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魔女の図書館〜愛は時空を超えて〜
しおりを挟む出窓から差し込む陽光が、黒木愛里(くろき・えり)の横顔を、淡く、優しく、包みこんでいた。東の空がようやく白み始めたばかりの静かな朝だった。
早朝の愛里の店は、魔法がかけられたように温かく、焼き立ての美味しそうなパンの香りで満たされていた。どんなに忙しい朝でも、誰もが落ち着いた雰囲気のなかで小さな幸せを感じられる、そんな素敵な場所だった。
静寂を破って、扉を叩く音が響いた。
『やれ、やれ』心の中では面倒くさそうに呟いたが、愛里は軽やかな足取りで扉へと向かい、内鍵を外した。
「愛里、おはよー!」扉を勢いよく開けて飛び込んできたのは、小淵沢貴子(こぶちざわ・たかこ)。愛里の数少ない、いや唯一と言った方が正確な、幼馴染の親友だ。
「おはよう。あれ?今日は夜勤だったの?」愛里が尋ねると、貴子は頬をぷうっと膨らませ「急患が入ったから通し番」と、そっけなく答えた。
『あ、これは触れてはいけない話題だ』愛里はそそくさとカウンターに向かい、珈琲を淹れ始めた。
貴子は席に着くなり、テーブルに身を投げ出すようにして突っ伏すと「おなかすいたー!」と、駄々をこね始めた。
「分かってるってば。ていうか、貴子は、お腹すいた時にしか店に近寄らないよね」
「面目ない」と言って、貴子は急に居住まいを正した。
「まだ、カサレッチョ(全粒粉の田舎風パン)しか焼いてないけど、良いかな」
「はい、カサレッチョと珈琲だけで十二分でございますとも。何とぞ哀れな白衣の天使に、お恵みを与え給え」貴子は神に祈るかのような期待に満ち溢れた表情で、手を合わせた。
「よかろう」愛里は鷹揚にうなずくと、柔らかに微笑んだ。
☆☆☆☆☆☆☆彡
「ただの都市伝説でしょ?」と、問いかける愛里の声音には非難するような彩りはなく、興味津々といった様子だ。
「ホントだって」と、どこからその自信がでてくるのか分からないが、貴子は無い胸を張って答える。
「元図書委員を舐めないでよ。え~と、どこだっけかな? 確かアメリカの作家、ボルヘスの有名な短編小説「バベルの図書館」に登場する、『この世のすべての本がある図書館』でしょ」
「元文芸部を舐めるな!南米アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘス! それに概念としての図書館じゃなくて実在……するかもしれない『魔女の図書館』だからね。その響きだけでゾクゾクするよね」
「まだ治ってないの?厨二病。男が寄り付かないよ。折角の美貌も宝の持ち腐れ」
「不治の病ね」と、グッタリと肩を落とす貴子。
「『魔女の図書館』………どこか謎めいた、甘美で危険な香りがするよね。インクの匂いじゃなくて、薬草とか、カビ臭い古い革とか、そういう匂い」
「夜な夜な、魔女たちが集まって、普通の図書館には置けないような禁断の書物を読んでいるって話。 まあ、私もまだ半信半疑、いや、一割信九割疑だけどさ。でも、もし本当にあったら、覗いてみたくない?」
「どこにあるの?」愛里は思わずといった様子で身を乗り出す。
貴子は、にやりと意味深に笑って、少し声を潜めて「満月の夜、森の奥。枯れた沼、午前0時ちょうどに扉が開く。そういう類いの話………馬鹿げてるでしょ?」
「馬鹿げてるね」と、愛里は同意したけれど、心の中ではすでに好奇心が抑えきれなくなっていて、「でも、誰かが、はいれたってことなの?」
「はいれたっていうか、迷い込んだっていうか。話によるとね、『鏡の森』の奥だって、あそこは昔、本当に魔女裁判にかけられた女性が住んでいたとか、住んでいなかったとか。まあ、それも都市伝説の一部だけど」
貴子は持っていたスマホの画面を愛里に見せた。そこには、うっそうとした森の写真が映し出されていた。
「この森の奥、古い沼のほとりに、朽ちかけた『魔女の図書館』があるそうよ。その扉のドアノブが錆びきってて、満月の光を浴びると一瞬だけ紫に見える瞬間があるんだって。その時に扉を三回叩くと、図書館の入り口が開く……なんて、具体的な話まであるんだよ」
