時間を忘れてしまうこともあった。
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