名前のない黒髪の聖女

ROKI

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10・覚悟あり

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 夜明け前の凍てつく冷気が、懲罰房へ忍び込んできた。

 赤児の柔らかな寝息だけが響く暗闇の中で、少女は『現実』へと引き戻された。

 泣き腫らした目が捉えたのは、石床に散らばって鈍く光る、金貨だった。視界に入れた瞬間、背筋に冷たいものが走る。

(……どうしよう、これを)

 革袋に戻そうとして、その重みに手が止まる。 この金貨を隠し通せる場所など、どこにもない。共に過ごしてきた同僚、情けをかけたふりをして金貨を寄越したあの衛兵、そして、その背後にいるであろう権力者たち。

 少女は疑り深い性格ではなかった。ただ、この地で生きるための、ごく常識的な警戒心を身につけていただけだ。  

 善意は一晩で腐る。ましてや、それが金貨の形をしていれば、友情も忠義も一瞬で裏切りへと姿を変えるだろう。昨日までパンを分け合った仲間が、今夜には自分の喉笛を掻き切って金貨を奪う。そんな光景が、あまりに容易に想像できた。さらに言えば、あの衛兵の心変わりが恐ろしい。 『やはり、あの女には分不相応だ』と、朝日と共に、いや、まさに今、奪いに来るのではないか。

 そう考えると、この金貨の輝きは、厄災をもたらす火種にしか見えなかった。

 何より少女を追い詰めたのは、己の無知だった。 この金貨一枚で、どれほどの物が買えるのか。パンが幾つ買えるのか、使い道も、その価値の重さも、彼女にはさっぱり見当がつかなかった。せいぜい青銅貨を握りしめて、屋台で買食いをした経験しかない少女にとって、理解を超えた価値は、ただの『重荷』でしかなかった。 

 いっそ、捨ててしまいたかった。この『光る石ころ』を溝にでも放り込めば、少なくとも命を狙われる恐怖からは解放されるだろう。

 だが、少女は金貨を握りしめた。 自分を救うためではない。腕の中で眠る、この『幼き命』のためだ。 たとえこれが厄災を招く呪物であっても、この子の未来を繋ぐ唯一の糧になるのなら、どこまでも抱えていくしかなかった。

 「――――っ」少女は吐き気を堪えるように、震える指先で金貨を一枚、また一枚と拾い集めた。チャリン、という乾いた音が、今度は自分を狙う刺客の足音のように聞こえてならない。少女は赤児を優しく抱きしめ、いつ開くともしれぬ鉄扉の音に、神経を尖らせた。

 突然、赤児がいつになく激しく身をよじった。小さな手が勢いよく伸びる。赤児の手が、少女の握りしめていた金貨に触れ、金貨をまるで忌まわしいものだと決めつけるように、無造作に弾き飛ばした。金貨は暗がりの隅で価値のない『ただの石ころ』のように転がった。

(大丈夫、心配しないで)

 少女は腕の中の温もりが、言葉を超えて、そう告げた気がした。強張っていた肩からふっと力が抜け、視界が晴れていく。根拠などどこにもない。けれど、この柔らかな重みを感じていると、呪物にすら見えた金貨が、取るに足らない『ただの石ころ』へと形を変えていった。

 金貨が床に転がる乾いた音とともに、恐れは消え、世界にはただ、穏やかで静かな夜が戻ってきた。

 少女は一つ、深く息を吐くと、驚くほど冷静に頭が回り始める。

(……そうね。とりあえず、拾わないと)

 今度は、音を立てないように指先で金貨をそっと集めた。  一枚ずつ、丁寧に。  これがパン何個分になるかは相変わらずわからない。けれど、赤児が『大丈夫』だと言うのなら、今はただ、これを失くさないように持っていようと思った。それ以上の複雑な計算は、今の彼女には必要なかった。

 チャリン、と小さな音が重なる。  その音はもう刺客の足音には聞こえない。

 少女は、集めた金貨を革袋に戻し、肌着の奥へ押し込み、赤児の頭を優しく撫でると、壁に背を預けて静かに座り直した。

 運命が変わったわけでも、奇跡が起きたわけでもない。  ただ、少女の心から怯えが消え、代わりに、この子と明日を迎えるための、淡々とした覚悟だけがそこに残っていた。
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