バベル 本の舟・塔の亡霊

春泥

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昔々の話をしよう

愚者と賢者(2)

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 ごろ寝をしている男を尻目に、少年は眉間に皺を寄せ、本を眺める。今のところ、まったく「読む」ことはできていないから、字面を目で追っているだけだ。
 しるしの羅列と男は言った。その印がざっと二十六種類あること、その二十六個を組み合わせて言葉を表してるらしいことは、しつこく同じ本の頁をめくりながら印の列を眺めている間にわかった。そして、その列は、どうやらてっぺんの左から右へと横方向に流れる。そこから下の段に下りて右から左に行くのか、それとも左の端に戻ってまた右方向へ行くのかを判断するには、スペースで区切られた印の塊が形成するパターンを観察する必要があった。

「気が長いねえ、君は。そんなことをしている間に、おじいちゃんになってしまうよ」

 時々、興奮して「発見」や「成果」を報告する少年に、男は欠伸をしながらそう答えた。
 男の方は、昼寝に飽きるとガラクタの山をつつき回して「どうしたもんかな」と呟く。親方は仕事の邪魔にしかならない男を倉庫に厄介払いした時点でその存在をほとんど忘れているのだが、たまに思い出した時に見せられる成果がなければ、また殴られるだろうということはこの呑気な男にもわかった。

「ねえ君、君の親父さんに何かしらの『成果物』を提出できるようにしておきたいんだが、何かいいアイデアはないかな」
 
 眉間に皺を寄せて本を睨みつけていた少年は、そのまま顔を上げて男を見た。

「あーあ、なんて顔をしてるんだい。子供のくせに」
「明らかなパターンがあるのに、いくら眺めても僕には意味がわからない」
「わかるわけがない」
「そうかもしれません」

 少年はローブの裾で目を拭った。男は大袈裟に溜息をついて、本が詰まれた山に近づいた。

「諦めるのか? まだほんの……三十五日しか悩んでないのに」
「あなたは、その間ほとんど昼寝をしてたじゃないですか」
「まあ、あまり寝すぎると夜眠れなくなるんだがね」
「よくそんなに怠けていられますね。罪悪感を抱かないんですか。額に汗して働かない者に、パンを得る資格はないと」
「ああはいはい、そんな呪いを子供のころから散々聞かされたよ、俺だってね」
「呪い、ですか」
「呪いだろう。そのせいで、年を取って働けなくなったりした者は生きている価値がない、みたいに思ってしまうだろう。若い頃から身を粉にして働いてきたっていうのにさ」

 少年は口をつぐんで、しばし考え込んだ。

「それは、コミューンの食料には限りがあるから」
「そうだな。でも俺は、そんな世界は」
 好きではない、と男は開いた本の頁に顔をうずめたまま言った。

「ど、どうしよう」少年は青い顔で言う。
「あなたの意見に、僕も賛成です。僕がの頃、お爺ちゃんが、床に伏せってしまった。お爺ちゃんは、とてもいい大工だったのに、働けなくなってしまった。そうしたら」

 現在十歳の少年が、更に幼かった頃の話だ。病気を境に、皆が祖父に向ける態度が変化した。少年の祖父は、食料を口にするのをやめた。
 そして

「あ、あんな死に方をしなければいけないのかと、ぼぼぼ僕、僕は」
「おや、この本には鰐《ワニ》の絵が書いてある。これは、もう見たか」
 男の言葉に、少年ははっとして立ち上がった。
「この本は、どうしてこんなぼろぼろに」
「うん、なにかに、齧られたんだろう。鼠かな。この辺じゃ、とんと見かけないが」
「鼠なんて、本当に居るんですか、この塔内に」
 男から本を受け取って、ところどころ食い散らかされた頁を慎重にめくっていた少年の目が大きく見開かれた。
「夜眠れないから、仕方なくここにきて、適当な本を選んで、月明かりで眺めていたんだ。上から順番にな。お前が持っている本の印と同じパターンを持つと思われる本があるかと思えば、それとはまったく種類が異なる印で書かれた本もあり、様々だ。パターンから何かを知ろうとするなら、その例は多い方がいいんじゃないかね」
「そうだ、僕は、最初のパターンを見つけられたのが嬉しくて、一冊の本にばかり固執していた。でも」

 じゃあ、頑張れよ、と男は再びねぐらに戻って横になった。

「手伝ってくれるんじゃないんですか?」
「俺が? 無茶を言うな。俺は怠け癖がうつるといけないから、子供達の側に近寄るなと皆から言われるような男なんだよ」
「でも、あなたは怒っていたじゃないですか」
 自分に背を向けて寝ている男に少年は言う。
「僕は、思い出したんだ。お爺ちゃんが食事をとらなくなった時、他の人達は皆、仕方がないと言いながら、安堵していた。僕の父さんもそうだった。でもあなたは、あなただけは」

 何を言われてもへらへら薄ら笑いを浮かべるだけの、馬鹿者、木偶《でく》と呼ばれる男だけは、珍しく腹を立てた顔をして、そして――

「お爺ちゃんに、自分の食事を与えようとしていた」
「偏屈なジジイを余計に怒らせただけだったよ。無駄なことしたよね。まだ俺を一発殴る気力は残っていたんだ、爺さん」
「僕は、きっとあの時、あなたに感化されてしまったんだ」
「ああ?」

 男はむくりと起き上がった。

「さすがにそれは、いいがかりってもんじゃないのか」
「あなたが、あんな風にみんなと違うことをしなければ、僕は何の疑いも持たず、みんなと同じ大工に成長していたはずだった」
「選ばれし子に選ばれたんだから、みんなと同じじゃないだろうよ」
「それもきっと、あなたのせいだ」
「せめて俺のお陰って言えないかな。いや、そもそも俺は無関係だ」
「いいや、あなたのせいだ。だから、責任をとってください」
「無茶苦茶だな。粗野な大工連中だってそんな無茶は」
「本を読むのを手伝ってください」
「今さら何の手伝いが要るって言うんだ。その鰐の本があれば、一人で」

 男はしまったという顔で口をつぐんだが、少年は勝ち誇った顔で、ぼろぼろになった本を男に向かって突き付けた。

「ほら、やっぱりだ。あなたは、この本を、んだ」
「読んじゃいない。それは挿絵があるから、『ユンとユラ』だってわかっただけだ」
「でも、もう読めるはずだ。僕が最初の本を読むために、どうしても必要だった『クルー』がこの本なんだって、あなたは知ってた」
「知らないよ、そんなことは。だいたい俺は本が読みたいなんて、思ってないから。あ」
「あ?」

 男はしばらく少年の顔を見つめていたが、口元に薄ら笑いを浮かべ、立ち上がった。
「面白いものを見せてやろう。ついてこい」
 大股でさっさと歩きだした男のあとを、小さい少年は、小走りで追いかけなければならなかった。
 本はちゃんと元のところに戻しておけ、並んで歩こうとするな、少し離れてついてこい、と男は前を向いたまま言った。

「俺とお前は、同じ職人区に住んでいるだけの他人なんだからな」
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