「ますます怪しい。その、いかにもありがちなディテールが、より作り話っぽくて胡散臭い」
「で、どうする? 今日が、その満月の日なんだよ」貴子はいたずらっぽい笑みを浮かべて、愛里を見た。その目は少々現実から逸脱しているようにも見えた。
愛里はホラー映画のテンプレ展開が頭をよぎって、怖気づく。でも、それ以上に、その『魔女の図書館』とやらがどんな本で満ちているのか、知りたくてたまらなくなった。
「元文芸部の性ね。……馬鹿らしいとは思うけど、行くだけ、行ってみる」と、伏し目がちに呟いた。
愛里と貴子は顔を見合わせて、小さく頷き合った。その瞬間から、彼女たちの他愛ないおしゃべりは、現実と幻想の境界線を曖昧にする、小さな、ほんの小さな冒険へと変わったのだった。
二人は同時に勢いよく立ち上がると、冷めきった珈琲を一気に飲み干した。その苦みが、これから始まる非日常への覚悟を決める合図のようだった。
☆☆☆☆☆☆☆彡
二人はすぐに準備を整え、『鏡の森』へと車を走らせた。街の喧騒から離れるにつれ、あたりはしんと静まり返り、車のヘッドライトだけが頼りだった。
「本当にこの道で合ってる?」と、愛里が不安になって尋ねた。
「地図アプリじゃ表示されない道ね。ちょっと心配」貴子は少し緊張した面持ちで答えた。
やがて車止めに突き当たった。二人は空き地に車を停め、懐中電灯を片手に森の中へと足を踏み入れた。昼間とは全く違う森の表情に、背筋が凍る。樹々はまるで生きているかのように枝を絡ませ、月明かりすら地上に届くのを拒んでいた。
「ーーーーっ!」しばらく歩くと、貴子が声にならない悲鳴を上げて地蹈鞴を踏んだ。
「貴子!」咄嗟に愛里が一歩踏み出し、手を伸ばすも、虚空を掴む。
「沼よ。いや、沼だっった場所ね」愛里が、懐中電灯で地面を照らして言った。愛里が言うように、確かに沼だった場所なのだろう。水が枯れ、落ち葉が腐葉土となって堆積していて柔らかく、足元が覚束なかった。
「ここだわ」貴子が息をのんだ。
沼の向こうに、その『魔女の図書館』は建っていた。予想していたよりもずっと、ずっと小さく、苔むした壁と、蔦が絡みついた窓が特徴的だった。まるで童話の中からそのまま抜け出してきたようだ。
「……ドアノブ、本当に紫に見えるかな」
二人は恐る恐る館の正面へ回り込んだ。錆びついた鉄製のドアノブは、月明かりの下で鈍い銀色にしか見えない。
「まだ午前0時まで少し時間があるね」二人は無言で時間を待ち続けた。風の音、虫の羽音、すべてが彼女たちの鼓動を早めた。
そして、午前0時ちょうど。
ふと、空気が変わった……ような気がした。ドアノブに月明かりが差し込んだ瞬間、信じられないことに、それは一瞬だけ、確かに紫色の光を放ったのだ。
「今!」貴子が叫んだ。
愛里は震える手で、扉を、一回、二回、三回と叩いた。ガチャン、という大きな音を立てて、扉は驚くほど簡単に内側へ開いた。中から漏れ出した光は細く、そして微かに甘い香辛料のような香りがした。
二人の唾を飲み込む音が、はっきりと聞こえた。しかし、ためらいはない『魔女の図書館』へと足を踏み入れた。
せまい空間のなか、年季の入った、大きな紫檀の受付台の他、これと言った什器備品もなく、暖炉が静かに燃え、心地よい温かさを保っていた。そこに人影はなく、静寂だけが支配していた。
突然、「いらたいまちぇ~」この場にそぐわない、舌足らずの幼い声が響いた。
受付台を挟んで、そこにいたのは、小さな女の子だった。
ふわふわとした金髪を無造作に結び、その大きな青い瞳は、突然現れた訪問者を見つめていた。そこに恐怖心などはなく、満面の笑みと、久々の訪問客を歓迎する気持ちだけがあった。
いろいろと尋ねたいことは山程あったが、二人が目をそば立たせる異様な光景が一つあった。幼女の左手に鉄枷が嵌められていたのだ。
それだけであれば、ちょっと幼女には、オシャマ過ぎるアクセサリーと見えなくもないが、問題はその先に繋がる鎖だった。
