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第五章
03 鼠
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遅れて現場に到着したエルは、入口からそっと中を覗いて、言葉を失った。
床の一部が破損した破片や、千切れ飛んだ本の残骸が散乱した室内に漂う白煙越しに見えたのは、床に横たわる血まみれのローブに包まれた赤黒くぐずぐずしたものと、それよりはましだが酷く痛めつけられた様子の別の物体。
エルの喉元に込み上げてきたのは叫び声だけではなかった。しかし、両側から体を支えられようやく立っている様子の贋作師と目が合い、彼は半開きだった口を、片手で覆った。
行け
僅かに動いた贋作師の眼球がそう語っていた。
エルは静かに身を引くと、小さなホールを抜けて回廊に出ると、吹き抜けの階段を静かに駆け上がった。
あんな連中に子供達を見つけられてはならない。
エルは頬を伝う涙を無言でぬぐった。今は泣いている時ではなかった。
「憎たらしい糞ガキが。ここでひと思いにやってやろうか」
ケラの息子は床に放り出されたワタルの頭を踏みつけた。
「やめろ! その小僧は仮にも次期図書館長、パウの後継者だ」
と贋作師は掴まれた両腕を自由にしようともがきながら言う。
「お前はベテランの司書で写字工だろう。お前が居れば事足りようが」
「俺は細密画が専門だ。写本を作ることにかけてはプロだが、それ以外のことは知らん。大抵の司書はそういうものだ。特定の分野において深い専門知識を持つ代わり、他事に関しては無知蒙昧だ」
「では、この髭面も役立たずではないか」
とケラの息子に睨まれて、若い写字工は怯えた顔で言う。
「でも、その人はパウの右腕だった。色々知らないわけがない」
「パウは引退を考えていた。だから大急ぎで諸々ワタルに引き継いでいた。俺は、詳細は知らん」と贋作師はきっぱりと否定した。
その時、カサカサと音がして、小さな鼠が床に散乱する書物の下から這い出してきた。
「なんだ、この気色の悪い生き物は」
ケラの息子は、太った体に似合わぬ敏捷さで鼠を踏み潰した。鼠は口から吐いた血で鼠色の毛皮を濡らし、ひくひくと痙攣していた。
「鼠だ」若い写字工の顔から血の気が引いた。
「なんてことを」
「なんだと?」
生意気な写字工を叩きのめしてやろうとケラの息子がギラギラ光る眼で睨みつけた時、きいきい、がさがさと、小さな音が部屋のあちこちから聞こえ始めた。
「なんだこれは」
ケラの息子の声に恐怖が滲んでいた。
「聞いただろう」
贋作師は唇の端を歪めて言った。
「鼠だよ」
一匹、二匹と徐々に姿を現した鼠は、爆発の衝撃でできた壁の亀裂から、瓦礫や千切れた本の下から次々と這い出してきた。一体何匹居るのか、すぐにわからなくなった。
鼠は、力なく横たわる猫の世話係とワタルに這い寄った。ケラの息子が甲高い悲鳴を上げた。何匹か、彼の足を伝って這いあがろうとしていた。ざらざらした毛やひんやりと濡れた感触が何とも言いようのない気味の悪さだった。
「なんだこいつらは!」
「鼠だ。さっきからそう言ってるだろう。これまで猫の世話係に染み込んだ猫の臭いに押しとどめられていたものが、仲間の血の臭いに我慢しきれなくなって出てきたんだ」
贋作師は冷ややかに言う。
「痛い、やめろ、痛っ」縛られたままのワタルが身をよじる。猫の世話係は、どれだけ鼠に群がられても、抵抗を示さない。
「先へ進もう。その小僧は捨て置け。そっちの髭を連れて来い」
ケラが悲鳴を上げて鼠を振り払いながら指示した。息子も渋々とそれに同意した。
キリヤが駆けつけた時には、既にケラ一味と贋作師の姿はなかったが、無残に破壊された室内と、見たこともない異様な物体に言葉を失った。
黒い絨毯が動いていた。
いや、目を凝らしてよく見ると、それは床の上にできた大きな塊二つを中心に、小さな生き物が群がって、きーきー音を立てているのだった。
鼠か!
