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背広を着た5歳
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レースのカーテン越しの外が明るい。7時にセットした目覚まし時計の1分前に目が覚めた。布団をはいでベッドから降りる。
洗面所に移動して台に乗り、手をいっぱいに伸ばしてコップを取り、歯を磨く。
トーストを2枚セットして、待っている時間、新聞に目を通す。暗いニュースに飽き飽きしてスポーツ面に逃げる。焼けたトーストにマーマレードとバターをそれぞれ塗って食べる。
白いワイシャツに手を通す。ネクタイもしっかりと締め、黒い背広を羽織る。
戸締りを確認し、家を出て鍵をかける。
街を歩いていると行き交う人たちが、私に怪訝な目を向ける。放っておいて映画館に向かう。
チケットを買って、時間になったので入場しようとするとスタッフに止められた。「年齢制限」だの「身分証」だのと騒ぐので、チケットを破り捨てて出て行った。
タクシーを捕まえようと手を上げても1台として止まらない。8台目を見送った後、とうとう諦めて駅へ向かった。
発券台に手がとどかないので駅員に頼んだ。「大人346円分」と言ったのにその駅員は「子供173円分」の切符をよこした。
競馬場に着いた。芝の青臭い匂いとダートの砂の匂いが鼻腔を震わせる。
レースが始まった。16頭の馬がまるで生死がかかっているかのように必死で駆け抜ける。蹄で蹴り上げられた芝は宙を舞い、儚く消えた。
着順は3-10-7。予想通りだ。三連単の券を買っていれば。百円が数万円になっていた。しかし、私に購入する権利はなかった。
歩き疲れた。帰ろうと道を歩いていると何かが鳴いている声が聞こえた。それは道路の真ん中で拾い食いをいている猫だった。
「あっ!」
と思ったときには遅かった。大型のトラックが走り抜け、猫は跡形もなく消し飛んだ。
もう少し体が大きく、運動能力も長けていれば、あるいは助けられたかもしれない。私は手を合わせ、帰路を急いだ。
*
無音の部屋の中で目が覚めた。昨夜目覚まし時計をかけ忘れたらしい。時刻はもう午前9時を回っていた。
急いで支度をしなければ。テレビをつけてニュースを聞きながら背広を羽織る。芸能人の結婚話や新型のゲーム機の話などが取り立たされている。今日は平和らしい。
出かける準備をし終え、私にとっては少し大きなトランクを持って家を出る。
流石にタクシー乗り場のタクシーは無視をしなかった。行き先を告げると運転手は少し不思議そうな目をバックミラー越しによこしたが、そのまま発進した。
目的地に着いた。料金は大きなお札で払い、数百円のお釣りだったので断った。
波の穏やかな海だった。砂浜は白く、遠くではトンビだろうか?甲高い泣き声がしていた。鳥は自由で良いなとよく台詞なんかで聞くけれど、本当のところはどうなのだろうか?鳥には鳥の束縛があるような気がするが、人間はそんな想像の中での鳥の自由に嫉妬するほど鎖が多いのかもしれない。
その真っ白と真っ青の世界の一角にイーゼルを立て、キャンパスを乗っける。トランクの中には新品や捻りあげられた絵具がギッチリ入っている。太めの筆を取り、水で湿らせ、パレットの絵具を取ってキャンパスに乗っける。
「もう少し早い時間がよかったな」
目覚ましをかけなかった昨日の自分にそうぼやき、キャンパスをどんどんと埋めてゆく。
「あら、上手ね。ぼくが描いたの?」
子供連れの若い女が私の絵を見て言った。
その子供がキャンパスの端を土のついた手で触り、少し汚れた。
「あら、ごめんなさい。ほら行くわよ」
女はキャンパスを二度パンパンと叩き、去って行った。
汚れは幸い水っぽくなく、優しく布で拭き、上から絵具で塗れば問題ない程度のものだった。
しかし、あの親子は気付いていないだろうが、この絵はおそらく、数百万の値がつく作品なのだ。私ではなく、初老の髭の長い白髪の人が描いていたら、女からの作品の見え方も違っただろう。そうすれば安易に子供を近くに寄らせなかったはずだ。
夕方になる少し前、絵は完成した。海の穏やかな波の奥で、人工的に作られた建物たちが霞んで見える。その建物からは青空を汚す黒い煙が吐き出されている。その中間にいるトンビ、飛ぶ方向はもちろん青空だ。
裏にしっかりとサインを入れる。そして後日、私の身分を隠して、クライアントへ送るのだ。
*