貴子が愛里の服の袖を引いた。愛里が振り向くと、貴子はそっと目を眇め、微かに首を横に振る。以心伝心、長い付き合いである。『どんな事情があるのか、この子から話すまで、決して聞いてはいけない』と、その反応が言っていた。
と、その時『パチン』と、暖炉に焚べられた薪が爆ぜ、思いの外大きな、乾いた音が響いた。さして広くもない部屋じゅうに拡散されて吸い込まれ、否応なく静けさを際立たせていった。
愛里は貴子から視線を逸らして、暖炉に目をやると、瞳に揺れる炎が映る。『扉を開けてしまった以上、もう後戻りはできない』汗ばみ、少し震える手を、固く握り締めて、幼女に向かって口を開こうとすると、
「シャララン♪」軽快な音が響いた。鎖が触れ合う金属音だった。
「おまたちちまちた」幼女が言った。
鎖に絡めて遊ばせていた指を引っぱると、何も無い虚空から鎖に繋がれた一冊の本が、忽然と現れた。
幼女は、そっと、その本を受付台に置いた。真鍮の留め金が施された革の表紙には、判読不能な文字が刻まれていた。所々擦り切れているが、その風格は失われていない。表紙の角を貫く鉄の鎖は、幼女の鉄枷から伸びる鎖とは違い、かなり細身ではあったが、ずしりとした冷たさを感じさせた。
「ヒッ!」貴子が愛里の腕を掴んで、顔を押し付けて、息を呑む。愛里は非現実な光景を目の当たりにして、ただ呆然と立ち尽くしていたが、瞬きもせずに見開いていた瞳の隅に、白い紙片が落ちていくのが見えた。
『あ、図書カード』愛里は習い性とでも言うべきか、反射的に伸ばした手が空を切り、紙片は床に落ちる。状況を冷静に判断すれば、迂闊に手を伸ばすのは、危険を顧みない軽率な行動だった。愛里は腰をかがめて、慎重に床に落ちた紙片を拾い上げ、無言で受付台に置いた。
「あ、ありがとごぢゃいまち。では、こちらにちょめいをちてくだちゃい」幼女は、その紙片と、赤い羽根ペンを、愛里に向けて差し出した。
『ちょめい? ああ、署名か』紙片は正に、図書カードその物であり、流麗な日本語の筆記体で日付と短い文章が記されていた。
『今夜は満月。新しい訪問者が現れる。其の者が、知識を尊重することを願う』日付は、ちょうど今夜の日付だった。
愛里は不穏な空気を感じて、署名せずに立ち尽くしていた。
「……その文章、気になりますか?」幼女が低く呟いた。その声は先ほどまでの舌足らずな調子とは別人のように冷たく響き、愛里の背筋に冷たいものが走る。
幼女は、いつの間にか、一冊の古びた、まるで時を閉じ込めたような分厚い本を手にしていた。
「まず初めにお断りしたいのですが、当館は『とある図書館』のような、ただ無意味な文字を羅列しただけの本を並べ、無限とも思える、いや、無限にある蔵書の中から、『一冊の価値ある本を見つけ出せ』など、ただ人生の時間を浪費させるだけの、理不尽な事を言い張る図書館ではありません。『この世のすべての本』の中には、貴女にとって価値ある本は数多とあるでしょう。また、価値ある本を探し出すことこそが、貴女の人生なのかもしれません。私どもが『この世のすべての本』を蔵書として所有していると謳っているのは、貴女が『今』一番必要としている本を貸し出しできるからです。期限は貴女が、その本を読み終わった日の、次の満月の夜までです。もし破損しても罰則はありませんが、紛失……は、しないでしょうね。では、署名を」
幼女の言葉に従い、愛里は赤い羽根ペンを手に取った。
貴子には、幼女……いや、正確には幼女ではない何者かが口にする言葉が、まるで魔法の呪文のように聞こえていた。貴子は「愛里が魔法で操られている!」と直感した。幼女に悟られないよう、愛里の腕の中で震えながらも、小さく首を振る。その動きは、はっきりと拒絶を示していた。
愛里は貴子の震えと視線から、その懸念を察した。『貴子は私が『では、署名を』という言霊にでも縛られていると思っているのかしら。でも、違うのよ貴子。これは私の意思よ!』
愛里はペンを握りしめた。
「では、またのごらいかんを、おまちちてましゅ」
