41 / 70
第四章 正直者の帰還
第三話 襲われた調査隊
しおりを挟む
なにやら騒がしいが、遠くの方から聞こえるそれは現実味を伴わない。それでも、よくないことが起きているのは確かだ。
「トロールだ!」
悲鳴にも似た叫びは、これまでよりずっと近くで聞こえた。
はっとしたキは目を開けた。焚火はまだ燃えていたが、そこに教授の姿はなかった。いや、民俗学の老教授はいる。炎から少し離れたところで片肘を突いて上半身を起こしているが、美しい女教授の姿はなかった。
「トロールだ、みんな起きろ。ぎゃっ」
逼迫した声が、唐突に途切れる。何かあったのか、知りたくない。動悸が激しくなり、焦燥感に汗が噴き出すが、体が動かなかった。これは悪夢なのだろうか、とキは重たい頭で考える。
「何をしているんだ、君。早く逃げるんだ。寝ぼけている暇はないぞ」
老教授が屈みこんで、キの体を揺さぶっているのが、見える。見えているのだから、目は開いているはずなのに、いかんせん体が重い。動かない。キは目を大きく見開いたまま、横になったままだ。
「しっかりしないか!」老教授の皺だらけの手が彼の頬を数回打った。「君は、ドラゴンが見たいのだろう。こんなところでトロールの餌食になるつもりか」
ドラゴン!
キは地面に貼りついてしまったかに思える体を両腕で引き剥がした。毛布が滑り落ちる。老教授はそれをキの肩に巻き付けると、彼の腕を引っ張って立たせようとした。
「いそげ。わっ」
べきべきと木が折れる音がして、岩のように醜いトロールが姿を現した。隊員たちの悲鳴が響き渡り、逃げていく姿を視界の端に捕らえながら、キはトロールから目を離すことができなかった。
成人男性の四倍はあろうかという大きさで、勿論横幅もある。隊員の一人――まだ学生と思しき若い男だ――を片手で楽々と掴んで持ち上げると、悲鳴を上げて泣き叫ぶ男の頭を齧り取った。まるで木の実のように、男の頭部は二度三度と咀嚼され、飲み下された。頭部を失った胴体からは勢いよく血が噴き出していた。
老教授の皺だらけの手で口をふさがれて、初めてキは自分が叫んでいたことに気付いた。トロールの、顔の大きさの割には小さい目がぎょろりと彼の方を見た。手に持っている男の体は、胴体が半分なくなっており、トロールの顔、それに口から胸にかけてべっとりと赤黒い液体に濡れていた。
「逃げるぞ」
老教授の声も、彼の口を塞いでいる手も震えていた。
トロールが彼等に向かって一歩踏み出し、弱々しい炎を上げていた焚火が蹴散らされ、火花を飛ばしてやがて消えた。
周囲はほぼ闇に包まれた。老教授の細い体からは想像できない力で引きずられて、キは木々の間を進んだ。
「どうした、歩けないのか?」教授がキの耳元で囁いた。意識は完全に戻っているのに、体は動かすことができず、力を振り絞っても微かに首を動かし頷くのがやっとだった。老教授に引きずられて、キは大木の影に身を潜めていた。キの体を支える老人の腕がプルプル振るえていた。キは、ほとんど動かない口から、どうにか囁いた。
「ぼくを、置いて、行って」
老教授は小さく溜息をつくと、キの体を地面に座らせ大木の幹にもたれさせたが、彼の側から動こうとしなかった。少し離れた闇から、木の枝が折れる音や隊員たちの悲鳴が聞こえてきた。
「おじいさん、逃げて」
キがまた動かない唇の間から言葉を発したが、老人は人差し指を彼の口に当てて黙らせた。
「私は年寄りだ。子供を見捨てて自分だけ生き延びても意味がない」
すぐそばで、誰かの足の下で枝の折れる音がした。老教授はびくりと体を震わせ振り向いた。キは目だけ動かしてそちらを見た。
闇に溶け込むようにして、マサカー教授が立っていた。黒髪が被さっていない白い顔だけは、闇の中でもよく見えた。相変わらず黒い色眼鏡をかけていたが。
「まだ生きていたの」
マサカー教授は低い声で囁いた。リュウデン教授の表情が険しくなった。
「あなたは、この子に何をした」
にたり、と白い顔がゆがんだ。
「気付いていたの、老いぼれが」
「トロールもあなたの仕業か」
「そうよ。昼間、トロールの洞窟の近くを通ったの。人間の臭いを追って来られるように」
「なぜそんなことを」
「その子供にはここで死んでもらわないといけないからよ」
動かないキの顔の筋肉が恐怖で歪んだ。
「や、めて。ぼく、誰にも、しゃべらない」
「そんな約束、信じられるものですか」
マサカー教授の背後でばきばきと高い位置の枝が折れる音がした。
「老いぼれも足手まといだと思っていたから、ちょうどいい。あなたもここで死ぬのよリュウデン教授」
そう言うと、マサカー教授の姿はかき消えた。それと入れ替わるように、恐ろしい音を立てて、巨大なトロールが姿を現した。
「トロールだ!」
悲鳴にも似た叫びは、これまでよりずっと近くで聞こえた。
はっとしたキは目を開けた。焚火はまだ燃えていたが、そこに教授の姿はなかった。いや、民俗学の老教授はいる。炎から少し離れたところで片肘を突いて上半身を起こしているが、美しい女教授の姿はなかった。
「トロールだ、みんな起きろ。ぎゃっ」
逼迫した声が、唐突に途切れる。何かあったのか、知りたくない。動悸が激しくなり、焦燥感に汗が噴き出すが、体が動かなかった。これは悪夢なのだろうか、とキは重たい頭で考える。
「何をしているんだ、君。早く逃げるんだ。寝ぼけている暇はないぞ」
老教授が屈みこんで、キの体を揺さぶっているのが、見える。見えているのだから、目は開いているはずなのに、いかんせん体が重い。動かない。キは目を大きく見開いたまま、横になったままだ。
「しっかりしないか!」老教授の皺だらけの手が彼の頬を数回打った。「君は、ドラゴンが見たいのだろう。こんなところでトロールの餌食になるつもりか」
ドラゴン!