今日も目覚まし時計の1分前に目が覚めた。明日は記念すべき私の生まれた日だ。6年前の明日、生まれたらしい。
私にとって、とても喜ばしい日だ。また一つ自由に近づける日。権利に近づける日。ケーキを買って、チキンを焼いて、大好きなフライドポテトも揚げよう。
今日は朝食も摂らず、いつもの格好に大きなリュック を背負って街へ出た。
穏やかに晴れてゆっくりと流れる時間の中で買い物を楽しんだ。いろんなものに目移りをして、記念日という理由でついつい財布の紐が緩んでしまった。
休憩がてら喫茶店に入った。1人と告げると慣れた目線を向けられたが気にしない。
ホットコーヒーをすすりながら外を眺めている。私と同じ背丈の人の隣には、必ず背丈の高い人がいる。手を繋いだり、おぶられたり。
私はそういったありふれた、普通の幸せを手放した。
彼らがいわゆる常識人で、私の感覚と違ったのだ。ゲーム機を買ったら喜んで、絵本を買えば読んでくれと頼む子供が欲しかったのだろう。しかし、私はゲーム機を買うお金で遠方の景色を見に行き、絵本よりも新聞を自分で読みたかった。求めているものは分かっていても、合わせるのは違うと思った。
どちらが正解でどちらが不正解という話でもない。どちらも自分が信じた正解を突き通した結果だ。
苦く感じるコーヒーを飲み干し、窓に背を向けて店を出た。
*
朝、目覚まし時計の2分前に目が覚めた。起こされたのだ。私のベッドの横には3、4人の警察が並んでいた。
身分を偽って絵を売っていた。
確かに事実だが、それは私の身分のままでは正当な評価が受けられないからだ。私にとっても苦渋の決断。しかし、この世界では一律のルールが正義であり、そこからはみ出したものには容赦なく罰が降りかかる。
私は結局、自由に空を飛ぶことは叶わなかった。どんなものを着ても、生身は5歳の幼児。他人から見える私も、評価も、やはり5歳の幼児だ。
ああ、トンビよ。少しだけ私を空の近くへ運んでくれないか?そして他の人も少しだけ、この世界を俯瞰で見れるくらいの高さまで。そうすれば、気づくことができるだろう。私は地に足をつけて、気づいたのだから。
私はいつも通り、白いワイシャツに手を通し、ネクタイもしっかりと締め、黒い背広を羽織った。
しかし、もう一度ここに戻ってくる頃には、パーカーやジーンズを着た、なんとも子供らしい自分になってしまっているかもしれない。
(完)
洗面所に移動して台に乗り、手をいっぱいに伸ばしてコップを取り、歯を磨く。
トーストを2枚セットして、待っている時間、新聞に目を通す。暗いニュースに飽き飽きしてスポーツ面に逃げる。焼けたトーストにマーマレードとバターをそれぞれ塗って食べる。
白いワイシャツに手を通す。ネクタイもしっかりと締め、黒い背広を羽織る。
戸締りを確認し、家を出て鍵をかける。
街を歩いていると行き交う人たちが、私に怪訝な目を向ける。放っておいて映画館に向かう。
チケットを買って、時間になったので入場しようとするとスタッフに止められた。「年齢制限」だの「身分証」だのと騒ぐので、チケットを破り捨てて出て行った。
タクシーを捕まえようと手を上げても1台として止まらない。8台目を見送った後、とうとう諦めて駅へ向かった。
発券台に手がとどかないので駅員に頼んだ。「大人346円分」と言ったのにその駅員は「子供173円分」の切符をよこした。
競馬場に着いた。芝の青臭い匂いとダートの砂の匂いが鼻腔を震わせる。
レースが始まった。16頭の馬がまるで生死がかかっているかのように必死で駆け抜ける。蹄で蹴り上げられた芝は宙を舞い、儚く消えた。
着順は3-10-7。予想通りだ。三連単の券を買っていれば。百円が数万円になっていた。しかし、私に購入する権利はなかった。
歩き疲れた。帰ろうと道を歩いていると何かが鳴いている声が聞こえた。それは道路の真ん中で拾い食いをいている猫だった。
「あっ!」
と思ったときには遅かった。大型のトラックが走り抜け、猫は跡形もなく消し飛んだ。
もう少し体が大きく、運動能力も長けていれば、あるいは助けられたかもしれない。私は手を合わせ、帰路を急いだ。
*
無音の部屋の中で目が覚めた。昨夜目覚まし時計をかけ忘れたらしい。時刻はもう午前9時を回っていた。
急いで支度をしなければ。テレビをつけてニュースを聞きながら背広を羽織る。芸能人の結婚話や新型のゲーム機の話などが取り立たされている。今日は平和らしい。
出かける準備をし終え、私にとっては少し大きなトランクを持って家を出る。