幼女の口調は戻り、古びた本をしっかりと胸に抱いたまま、寂しそうで消え入りそうな微笑みを浮かべて言った。愛里と貴子には、その言葉は祝福のようにも、呪縛のようにも聞こえた。言葉が空間に溶けて消え去ると、二人は急に夢から覚めたように我に返り、互いを見つめ合った。
周囲を見回した。誰もいない。
暖炉の火だけが、虚しくパチパチと音を立てていた。
☆☆☆☆☆☆☆彡
月明かりが出窓から、長く、白い手を伸ばし、テーブルの上の古書を淡く照らしていた。
愛里の店には珈琲の香りが満ちて、奇妙な体験をしたばかりの二人を、かろうじて現実世界に繋ぎ止めている。
二人は黙りこくっていたが、互いの顔には、あり得ない出来事を共有した者同士にしか分からない、複雑な興奮と安堵が入り混じっていた。
貴子が強張った顎をほぐすように、ようやく口を開く。「あの『魔女の図書館』は、今も森の奥深くで、静かに次の訪問者を待ち続けているのよね?」
愛里は答えず、代わりにテーブルの上の古書に手を伸ばした。「待って!」貴子は血相を変え、愛里の手首を掴む。
「た、例えばよ? この本が実は恐ろしい予言書で、本を開いてしまえば、愛里の未来を縛り付けて、愛里の意志とは関係なく、非業の死が避けられない運命だとしたら?」
「悲観論者の極みね。運命なんかに、他人なんかに、ましてや本如きに自分の人生、決められて堪るもんですか。人生を決めるのは自分自身の意志と行動よ。何を考え、どう動いたか、それだけよ」
愛里の言葉には、確固たる決意と、運命さえも自らの手で切り開いていくという強い意志が込められていた。 愛里は、貴子の手を優しく振り払って、古書を手に取り、開く。貴子は固唾を飲んでその様子を見守る。古びた紙の匂いが、一層濃く二人の鼻腔をくすぐった。
一枚の、古びた羊皮紙が挟んであった。
羊皮紙の挟んであったページに書かれた表題を見て、愛里は目を見開いた。
「貴子!これって」愛里は勢い込んで、その表題を指し示した。
『RICETTA PANE INTEGRALE RUSTICO 』
「何をそんなに興奮しているの?」貴子が尋ねる。
「イタリア語」
「なんて書いてあるのよ?」貴子は焦れたように語気を強める。
「『全粒粉の田舎風パンのレシピ』って意味! カサレッチョの事よ」
「間違いない! 『愛里の書』だ! ねぇ、ねぇ、他には何が書いてある?」
貴子に急かされるままに、愛里は本をめくるも、記述があるのは最初の数ページのみで、後は全部白紙であった。
「この本は呪詛書でも予言書でもない。私にとっての何かの始まり。この先の物語を紡げということを示唆しているという認識で間違いないわ」愛里は古書を愛おしそうに撫でながら言った。
「ねぇ、その羊皮紙は?」と、貴子は尋ねる。興味はあるのだが、好奇心より恐怖心が勝ってしまっているのか、手にとって広げようとはしない。
愛里はそんな貴子の様子を横目に、ふっと、小さく苦笑いを浮かべながら、平然と地図を広げた。「地図ね。書いてある地名はイタリア語っぽいけど、覚えはないわ。古い地名なのかな?」
愛里は貴子の目を見て、はっきりと言った。「私は、この地図が導いてくれる場所へ行く!」
貴子は、愛里の強い意志に気圧され言葉を失ってしまったが、恐怖心から完全に解放されたわけではなかった。必死に否定する言葉を探す。「……で、でも。気になることがあるの。魔女って嘘はつかないけど本当の事は話さないって言うじゃない。『もし破損しても罰則はありませんが、紛失……は、しないでしょうね』って言ってたけど、紛失したら、もの凄い罰則があるのを誤魔化すためのミスリードな気がする」
「考えすぎよ」
「でも……」
「でも、なんて必要ないわ。貴子は、ここに残って。自分の仕事に集中して欲しい」愛里は貴子の言葉を遮るように、強い口調で言った。
「えっ?」貴子が驚いて目を見開く。
「ねぇ、貴子。ちょっと聞いて」愛里は打って変わって穏やかな口調で語りだす。