キは地面に貼りついてしまったかに思える体を両腕で引き剥がした。毛布が滑り落ちる。老教授はそれをキの肩に巻き付けると、彼の腕を引っ張って立たせようとした。
「いそげ。わっ」
べきべきと木が折れる音がして、岩のように醜いトロールが姿を現した。隊員たちの悲鳴が響き渡り、逃げていく姿を視界の端に捕らえながら、キはトロールから目を離すことができなかった。
成人男性の四倍はあろうかという大きさで、勿論横幅もある。隊員の一人――まだ学生と思しき若い男だ――を片手で楽々と掴んで持ち上げると、悲鳴を上げて泣き叫ぶ男の頭を齧り取った。まるで木の実のように、男の頭部は二度三度と咀嚼され、飲み下された。頭部を失った胴体からは勢いよく血が噴き出していた。
老教授の皺だらけの手で口をふさがれて、初めてキは自分が叫んでいたことに気付いた。トロールの、顔の大きさの割には小さい目がぎょろりと彼の方を見た。手に持っている男の体は、胴体が半分なくなっており、トロールの顔、それに口から胸にかけてべっとりと赤黒い液体に濡れていた。
「逃げるぞ」
老教授の声も、彼の口を塞いでいる手も震えていた。
トロールが彼等に向かって一歩踏み出し、弱々しい炎を上げていた焚火が蹴散らされ、火花を飛ばしてやがて消えた。
周囲はほぼ闇に包まれた。老教授の細い体からは想像できない力で引きずられて、キは木々の間を進んだ。
「どうした、歩けないのか?」教授がキの耳元で囁いた。意識は完全に戻っているのに、体は動かすことができず、力を振り絞っても微かに首を動かし頷くのがやっとだった。老教授に引きずられて、キは大木の影に身を潜めていた。キの体を支える老人の腕がプルプル振るえていた。キは、ほとんど動かない口から、どうにか囁いた。
「ぼくを、置いて、行って」
老教授は小さく溜息をつくと、キの体を地面に座らせ大木の幹にもたれさせたが、彼の側から動こうとしなかった。少し離れた闇から、木の枝が折れる音や隊員たちの悲鳴が聞こえてきた。
「おじいさん、逃げて」
キがまた動かない唇の間から言葉を発したが、老人は人差し指を彼の口に当てて黙らせた。
「私は年寄りだ。子供を見捨てて自分だけ生き延びても意味がない」
すぐそばで、誰かの足の下で枝の折れる音がした。老教授はびくりと体を震わせ振り向いた。キは目だけ動かしてそちらを見た。
闇に溶け込むようにして、マサカー教授が立っていた。黒髪が被さっていない白い顔だけは、闇の中でもよく見えた。相変わらず黒い色眼鏡をかけていたが。
「まだ生きていたの」
マサカー教授は低い声で囁いた。リュウデン教授の表情が険しくなった。
「あなたは、この子に何をした」
にたり、と白い顔がゆがんだ。
「気付いていたの、老いぼれが」
「トロールもあなたの仕業か」
「そうよ。昼間、トロールの洞窟の近くを通ったの。人間の臭いを追って来られるように」
「なぜそんなことを」
「その子供にはここで死んでもらわないといけないからよ」
動かないキの顔の筋肉が恐怖で歪んだ。
「や、めて。ぼく、誰にも、しゃべらない」
「そんな約束、信じられるものですか」
マサカー教授の背後でばきばきと高い位置の枝が折れる音がした。
「老いぼれも足手まといだと思っていたから、ちょうどいい。あなたもここで死ぬのよリュウデン教授」
そう言うと、マサカー教授の姿はかき消えた。それと入れ替わるように、恐ろしい音を立てて、巨大なトロールが姿を現した。
0
あなたにおすすめの小説
彼の巨大な体に覆われ、満たされ、貪られた——一晩中
桜井ベアトリクス
恋愛
妹を救出するため、一ヶ月かけて死の山脈を越え、影の沼地を泳ぎ、マンティコアとポーカー勝負までした私、ローズ。
やっと辿り着いた先で見たのは——フェイ王の膝の上で甘える妹の姿。
「助けなんていらないわよ?」
は?
しかも運命の光が私と巨漢戦士マキシマスの間で光って、「お前は俺のものだ」宣言。
「片手だけなら……」そう妥協したのに、ワイン一杯で理性が飛んだ。
彼の心臓の音を聞いた瞬間、私から飛びついて、その夜、彼のベッドで戦士のものになった。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
短編【シークレットベビー】契約結婚の初夜の後でいきなり離縁されたのでお腹の子はひとりで立派に育てます 〜銀の仮面の侯爵と秘密の愛し子〜
美咲アリス
恋愛
レティシアは義母と妹からのいじめから逃げるために契約結婚をする。結婚相手は醜い傷跡を銀の仮面で隠した侯爵のクラウスだ。「どんなに恐ろしいお方かしら⋯⋯」震えながら初夜をむかえるがクラウスは想像以上に甘い初体験を与えてくれた。「私たち、うまくやっていけるかもしれないわ」小さな希望を持つレティシア。だけどなぜかいきなり離縁をされてしまって⋯⋯?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる