バベル 本の舟・塔の亡霊

春泥

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第二章

02 長老の死

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 長老が身罷みまかられた。

 ワタルは、ゲンヤが発した言葉の意味を、すぐには飲み込むことができなかった。
 祈りの間は静寂に包まれた。皆、呼吸をするのさえ忘れている。

長老だ」
 と訂正するパウの言葉は、使徒の嘆きの声にかき消された。
「偉大なる我らが長老が」古参の使徒が天を仰いで言う。
、長老が、ね」とパウ。
「厳しい時代になろう。あの偉大なお方のお導きなくして我々は一体どうなることか」と別の古株の使徒も言う。

 使徒達の狼狽はたちまち民の代表団に伝染した。大声をあげて泣きだす者、抱き合って震える者。青ざめた顔で、がっくりと膝をつく者――
 呆然と立ち尽くし喧騒を眺めていたワタルのすぐ側から、怒号が響きわたった。

「愚か者ども。お前達は前長老の操り人形だったとでもいうのか? 前長老は自らの寿命が尽きかけているのを知り、後継者をお選びになった。お前たちの仕事は、現長老を支えることだ。煉瓦職人が煉瓦を作るがごとく、厨房係がパンを焼くが如く、自らの任務を全うせよ。それができずにただ赤子のように泣きわめく使徒なら不要だ。そこにおられる職人代表のどなたかに弟子入りして、一から仕事を教えてもらうがよい」

 それは使徒の中でもかなり年長のミロだった。それは明らかに、見苦しく取り乱す使徒達に向けられた非難だったが、彼の剣幕に押されて、職人代表も含め一同静まり返った。
 ゲンヤがつと前に進み出た。狼狽の色など微塵もない、いつも通りの無表情な顔で、彼は言う。

「若輩者の私に皆が不安になるのは無理のないことだ。しかし、使徒ミロの言う通りだ。もはや偉大なる前長老に助言を仰ぐことは叶わない。これまで通り、使徒一丸となって、役割を果たしてもらわねばならない。皆は」

 とゲンヤは代表団を見渡し、語りかける。

「仕事に戻り、前長老が旅立たれたことを仲間に伝えよ。本日をどのように過ごすかは、各代表の判断に任せよう。一日喪に服してもよい。だが、前長老は自身の死を嘆き悲しまれるより、民が前へ進むことを望むお方であった。それは忘れないでいてほしい」

 若き長老の言葉に、職人代表達は、ゆっくりと、しかしまだ後ろ髪引かれる様子で集会所を後にしていく。

「いくら長老様――前の偉大な長老様がお選びになったとはいえ、あんな子供に」

 そんな悲観的な声がワタルの所まで届いた。当然、ゲンヤにも聞こえているはずだった。使徒ミロが、あるいはパウが何か言うかと思い、そっと様子を窺うと、パウは腕組みをしてむっつりと黙り込んでいた。

 民の不安を軽減させるべく、何か言葉を発するべきではないのか。自分とて今は使徒の一員なのだし――

 ワタルはそう思ったが、口の中はカラカラに乾き、杖を握りしめた手が微かに震えているのがわかる。
 こんな頼りない自分に一体何ができようか
 その時、聞き覚えのある声が響いた。

「お前達、泣き言を言うんじゃない。『あんな子供』だと? あのお方は幼少の頃、あちこちの居住区に預けられていた。無口で何を考えているのかわからない子だったが、ただの一度も嘘をついたり、自分より幼い子に手をあげたり、割り振られた仕事を怠けたりしたことはなかった。一度教えたことは二度繰り返す必要がない、賢い子だった。選ばれし子に選ばれた時は、誰もが納得したはずだ。あの子よりもそれに相応しい子が、このコミューン内に居るか? いると思うなら、言ってみるがいい。選ばれし者に選ばれたのだって当然のことだ。皆そう思ったはずだろう。それがなんだ、長老様――前の長老様がいなくなった途端、疑い始めるのか。それは長老様――前の長老様に対する侮辱だ。俺は前の長老様を信じている。その決断を信じた自分も信じている。前の長老様が、あのお方を後継者に選ばれたのなら、俺はそれを信じる」

 人混みに紛れ姿は見えなかったが、それはワタルの父の声だった。
 そうだ、その通りだ、という声があちこちから上がり、声高に不安を訴えていた者達も、口をつぐまざるを得なくなった。
 新米使徒達は明らかに安堵の表情を浮かべていた。

「幸せなるかな、愚かなる者」

 背後から聞こえた静かな声に、新米使徒全員が振り向いた。ワタルは声だけで認識していた。使徒の中ではパウに続く古株、ケラが口の端を歪め、真っ直ぐワタルを見つめていた。先ほど声を上げた職人が誰なのか、ケラは知っているのだとワタルは思った。

「愚か者とは、一体誰の事でしょうか」

 とキリヤが穏やかな口調で言った。ケラはキリヤを睨みつけたが、キリヤは質問を繰り返した。
「前長老への絶対的信頼に基づき現長老を信頼する者達のことでしょうか。即ちそれは、我々ということになりますが、愚か者というのは、我々一同のことでしょうか」
「小賢しい」
 ケラは不快感を隠さず吐き捨てた。
「私はゲンヤ殿ほど賢くはないし長老の器でもないという評価を受けたが故に、使徒なのです。あなたと同じように。現状、経験不足からくる未熟さは大目に見ていただきたい。もう一度お尋ねしますが、あなたご自身は、幸福な愚か者ではないのですか?」
「若造が、なんという無礼な口の利き方か」
 とケラの傍らに立つ使徒の一人、ギノーが杖を振り上げた。

「誰が無礼かという話ならば、一番はケラだろうな。わざわざ聞こえるように、新旧の長老と使徒、新米使徒の父である職人を一度に侮辱したんだから。二番目はギノー、お前だ。今や正式な使徒であるキリヤに対し『若造』だの杖で打ち据えようだの、言語道断。それから、未熟な新米使徒が、わかりきった答えをあえて求めて、立てなくていい波風を立てようとする――これが無礼かどうかは判断が難しいところだ」

 間に割って入ったパウに向かって、キリヤが言う。

「私はただ、知りたいだけです。なぜ腐った林檎を捨ててしまわないのか。腐敗した実は、他の清廉な果実までたちまち腐らせてしまうという話です」
「それを『政《まつりごと》』と呼ぶんだ。十五で理解するのは難しいかもしれないがね。さて、なかなか楽しいお喋りだったが、生憎いつまでも遊んでいるわけにはいかない。君らはどうか知らないが、私は仕事が山積みでね。さっさと会議を済ませてしまおうじゃないか」

 パウは一同を見回してそう言った。
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