単体で見れば可愛いと言えなくもない(エルならば確実にそう言うだろう)が、夥しい数であった。その鼠が群がる二つの塊のうち、一つは必死にもがいており、それは聞き覚えのある声で「痛い」だの「やめろ、はなせ」だのと、くぐもった声を発していた。
「ワタルか!」
キリヤは怖気を振り払い、もがいている方の塊に飛びつくと、手当たり次第に鼠を毟り取っては放り投げた。鼠はキリヤにも襲いかかってきた。悲鳴を上げたかったが、口の中に鼠が飛び込んできそうで、歯をくいしばったまま毒づきながら、鼠と格闘した。
しかし相手は小さくてすばしこい上に、多勢に無勢だった。たちまち全身をあちこち噛まれ、これではいずれ自分もやられるとキリヤは恐怖を覚えた。
そこへ、手に奇妙な長い棒を持った司書達がわらわらとやってきた。棒の先には、半透明な黄色いものが付着している。
「かかれ!」
という号令と共に、司書達がなだれ込んできて部屋のあちこちで棒を振りまわした。黄色い物質には強い粘着性があり、鼠に触れるとくっついて離れなくなる。司書達は鼠がいっぱい付着した棒を袋の中に突っ込んで新しい棒に持ち替えると、慣れた調子で鼠を駆除していった。
司書の手によって手足の戒めを解かれても、ワタルはぐったりと横たわっていた。
「ワタル!」
キリヤに抱き抱えられたワタルの顔は酷い有様だったが、それが全て鼠によるものではないことは想像がついた。
「ケラ達め、なんてことを」
と憤慨するキリヤの顔に、司書の一人が、つんと鼻につく臭いを放つ濡れた布を押しあてた。
「痛っ」
傷口に刺されたような刺激が走り、思わず悲鳴を上げるキリヤに
「お静かに。これは清めの薬です。害虫に齧られたのですから、消毒しなければ」
と司書は容赦なくキリヤの皮膚の破れた箇所に濡れた布を押し付ける。
「痛っ。俺のことはいいから、ワタルをなんとかあいてててて!」
目に涙を浮かべながら叫ぶキリヤに司書はこともなげに言う。
「心配無用。ワタル殿も当然消毒いたします故」
「うああああああ!」
亡骸のように力なく横たわっていたワタルだが、先にケラ達の手によって痛めつけられていた上に、鼠に散々齧られた傷口に消毒液を押しあてられて絶叫した。
「大人しくなさい。傷が膿まぬよう、ようよう清めねばならないのです」
「があああああああ!」
ワタルの叫び声に耳を塞ぎたくなったキリヤだが、ふと「そういえば、もう一つの山は――」とワタルとは別に鼠が群がっていた辺りに目をやって、そこにある無残なものの姿に言葉を失った。
「ああ、それは猫の世話係です。お気になさらぬよう」
とキリヤの手当てをする司書は、こともなげに言う。
「気にするな、だと? あれは――鼠の仕業か? 君達は、同胞があんな姿にされて」
「鼠にやられる前に、ケラ達にやられたのでしょう。大きな音がしたし、この有様は、火薬を使ったのに違いありません」
そういいながら、キリヤの腕や体にも消毒薬の染みた布を容赦なく押し付ける。
「痛い、痛い! 火薬? それは一体――痛い!」
「火をつけると爆発する――そういう本があるのです」
「それで、猫の世話係は、あのようにズタボロに」
「そうです。それから鼠に襲われたのでしょう。でもあちらは気にしなくていい。それよりワタル殿の方が」
「何を言っているんだ! いやワタルも無論大事だが――」
キリヤは猫の世話係が苦手であった。あの高圧的な態度といい、新米のミスを許さない厳しさといい、苦手どころか、まったく好感が持てなかった。しかしだからといって――
キリヤが反論のために開いた口が、だらりと垂れ下がり、目は傷の消毒を続ける司書の肩越しの一点に釘づけとなった。
「ね、ね、ね」
「おや、まだ残っていたか?」
