バベル 本の舟・塔の亡霊

春泥

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第一章

03 塔の怪人

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「ほらちょうど、お前が立っている辺りにそいつはいた」
 贋作師は、引きつった顔で彼の話に聞き入っていたワタルを指さして言った。
「そ、それで、それからどうしたんです」上ずった声で尋ねたワタルに、贋作師は言う。
「道具を片付けて、寝た」
「えっ」
「インクをちゃんと落としておかないと、次の日に筆が――」
「いえ、そういうことではなくて。それは、いつのことですか」
「さあて、いつだったか。ひと月ぐらい前かな」
「あとを追いかけなかったんですか? その後、そのことを誰かに話さなかった? たとえば、猫の世話係とかに?」
「うん? なぜ」

 なぜかと考えてみて、答えられないことにワタルは思い当たった。世話係は、猫や図書館の本に危害を加える者以外には興味を持たないだろう。
「他にも数名、その幽霊を目撃した司書から事情を聞きました。それが、この数週間の間のことだから、どうやら第一発見者はあなたのようです」
 ワタルにそう言われても、贋作師は特に興味がなさそうだった。写字した作品の出来を、書見台の原本と見比べている。

「別に被害は出てないんだろう。だったらまあ、ほかっておけ。超自然的現象担当の司書に話をしてやったら喜ぶだろうな」
「被害は、今のところは何も。しかし、これだけの著作が眠っているのですから、こちらが気付いてないだけで、もしかしたら貴重な本を――」
「本を、どうするんだ。持ち出すのか? どこへ」

 ワタルはまたもや言葉に窮した。彼らの暮らす塔は広大だが、周囲を水に囲まれている。仮に図書館内から何か持ち出したとして、それを一体どうできるというのか。コミューンの一般の民は読み書きができないし、塔の中心に図書館が隠されていることも知らないから、当然侵入して本を盗むことなどあり得ない。

 本の主な用途は、舟だと一般の民は思っている。本は漏れなく水に浮く、それは子供でも知っていることだが、その本がまたパンになりミルクになっていることは、一般には知られていない。実際、塔の中の生産は、本を頼りに賄われている。だが、どの本がどのような役割を果たすのか、それを知らなければ、たとえ貴重な本を手に入れて盗んだとしても意味のないことだ。

 司書ならば主に図書館内で生活している。わざわざ本を盗んで手に入れる必要がない。貴重で、恐らく危険でもある情報を含む禁書が集められた図書目録の部屋にはワタルが内部にいない時にはドアが厳重に施錠され、小さな鼠ですら侵入できないようになっている。その部屋から持ち出された物がないことは、ワタル自身が確認済みだ。
 贋作師の言う通り、蔵書の窃盗などというのは、全く意味を成さない行為のように思われた。そして、この塔に、本より貴重なものはないはずだった。

 では、これは純然たる怪異なのだろうか。
 贋作師以外の目撃証言も、どれも似たようなものだった。目撃されるのは夜中、何者かが図書館内を徘徊しているのだが、行く先は不明。そして、その何者かには、首(頭部)がない。司書達は、不審な者の姿に驚くものの、相手には本にもヒトにも危害を加える意図がないと見るや、たちまち興味を失ってしまうようだった。

「追いかけてどうする」
 彼らは、口をそろえてワタルに訊き返した。

 猫もその姿を目撃し、よくない感情を抱いているようで、猫の世話係はそれを少し気にしている。だが、あの猫はたいてい誰でも気に食わないのだ。世話係とゲンヤ、それから子供達を除いて体に指一本触れることさえ許さないのだという(エルは様々な努力を試みてはいるが、未だに撫でようと伸ばした手を食いちぎられそうになるらしい)。
 ワタルは意識的に夜間に図書館内を見回ってみたが、彼の前にはその幽霊は姿を現さなかった。
 しかし、それで終わりではなかった。

 しばらくして、職人居住区でも不審者の姿が目撃されたという報告がワタルの元に届くようになった。図書館外のことであるから、これは使徒全員に報告が入った。

「目撃されるのは夜間、声をかけると逃げ出し、忽然と姿を消す、その不審人物がいた場所には、床に水たまりができているそうだ」

 一般の民は日没に合わせて床に就く習慣なので、最初の目撃者は夜間に塔内を見回っていた警備団員達だった。その後、眠れぬ夜に散歩をしていた煉瓦職人に目撃されるなどして、一般の民にもその不審人物の噂が広がった。
「子供達が夜中に居住区を抜け出して『怪人』探しをするので、大人達も困り果てている。我々も夜間の警備を強化しているが、今のところ成果はない」
 現在は警備団の副団長に就任してシアム団長の片腕を務めるケイナンから最初に報告を受けた使徒はキリヤだった。

「それは危険だな。夜間に子供が居住区を抜け出すなんて、俺が子供の頃にはまずなかったことだ」

 コミューンの政を司る使徒の一員であるとはいえ若干十八歳のキリヤの言葉に、キリヤより少し年上のケイナンは微笑を浮かべたが何も言わなかった。
 広大な塔の中では、毎年迷子になる子供が数名出る。最近ではそのような事態を防ぐために、老朽化あるいは未使用区間にバリケードを築いて侵入を禁ずるなどしているが、それでも迷子はなくならないし、迷子が出るということは、発見が遅れ運悪く命を落とす可能性もあるということだ。
 幸いゲンヤが長老に就任してからは、死体で発見される子や死体すら発見されない行方不明者は出ていないが、まだたった三年しか経過していないのだから、評価を下すのは性急すぎるといえよう。

「とりあえずは、煉瓦職人区域には重点的に見張りを立てているが――」
「なぜ」
 とキリヤはケイナンの言葉を遮って尋ねる。
「煉瓦職人区域に見張りを? 怪人が出没した場所はその近辺に集中しているわけではないだろう?」
「ああ。目撃されたスポットは、ばらばらだ。だが、夜中に居住区を抜け出すのは煉瓦職人の子が抜群に多いんだ。親がこっぴどく叱っても聞かないらしいから、警備団で目を光らせている。まったく、困った子たちだよ」
「職人の最初の目撃者は煉瓦職人だったと言ったな。なぜそういう巡りあわせになるのかな。ワタルの悪影響か?」
「君は相変わらず口が減らないな」

 ワタルは煉瓦職人の息子だった。肩をすくめるキリヤに、ケイナンは苦笑しながら言った。

「まさかワタル殿のせいではないだろう。だが、煉瓦職人というのは、変わり者を生み出しやすいのかもな」
 
 キリヤと、それから彼に声をかけられたリーヤも加わって警備団が夜間の見回りを強化したにもかかわらず、怪人は姿を現さなかったし、大人達によほどひどく叱られたのか、夜中にこっそり抜け出して夜歩きする子供一人さえ捕まらなかった。人材に限りがあるためいつまでも特別警戒態勢を続けているわけにも行かず、警備団は一旦通常の見回り配置に戻した。

 それを見計らったかのように、不審人物が再び姿を現した。今回の目撃者はエルだった。
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