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日記

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 七月三十日(金)

 儀式の手筈が整ったので、後のことも考え、しばらくこの土地を離れることにした。

 その挨拶のために、源一郎氏の屋敷に伺ったのだが、彼は玄関先で自害していた。白装束と短刀。死に姿まで男らしい人だった。

 傍らに遺言書と思われるものがあったので読ませてもらったが、やはり取り憑かれたようだった。

 もしかすると、自ら憑かれたのかもしれない。彼もまた、良さんの死後から、もう終わりにしたいと望んでいたような節があった。

 座敷牢を確認したが、もぬけの殻だった。格子戸が開けられていたので、おそらく源一郎氏が逃がしたのだと思われる。

 欺影虫に憑かれ、もはや蜘蛛人へと変わってしまった孫娘を、それでも見捨てることなく愛し抜いた彼を非難する気は起きなかった。

 息子夫婦の遺体を見つけたときも、良さんの遺体を目にしたときも、源一郎氏は静謐な樹海の奥にたった一人で佇んでいるような寂しさを滲ませていた。それだけストルゲーの深い人だったのだと理解している。

 思えば、この事件も彼のストルゲーが招いたものだった。蜘蛛人になった好恵さんを救おうとさえしなければ、誰一人として命を落とすことはなかった。

 連続殺人に加えての一家心中。源一郎氏は、死んで償う以外に方法が見当たらなかったのだろう。

 いや、もしかすると最初から一人罪を被って死ぬ気だったのかもしれない。今となっては知りようもないが、そんな気がする。

 好恵さんは、もう御影山の奥深くにいるだろう。あの山を漂う瘴気に引き寄せられて。だけど、その瘴気も、年々薄れていく。それに伴い力も落ちる。彼女もやがて山の土へと還るだろう。

 源一郎氏から出た鞍替え狙いの幼虫も始末したし、新たな欺影虫が出てくることもない。蜘蛛人が一人いたところで、どうということもないはずだ。

 希望的観測に過ぎないが、たとえ何かが起きたとしても、僕はもう手を出さない。

 そういう約束をしたのだから。それでいい。

 逢魔時より、手配した洞窟にて儀式を行った。成功したが、良さんは戻らなかった。彼は此の世に戻ることを拒否した。魂の奔流を漂い、転生を待つことを望んだ。

 ただ、彼の別人格であるマゾヒストの女はそれを許さなかった。彼女はこちらに戻ることを強く望んでいた。魂の矛盾が事態をややこしくした。良さんの遺体は、こねあげられた粘土のようにまとまり、一つの乳白色の球体に変わった。

 しばらく待つと、そののっぺりとした丸い肉が蠢き、容姿端麗な女体に変化した。

 顔は美男だった良さんの面影があるが、鋭さと冷たさが混ざっている。立端と手足の長さは良さんを思わせ、亜麻色の長い髪と肌の白さは、おそらくマゾヒストの女譲り。感情は希薄で、性格は良さんともマゾヒストの女とも違うように思われた。

 名を訊ねると、ムジナと答えた。彼女によれば、泰山府君との交渉の際に、戻りたくない良さんと、戻りたいマゾヒストの女との間を取り持つ人格として新たに生み出されたのだという。

 話し合いの結果、二つの人格は彼女に統合されることになった。ムジナという名は、どちらともつかない曖昧な存在というところに由来しているということだった。

 僕は笑ってしまった。まるで日本書紀にある黄泉比平坂の話だ。ムジナは菊理媛命の役割を果たした訳だ。

 良さんは本当に興味深い人だ。どれだけ僕を楽しませてくれるのか。黄泉帰るまでの間に新たな人格を生んで戻るなど破天荒にもほどがある。

 僕もそんな彼に負けてはいられないと思った。その場ですぐにプロポーズした。

 ムジナはそれをあっさりと受けてくれた。

 どうやら彼女は、生まれた時点から僕を主人と認めてくれているようだった。僕に黄泉帰らせてもらったのだから、僕にすべてを捧げるのだと彼女は答えた。

 主従関係のようにも思えるが、上手くやっていけそうな気がしている。

 まだ父に報告していないが、父は僕の結婚を待ち望んでいたから喜んでムジナを受け入れてくれるだろう。

 ついでに、不老不死になると決めたことを書いておく。遂に、という感じだ。躊躇いはあるが、共に歩む伴侶を得た以上は、腹を決めないといけないだろう。

 本家に、若狭湾で獲れた人魚が飼われている。名前は魅音。僕という存在が芽生えてから一緒にいるから、もう付き合いは十五年になる。

 どうにも愛着が抜け切らないから、父には他の人魚を食べてもらっていたが、婚儀の際にその肉を口にすることにした。ムジナにも与える。一応、確認したが、喜んで食べると言ってくれた。嬉しい限りだ。

 まだまだ書き足りないが、もう頁がないので終わりにする。

 まったく、面白い夏だった。
 
 
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