と振り返った司書の顔が恐怖に歪んだ。そして、絞り出すような声で、言った。
「アルトゥール!」
床の一部が破損した破片や、千切れ飛んだ本の残骸が散乱した室内に漂う白煙越しに見えたのは、床に横たわる血まみれのローブに包まれた赤黒くぐずぐずしたものと、それよりはましだが酷く痛めつけられた様子の別の物体。
エルの喉元に込み上げてきたのは叫び声だけではなかった。しかし、両側から体を支えられようやく立っている様子の贋作師と目が合い、彼は半開きだった口を、片手で覆った。
行け
僅かに動いた贋作師の眼球がそう語っていた。
エルは静かに身を引くと、小さなホールを抜けて回廊に出ると、吹き抜けの階段を静かに駆け上がった。
あんな連中に子供達を見つけられてはならない。
エルは頬を伝う涙を無言でぬぐった。今は泣いている時ではなかった。
「憎たらしい糞ガキが。ここでひと思いにやってやろうか」
ケラの息子は床に放り出されたワタルの頭を踏みつけた。
「やめろ! その小僧は仮にも次期図書館長、パウの後継者だ」
と贋作師は掴まれた両腕を自由にしようともがきながら言う。
「お前はベテランの司書で写字工だろう。お前が居れば事足りようが」
「俺は細密画が専門だ。写本を作ることにかけてはプロだが、それ以外のことは知らん。大抵の司書はそういうものだ。特定の分野において深い専門知識を持つ代わり、他事に関しては無知蒙昧だ」
「では、この髭面も役立たずではないか」
とケラの息子に睨まれて、若い写字工は怯えた顔で言う。
「でも、その人はパウの右腕だった。色々知らないわけがない」
「パウは引退を考えていた。だから大急ぎで諸々ワタルに引き継いでいた。俺は、詳細は知らん」と贋作師はきっぱりと否定した。
その時、カサカサと音がして、小さな鼠が床に散乱する書物の下から這い出してきた。
「なんだ、この気色の悪い生き物は」
ケラの息子は、太った体に似合わぬ敏捷さで鼠を踏み潰した。鼠は口から吐いた血で鼠色の毛皮を濡らし、ひくひくと痙攣していた。
「鼠だ」若い写字工の顔から血の気が引いた。
「なんてことを」
「なんだと?」
生意気な写字工を叩きのめしてやろうとケラの息子がギラギラ光る眼で睨みつけた時、きいきい、がさがさと、小さな音が部屋のあちこちから聞こえ始めた。
「なんだこれは」
ケラの息子の声に恐怖が滲んでいた。
「聞いただろう」
贋作師は唇の端を歪めて言った。
「鼠だよ」
一匹、二匹と徐々に姿を現した鼠は、爆発の衝撃でできた壁の亀裂から、瓦礫や千切れた本の下から次々と這い出してきた。一体何匹居るのか、すぐにわからなくなった。
鼠は、力なく横たわる猫の世話係とワタルに這い寄った。ケラの息子が甲高い悲鳴を上げた。何匹か、彼の足を伝って這いあがろうとしていた。ざらざらした毛やひんやりと濡れた感触が何とも言いようのない気味の悪さだった。
「なんだこいつらは!」
「鼠だ。さっきからそう言ってるだろう。これまで猫の世話係に染み込んだ猫の臭いに押しとどめられていたものが、仲間の血の臭いに我慢しきれなくなって出てきたんだ」
贋作師は冷ややかに言う。
「痛い、やめろ、痛っ」縛られたままのワタルが身をよじる。猫の世話係は、どれだけ鼠に群がられても、抵抗を示さない。
「先へ進もう。その小僧は捨て置け。そっちの髭を連れて来い」
ケラが悲鳴を上げて鼠を振り払いながら指示した。息子も渋々とそれに同意した。
キリヤが駆けつけた時には、既にケラ一味と贋作師の姿はなかったが、無残に破壊された室内と、見たこともない異様な物体に言葉を失った。
黒い絨毯が動いていた。
いや、目を凝らしてよく見ると、それは床の上にできた大きな塊二つを中心に、小さな生き物が群がって、きーきー音を立てているのだった。
鼠か!