流石にタクシー乗り場のタクシーは無視をしなかった。行き先を告げると運転手は少し不思議そうな目をバックミラー越しによこしたが、そのまま発進した。
目的地に着いた。料金は大きなお札で払い、数百円のお釣りだったので断った。
波の穏やかな海だった。砂浜は白く、遠くではトンビだろうか?甲高い泣き声がしていた。鳥は自由で良いなとよく台詞なんかで聞くけれど、本当のところはどうなのだろうか?鳥には鳥の束縛があるような気がするが、人間はそんな想像の中での鳥の自由に嫉妬するほど鎖が多いのかもしれない。
その真っ白と真っ青の世界の一角にイーゼルを立て、キャンパスを乗っける。トランクの中には新品や捻りあげられた絵具がギッチリ入っている。太めの筆を取り、水で湿らせ、パレットの絵具を取ってキャンパスに乗っける。
「もう少し早い時間がよかったな」
目覚ましをかけなかった昨日の自分にそうぼやき、キャンパスをどんどんと埋めてゆく。
「あら、上手ね。ぼくが描いたの?」
子供連れの若い女が私の絵を見て言った。
その子供がキャンパスの端を土のついた手で触り、少し汚れた。
「あら、ごめんなさい。ほら行くわよ」
女はキャンパスを二度パンパンと叩き、去って行った。
汚れは幸い水っぽくなく、優しく布で拭き、上から絵具で塗れば問題ない程度のものだった。
しかし、あの親子は気付いていないだろうが、この絵はおそらく、数百万の値がつく作品なのだ。私ではなく、初老の髭の長い白髪の人が描いていたら、女からの作品の見え方も違っただろう。そうすれば安易に子供を近くに寄らせなかったはずだ。
夕方になる少し前、絵は完成した。海の穏やかな波の奥で、人工的に作られた建物たちが霞んで見える。その建物からは青空を汚す黒い煙が吐き出されている。その中間にいるトンビ、飛ぶ方向はもちろん青空だ。
裏にしっかりとサインを入れる。そして後日、私の身分を隠して、クライアントへ送るのだ。
*
今日も目覚まし時計の1分前に目が覚めた。明日は記念すべき私の生まれた日だ。6年前の明日、生まれたらしい。
私にとって、とても喜ばしい日だ。また一つ自由に近づける日。権利に近づける日。ケーキを買って、チキンを焼いて、大好きなフライドポテトも揚げよう。
今日は朝食も摂らず、いつもの格好に大きなリュック を背負って街へ出た。
穏やかに晴れてゆっくりと流れる時間の中で買い物を楽しんだ。いろんなものに目移りをして、記念日という理由でついつい財布の紐が緩んでしまった。
休憩がてら喫茶店に入った。1人と告げると慣れた目線を向けられたが気にしない。
ホットコーヒーをすすりながら外を眺めている。私と同じ背丈の人の隣には、必ず背丈の高い人がいる。手を繋いだり、おぶられたり。
私はそういったありふれた、普通の幸せを手放した。
彼らがいわゆる常識人で、私の感覚と違ったのだ。ゲーム機を買ったら喜んで、絵本を買えば読んでくれと頼む子供が欲しかったのだろう。しかし、私はゲーム機を買うお金で遠方の景色を見に行き、絵本よりも新聞を自分で読みたかった。求めているものは分かっていても、合わせるのは違うと思った。
どちらが正解でどちらが不正解という話でもない。どちらも自分が信じた正解を突き通した結果だ。
苦く感じるコーヒーを飲み干し、窓に背を向けて店を出た。
*
朝、目覚まし時計の2分前に目が覚めた。起こされたのだ。私のベッドの横には3、4人の警察が並んでいた。
身分を偽って絵を売っていた。
確かに事実だが、それは私の身分のままでは正当な評価が受けられないからだ。私にとっても苦渋の決断。しかし、この世界では一律のルールが正義であり、そこからはみ出したものには容赦なく罰が降りかかる。
私は結局、自由に空を飛ぶことは叶わなかった。どんなものを着ても、生身は5歳の幼児。他人から見える私も、評価も、やはり5歳の幼児だ。
ああ、トンビよ。少しだけ私を空の近くへ運んでくれないか?そして他の人も少しだけ、この世界を俯瞰で見れるくらいの高さまで。そうすれば、気づくことができるだろう。私は地に足をつけて、気づいたのだから。
私はいつも通り、白いワイシャツに手を通し、ネクタイもしっかりと締め、黒い背広を羽織った。
しかし、もう一度ここに戻ってくる頃には、パーカーやジーンズを着た、なんとも子供らしい自分になってしまっているかもしれない。
(完)
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