バベル 本の舟・塔の亡霊

春泥

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第二章

13 新しい命

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 贋作師の思わせぶりな物言いに背中を押されて、ワタルは煉瓦職人居住区に久々に足を向けた。
 彼らはワタルの父、自分たちの仲間に危害を加えた罪人がその報いを受けることを期待している。ワタルが父親の敵を討つことを切望している。そんな期待がひしひしと伝わってくるから、ワタルは彼らに顔向けができないと感じ、仕事にかこつけて足が遠のいていた。しかし――

 作業部屋の入口の前に立ったワタルの耳に、職人達の明るく賑やかな声が響いた。それを聞いて安心すると共に、少し寂しくも思った。親父さんの敵を討てと詰め寄られるよりは余程いいのだが。
 耳慣れない甲高い声がした。いや、それが何かは明らかだったが、久しく耳にしていなかった声。

「おい、ベニ。泣いてるじゃねえか、早く行ってやれ」
「強い子に育てたいんですよ。すぐに抱っこするのは抱き癖がついてよくないって」
「馬鹿野郎、お前が行かないなら俺が行くからな」
「おめえは隙あらば仕事をサボってあの子にちょっかいかけようと」
「お前らだって同じじゃねえか」
「弱ったなあ」
 ベニが頭を掻いているところへワタルが入っていくと
「ワタル!」
 ベニは吹き出物の目立つまだ幼さの残る顔を輝かせた。

 まさかこのベニが。少し若過ぎはしないか、自分より何年か年長なだけではないか、とワタルは思いながら自分を囲む職人達の顔を見回した。笑顔、笑顔、笑顔……顔つきが最後に見た時とは比較にならないくらい柔和になっている。そしてその原因は明らかに

「ワタル、見てくれ。これが俺達の赤ん坊だ」
 と破顔しながら、けたたましい声で鳴き続ける小さな包みを差し出した職人に、ベニが声を荒げる。
「あっ。だから、抱き癖が――」

 毛布に包まれた小さいものが握りしめた拳を振りまわしながらさらに声を高めたので、皆の注意はそちらに向けられた。

「そらみろ、チビが怒ってる。ドンクはおめえみたいな頼りない親父はいやだとさ」
「酷いなあ。俺はゲンヤ……いや、若い長老様からじきじきにこの子を託されたんですからね」
「ドンクというのか。この子は」
 とワタルは顔の小ささに見合わない程大きく開かれた歯のない口の中を見入りながら言う。「その名は――」

「お前の親父さんからもらった。本当は、俺が父親になるのはもっと先の予定だったんだが、この居住区からはお前が使徒になって抜け、お前の親父さんまで……。だから順番が早まったんだそうだ。親父さんには俺も世話になったし、俺の曾爺さんもドンクって名前だったってことだから」

 ベニは赤子のドンクを注意深く職人の腕から取り戻しながら

「構わないよな? ほら、ワタルおじさんだぞ。頼りなさそうに見えるだろうが、使徒様なんだぞ」とワタルにドンクを差し出した。

 ワタルは慣れない手つきでドンクを受け取った。粗忽者に床に落とされかねない身の危険を察知したらしい赤子は、更に激しく泣き出した。

「お前が言うな、ベニ。お前みたいな若造が父親だなんて、俺達は心配で仕方がねえんだぜ」
「本当だぜ。危なっかしくて冷や冷やするぜ。お前がへましないように、俺達が見ててやらんにゃあ」
「何言ってやがる、おめえが赤ん坊に遊んでもらってんだろ。ベニじゃなくて、俺んとこに来ればよかったのになあ、ドンク」
「お前は十年前にケイを授かっただろう。この強欲な罰当たりが」
「ケイが、弟が欲しいっていうんだよ」
「うちの倅だってそうだぜ。けどそれは贅沢ってもんよ」

 ベニに赤ん坊を返した後も、そのぬくもりはしばらくワタルの腕の中に残った。赤子のドンクは、ミルクをあてがわれ、ようやく静かになった。

 赤ん坊は、将来コミューンを支える宝として、どこの居住区でも大切に育てられる。父親には通常ベニよりは年上がなるものとはいえ、子育ての経験がなく悪戦苦闘する父親のためには、居住区のメンバーは惜しみなく手助けをする。
 コミューンでは、子供は皆で協力して育てるものだと認識されている。そうして大事に育てられた赤子は、居住区の人々への愛情とその一員である自覚や責任感を自然と身につける。ドンクが成長して煉瓦職人以外の職に就いたとしても、自分を育ててくれた彼らに対する感謝と尊敬の念は生涯持ち続けるはずだ。ワタルがこの先ずっとそうであるように。

 小さき者の存在は沈み込んでいた煉瓦職人居住区の空気を一転させてしまっていた。ワタルは彼らに別れを告げてから、その小さき者が皆に及ぼした影響力に改めて感嘆した。

 図書館に戻る道すがら、通路を曲がって階段の踊り場に足を踏み入れたワタルは、そこに佇む二人連れに出くわした。

「ユッコ」

 彼と会うのはあの日以来だとワタルは思った。ユッコの顔は青ざめて見えた。一緒に居るユッコよりかなり年上の男の顔には確かに見覚えがあったが、誰なのかはすぐには思い出せなかった。しかしその男のおかしいぐらいの狼狽ぶりと

「貴様! 無礼者!」

 と叫んだ不躾さから、思い至った。

「あなたは、ケラ殿の――」
「ご無礼をお許しください」とユッコは強張った顔でワタルに深く頭を下げた。
「何が無礼なものか。こんな若造、俺の親父に」
「あなたは、使徒の息子というだけで何者でもない」
 ユッコは冷ややかに言い放った。
「なんだと」
 と猛り狂うケラの息子を無視し、ユッコは
「お元気そうで何よりです。お怪我の方は」
「もう杖も必要なくなった。大丈夫だ」とワタルは慌てて言った。
「そうですか」とユッコは目を伏せた。

 ワタルにはユッコと話したいことが山程あった。しかし、ケラの息子が自分とユッコを交互に睨みつけている中では到底無理だった。

「今度ゆっくり話をしよう」
 とワタルはユッコの目を見て言った。ユッコは下を向いたままだった。


 図書館に戻ってから、ワタルは作業部屋――地図作りに必要だろうとワタルに割り振られた図書館内の作業スペース――の木箱の中から、いくつもある巻物の一つを取り出し、テーブルの上に広げた。それはワタルが作成した地図、煉瓦職人居住区を含むフロアの見取り図だ。 
 それは大きな円の内側に、ぽっかり開いた空洞を持っている。内側の空洞は、即ち図書館である。その部分はあまりにも複雑怪奇な構造になっており平面的な地図には表しにくいため、まずはその外側にある職人居住区の地図をワタルは作製していた。実地検分に出かける際は手ぶらで、視覚でとらえた情報――階段や出入り口の位置、窓の数、部屋の広さ、職人の数等を図書館に戻ってから地図に書き入れる方式だ。

 ワタルは煉瓦職人居住区と小さく記されたセクションを指で抑えると、インク壺にペンを浸し、そこに書きこまれている数字に「+1」と付け加えた。「地図」にどこまでの情報を書き入れたものか、現在も試行錯誤中であるが、ワタルはとりあえず住民の数も記載することにしておいてよかった、と思った。

 お陰でドンクの誕生を書き記すことができた。父親の分を「-1」とした後に。
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