「私、今、ちょっと悩んでることがあるの。私の矜持は、『美味しいパンで皆に笑顔になってもらう』ってこと。でも何だか近頃、停滞してるって言うか行き詰まっている感があるって言うか……私は貴子が、私の前だけでは愚痴をこぼしたり、泣き言を言ったり本音を漏らしてくれて、それが少しでも貴子の気晴らしになると思うと嬉しかった。それと同時に、羨ましかったの。どんなに過酷な勤務でも、常に笑顔を絶やさず、活き活きと振る舞う姿を知っているもの。仕事に対しての矜持だよね。……貴子がいつもどれだけ頑張っているか、私は一番知ってるつもり。だから、これ以上、私のわがままに貴子を付き合わせたくないの。この旅は、きっと、私の『始まり』だから」
貴子は愛里の真剣な眼差しと、その言葉の重みに、反論の言葉を失う。それは貴子の忙しさを理解し、彼女の人生を尊重する、愛里なりの深い愛情表現だったからだ。しかし貴子もまた、親友の無謀な旅立ちを黙って見過ごせるはずがない。貴子の表情が恐怖から決意へと変わる。「私が勝手に心配して、勝手に付き添いたいと思ってるだけよ。それに、一人で行かせるなんて無理に決まってるでしょ」
「大丈夫。私には私自身の物語を紡ぐ力がある」
愛里は微笑み、丁寧に地図を戻して古書を胸に抱きしめた。
と、その時。月明かりが輝きを増し、愛里を照らしだす。貴子には、その愛里の姿が、我が子を慈しむ聖母のように、神々しい光を放っているように見えた。貴子は自覚もしていなかった、心の隅に潜んでいる澱みまで洗い流されていくような感覚に襲われ「もう、何も言えない」と、抗う術を投げ出した。
二人は店を後にし、月明かりの下を歩き出した。愛里の行く先は、運命に縛られた未来ではなく、自分の意志で切り開く新たな可能性に満ちた道だった。古書は静かに愛里の腕の中に収まり、その存在が彼女の冒険がまだ終わっていないことを雄弁に物語っていた。
☆☆☆☆彡
額に滲む汗を拭うと、見上げた空は、どこまでも高く青かった。
愛里は、ところどころ崩れ、古びて苔むした石段を登る。人の気配は途絶え、辺りには背の高い草が生い茂る休耕地が広がり、まるで時代に取り残されたように朽ちた水車小屋が寂しげに佇んでいた。風が運ぶのは、土埃と、遠い昔の残り香だけ。この抜けるような青空の下でさえ、村は静かに色褪せている。
愛里は石段を登り切ると、無造作に腰を下ろし、デイパックから古書を取り出した。羊皮紙の地図を丁寧に広げ、指で辿る。ある一点で指が止まった。「あの水車小屋のある川の上流ね」愛里は地図を畳んで古書に挟み、デイパックに仕舞い込んだ。
刹那、彼女は弾かれたように立ち上がり、駆け出した。すぐに石畳で舗装され、一直線に伸びる道を見つける。愛里は二度、三度と深呼吸をして高鳴る鼓動を静めると、一歩、また一歩と周囲を見渡しながら慎重に歩を進めた。
やがて広場の入口らしき場所を見つけ、そこに建立された一基の石碑に目を留める。タオルで石碑の表面の汚れを拭い取ると、苔の下から「PIAZZA LOCHIEL」(ロキエル広場)の文字がぼんやりと浮かび上がってきた。愛里の鼓動がさらに高鳴る。それは地図に書き込まれていた名称であり、この広場の真ん中にこそ、バツ印が記されていたのだった。
愛里は広場に足を踏み入れた。荒涼とした光景が広がる。灰燼と化した木造の残骸。煤けた石壁の無言の列。かつて人々の営みがあったであろう場所に、今はただ静寂だけが広がっていた。「何があったんだろう?」言葉にできないような悲惨な出来事があったことは容易に想像できるが、愛里は、その光景に胸を痛める。
その中央に、苔むした巨大な石窯が鎮座していた。
印があった場所だということも忘れ、愛里は石窯に魅入られた。吸い寄せられるように歩み寄り、「お掃除しなくちゃ!」と、タオルを取り出すと一心不乱に磨き始めたのである。そこに意図は、まったく介在しなかった。ただ、何かに取り憑かれたかのように手を動かす。タオルが汚れれば川で濯ぎ、擦り切れれば、僅かな持ち合わせの衣装、更には自身の着衣を裂いて作業を続けた。その姿は、傍目には正気を失った異様な姿と映ったに違いない。
「ふぅ、とりあえず、内側はこんなもんかな。外側は何か掃除道具がないと、ちょっと手強いぞ!」
