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11・金貨が紡ぐ、薄氷の平穏
しおりを挟む寒さがようやく、和らぎ始めた。
不思議なものだ。いや、至極当然なことだろう。あれほど限界だと、もう終わりだと絶望していたのに、忌まわしいとさえ思っていた金貨が、手元にあるというだけで、凍てついた心に僅かなゆとりが生まれていた。
金貨の価値を知らぬ世間知らずな少女とて、狭い領地でそれを使えば、瞬く間に不審の目が向けられることぐらいは理解している。
「……他領の行商人が来るまで」少女は、その言葉を呪文のように唱えながら、指先で金貨の縁をなぞる。刻印された見知らぬ王の横顔は、暗い部屋の中で冷ややかに彼女を見守っていた。
少女は飢えと寒さに耐え忍ぶ過酷な日々を、ただじっと息を潜めて過ごした。
そして、春がその兆しを見せた頃。
社交界の幕開けに沸く王都へと、領主夫妻と従者を乗せた馬車が遠ざかっていく。見送る使用人一同の中に、少女の姿もあった。ようやく手にした『仮初の自由』が、その背に、翼のように軽やかに、けれど危うく載っていた。
支配者たちの不在は、苛烈を極めた使役を一時だけ、影へと追いやった。少女の生活に、わずかではあるが、確かな平穏が訪れた。
野山に淡い緑が芽吹くと、少女は寸暇を惜しんで野草採集に精を出した。自分一人の空腹を紛らわすだけなら、それで事足りる。運が良ければ、罠にかかった小動物や、野鳥の端肉にありつけることもあった。
だが、あの赤児はどうか。野草を噛み砕いた汁などでは、あまりに心許ない。十分な滋養には程遠いのが現実だった。
さらに春先とはいえ、夜の冷気はなお凍てつき、湿った床が無垢な肌を容赦なく蝕んでいく。 少女の腕の中で、今にも指の間から零れ落ちそうな温もり。それを繋ぎ止めるためにも寝藁ではなく、まともな寝具と、衣装を手に入れなければならなかった。
少女は、自分の生存のためだけなら決して動かさなかったであろう、金貨を、ただ『幼き命』の安寧のためだけに投じた。屋敷に立ち寄った他領の行商人に頼み込み、金貨を物資へと換える。男は少女の無知と足元を見透かし、法外な暴利を貪った。だが、それは少女にとってむしろ救いだった。欲に駆られた行商人は、少女を『有力な商会主の行儀見習いか、子爵への献上品』であると勝手に値踏みし、この利権を独占するために、あえて取引を闇に葬ったからだ。男のどす黒い欲が『強奪』ではなく『継続的な搾取』に向いたのは、まさに薄氷を踏むような幸運であった。
それでも、金貨の力は絶大だった。 商人の不当な取り分を差し引いても、手元に残った品々は少女の細い腕には余るほどの重みとなった。懲罰房にそれらを隠匿し、折を見て村の市場で慎重に、目立たぬよう捌いていくと、驚くほどの量の干し肉や穀物、そして赤児を包み込む柔らかな毛布へと姿を変えた。少女はその圧倒的な豊かさに、震えるような安堵を覚え、凍てついていた頬をようやく緩めた。
かつては絶望の象徴だった、あの薄暗く凍える懲罰房。そこから冷え切った赤児を連れ出すことも、たった一枚の金貨を差し出すだけで叶った。
交渉の相手は、事情を知る最古参の衛兵だ。彼は金貨という実利もさることながら、実戦経験を積んだ者ゆえの迷信深さを抱えていた。ここで便宜を図っておけば、いつか戦場で『黒髪黒瞳の死神』と相まみえた際、何らかの情をかけてもらえるかもしれない――そんな埒もない理由を、男は真剣に信じているようだった。
死の淵で震えていた日々が嘘のように、二人の間には、穏やかで静謐な時間が流れ始めていた。
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