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愛美~後編~

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 脱衣室を出ると、母が蓋のされていないペットボトルを持って立っていた。
 母は怒ったような、困ったような顔をして言った。

「愛美、何よこれ?」

「紅茶のペットボトル」

「それは見れば分かるわよぉ。そういうことじゃなくて、蓋だけ捨てて、流し台に置いてあったけど、どうするつもりだったのぉ? リサイクル?」

「さぁ?」

 私は肩を竦める。

「私がやったんじゃないから分かんないよ」

「愛美」父が難しい顔で言う。

「お前、何言ってんだ? さっき飲んで流し台に置いたろ」

「え、そうだっけ?」

 覚えがない。

「そうだっけって、お前、どうした? 大丈夫か?」

「大丈夫かって、何が?」

「変だぞ、お前。顔色も悪くないか?」

「え、そうかな?」

 私は父に向かって歩く。

「愛美」

 母に呼び掛けられて振り返る。母は眉根を寄せて言う。

「脱いだ服の中になかったけど、スマホは?」

 私はズボンのポケットを探る。ない。着替えたときに落ちたんだ。
 そう思って、席を立って脱衣室に向かう。扉を開けるとトイレだった。

「間違えちゃった」

 私は照れ笑いしながら頭を掻く。

「おいおい」

 父が身を乗り出して言う。

「何度目だ、本当に大丈夫か?」

「なーんか、覚えられないんだよねー」

 独り言のような返事をして、隣の扉を開けて脱衣室の中に入る。

 かごを見る。何もない。洗濯機も覗いたけど何もない。

 私は脱衣室から出て、母に、
「お母さん、私の服ってどこ?」と訊いた。

「捨てたわよぉ。血なんて取れないものぉ」

「えー、スマホ入れっぱなしだったんだけど」

「だからぁ、なかったわよぉ。ちゃんと見たって言ったでしょう?」

「じゃあ、どこにいったの?」

「スマホに足はないんだから」父が言う。「勝手にどこかに行ったりしないよ」

 私が振り向くと、父は胸ポケットから私のスマホを取り出して見せた。

「え?」私は驚いて言う。「何でお父さんが持ってんの?」

「お前が渡したんだよ」

 父が頭を掻く。

「学に電話したときだ。お父さんも、あのときは頭に血が上ってたから、ついうっかり受け取って、いつも自分がスマホを入れてる胸ポケットに入れちまった。さっき気づいたんだ」

 私は父の側に行き、スマホを受け取って画面を確認する。

 よかった。パネルに傷はない。

 ナンバーロックを解除しようとして、手が止まる。

 番号、何だったっけ? まぁ、いいか。

 私はズボンのポケットにスマホをしまって、父の隣の席に着く。

「もういいのか?」

 父が怪訝そうに言う。

「全然見てないじゃないか」

「え、何かおかしい?」

「おかしいも何も、愛美、お前、本当に大丈夫か? 無理してるんじゃないのか?」

「んー?」

 私は上を向いて首を傾げる。

「どうだろ?」

「お前が見たのって、あの変な男だったんだろ? 本当に何もされてないんだよな?」

「うん」私は頷いて言う。

「ただ見つめられて、にっこり笑われただけ」

「蛙がどうとか言ってなかったか? それが気持ち悪かったんじゃないのか?」

「全然」私は苦笑する。

「口から出た脚がぴょんぴょん可愛く跳ねてただけだし」

「可愛く?」

「そうそう」

 私は思わず噴き出す。

「男の人が変な顔だったのもあるんだけど、ブチッてちぎれた蛙の脚が、ぴょんって、地面の上で跳ねたの。それをさ、男の人が慌てて拾って食べてさ。もう、すっごい可笑しくて。お父さんも、あれ見たら絶対笑うよ?」

 私は声を上げて笑った。

「愛美、お前、それ見て泣いてたんだぞ」

 父の声が震えていたので、ちらりと視線を向ける。怯えたような表情をしていた。

 母も見てみる。母も父と同じような顔をしていた。

「やめてよ、何その顔」

 傑作。可笑しい。お腹痛い。息が辛い。笑い声が出ない。それくらい可笑しい。

 父が愕然とした顔をして、ゆっくりと私の方を見る。

 ゆっくりと言うより、不自然に遅い。

 声が遠くなって、何を言っているのか分からない。

 父の顔が強張り、目が大きくなる。歪んで伸びる。変な顔だ。

 父が私の顔を覗くように見る。肩を掴んで揺らす。

 視界に母が入ってくる。母の顔も違う人みたいになっている。

 あれは本当に母なのだろうか。怪しい。分からない。ただ面白い。

 もうやめて。面白過ぎる。呼吸できない。上手く吐けない。

 吸ってばかりいる。頭がボーっとする。

 視界が白く霞んでいく。そして、地面に吸い込まれていくような……。
 
 
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