誰に聞かせるわけでもないが大声で言うと、満足気に手をはたいて汚れを落とす。その手は石窯に擦りつけたのであろう、あちらこちらに血が滲んでいた。
その瞬間、予期せぬことが起こった。
石窯の燃焼室から炎が噴き出し、まるで意志を持っているかのように愛里の体を包み込んだ。視界が赤く塗りつぶされる。不快な感覚ではなかったが、意識が遠のいた。浮遊感に包みこまれ、上に向かって落ちていくような理解できない不思議な状況を感じたと思ったら、次の瞬間には勢いよく投げ出されるような感覚に襲われた。愛里は思わず手足を丸めて衝撃に備えて身構えたが、衝撃は一切訪れなかった。気づけば、愛里は石窯の前に立っていた。まるで最初から動いていないかのようだった。
ふと、辺りを見回すと、周囲の風景は様相がまるで違っていた。荒涼とした光景は豊かな彩りを取り戻し、家屋が軒を連ね、人々の賑わいが木霊する。
「Chi sei?」硬く、冷ややかな声がした。
周りの状況を判断する暇もなく、不意に声を掛けられ、愛里の心臓が跳ね上がった。胸を押さえて、一つ息をつき、声のした方に視線を向けると一人の青年が立っている。赤銅色に日焼けした肌。見慣れない粗末な亜麻のシャツ。鋭い眼差しが愛里を射抜き、警戒心を剥き出しにしている。年齢は愛里より少し上だろうか、しかし、その表情には、都会の若者にはない、野性的な生命力とでも言うべきか、生活の厳しさのようなものが刻まれていた。
『イタリア語だよね。「キーセイ」って言ったわよね。「貴女は誰」って意味だよね』
「Ciao! Mi chiamo Kroki Eri」(こんにちは、私の名前は黒木愛里)
「Cosa hai detto?」『「コザイデット」って、(何て言った)だよね。名前が聞き取れなかったのかな?』
「 Kroki Eri」
「Contadina」青年は大仰な身振りで、肩をすくめ言った。『あ!何だコイツ「コンタディーナ」って言ったよね。私が分からないととでも思っているの。(田舎娘)って意味でしょ。馬鹿にして!」
驚愕と恐怖、その他、様々な感情が入り混じり混乱の極みにあった愛里。しかし、その感情が怒りの感情へと振り切れた時、皮肉にも彼女は平静を取り戻した。
『まぁ、『田舎娘』と思うのも当然か。見たことのない風貌に、通じるのが奇跡のような片言のイタリア語。突然、現れて驚かせてしまったのは私だし、迷惑かけちゃったかなぁ……」
「Mi dispiace 」(ごめんなさい) 愛里は両手を膝に揃えて、深々と頭を下げる。
青年は、隙を見せること無く、愛里を見つめていたが、愛里の奇妙とも思える、その姿に呆然とし、少しの間をおいて、真っ白な歯を見せつけるようにして笑い出した。
「Marte !」(マルテ)と、少女たちの声が、明るい笑い声に混じって響いた。
青年は、その声の主の方に顔を向けたが、愛里を振り返り、少し寂しそうな表情を浮かべて、少女たちに向かって走り出した。
ふと、我に返り、愛里は息を呑んだ。
衝撃的な出来事に感情を揺さぶられ、振り回されて、感情の波が引いた後に、最後に残ったのが、あの青年の笑顔。
マルテの笑顔だった。
☆☆☆☆彡
連載小説として書き始めた作品を、途中で頓挫させるのは嫌だと思い、完結まで書き上げました。後は校正するだけ、という段階まで進んでいたのですが、不運にも、ボーイ・ミーツ・ガールの場面まで校正し終えたところで、データが消失してしまいました。
せめてもの想いで、校正が完了していた部分までを公開させていただきます。たとえ、お一人といえど、続きが読みたいと仰って頂ける方がおりましたら、誠心誠意、ご対応いたします。
物語の概要
愛里とマルテの恋の進展、現実世界に戻った愛里の苦悩、そして過去と未来を行き来しながら愛と希望に目覚めていく愛里の姿を描きます。最後には、「魔女の図書館」を再訪する彼女の姿が待っています。
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