単体で見れば可愛いと言えなくもない(エルならば確実にそう言うだろう)が、夥しい数であった。その鼠が群がる二つの塊のうち、一つは必死にもがいており、それは聞き覚えのある声で「痛い」だの「やめろ、はなせ」だのと、くぐもった声を発していた。
「ワタルか!」
キリヤは怖気を振り払い、もがいている方の塊に飛びつくと、手当たり次第に鼠を毟り取っては放り投げた。鼠はキリヤにも襲いかかってきた。悲鳴を上げたかったが、口の中に鼠が飛び込んできそうで、歯をくいしばったまま毒づきながら、鼠と格闘した。
しかし相手は小さくてすばしこい上に、多勢に無勢だった。たちまち全身をあちこち噛まれ、これではいずれ自分もやられるとキリヤは恐怖を覚えた。
そこへ、手に奇妙な長い棒を持った司書達がわらわらとやってきた。棒の先には、半透明な黄色いものが付着している。
「かかれ!」
という号令と共に、司書達がなだれ込んできて部屋のあちこちで棒を振りまわした。黄色い物質には強い粘着性があり、鼠に触れるとくっついて離れなくなる。司書達は鼠がいっぱい付着した棒を袋の中に突っ込んで新しい棒に持ち替えると、慣れた調子で鼠を駆除していった。
司書の手によって手足の戒めを解かれても、ワタルはぐったりと横たわっていた。
「ワタル!」
キリヤに抱き抱えられたワタルの顔は酷い有様だったが、それが全て鼠によるものではないことは想像がついた。
「ケラ達め、なんてことを」
と憤慨するキリヤの顔に、司書の一人が、つんと鼻につく臭いを放つ濡れた布を押しあてた。
「痛っ」
傷口に刺されたような刺激が走り、思わず悲鳴を上げるキリヤに
「お静かに。これは清めの薬です。害虫に齧られたのですから、消毒しなければ」
と司書は容赦なくキリヤの皮膚の破れた箇所に濡れた布を押し付ける。
「痛っ。俺のことはいいから、ワタルをなんとかあいてててて!」
目に涙を浮かべながら叫ぶキリヤに司書はこともなげに言う。
「心配無用。ワタル殿も当然消毒いたします故」
「うああああああ!」
亡骸のように力なく横たわっていたワタルだが、先にケラ達の手によって痛めつけられていた上に、鼠に散々齧られた傷口に消毒液を押しあてられて絶叫した。
「大人しくなさい。傷が膿まぬよう、ようよう清めねばならないのです」
「があああああああ!」
ワタルの叫び声に耳を塞ぎたくなったキリヤだが、ふと「そういえば、もう一つの山は――」とワタルとは別に鼠が群がっていた辺りに目をやって、そこにある無残なものの姿に言葉を失った。
「ああ、それは猫の世話係です。お気になさらぬよう」
とキリヤの手当てをする司書は、こともなげに言う。
「気にするな、だと? あれは――鼠の仕業か? 君達は、同胞があんな姿にされて」
「鼠にやられる前に、ケラ達にやられたのでしょう。大きな音がしたし、この有様は、火薬を使ったのに違いありません」
そういいながら、キリヤの腕や体にも消毒薬の染みた布を容赦なく押し付ける。
「痛い、痛い! 火薬? それは一体――痛い!」
「火をつけると爆発する――そういう本があるのです」
「それで、猫の世話係は、あのようにズタボロに」
「そうです。それから鼠に襲われたのでしょう。でもあちらは気にしなくていい。それよりワタル殿の方が」
「何を言っているんだ! いやワタルも無論大事だが――」
キリヤは猫の世話係が苦手であった。あの高圧的な態度といい、新米のミスを許さない厳しさといい、苦手どころか、まったく好感が持てなかった。しかしだからといって――
キリヤが反論のために開いた口が、だらりと垂れ下がり、目は傷の消毒を続ける司書の肩越しの一点に釘づけとなった。
「ね、ね、ね」
「おや、まだ残っていたか?」
と振り返った司書の顔が恐怖に歪んだ。そして、絞り出すような声で、言った。
「アルトゥール!」
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