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第四章 終わりゆく村
第18話 広がる呪いと笑顔
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夜の帳が降りる頃には、村の喧噪はすっかり静まり返っていた。
道を渡る影もなく、軒先に吊るされた灯火が揺れるたび、虫の声だけがかすかに響いている。
村長の家の一室、かつて息子夫婦が使っていたという部屋には、簡素な食事と寝具が二組、丁寧に整えられていた。
そしてその隣室に据えられた木桶風呂。
湯気が立ち込める中、俺は肩から湯をかぶる。
ぬるめの湯が肌を流れるたび、疲労がわずかに緩む。
そんな癒しの余韻に浸る暇もなく、俺はゆっくりと視線を落とした。
太ももから始まり、腰、腹、胸元、肩、腕まで。
そこには燃え残る炎のような、黒く禍々しい茨の文様が浮かんでいた。
漆黒の茨は皮膚を這い、深く、濃く、俺の身を侵食している。
数日前、野営地の池で水浴びをしたときよりも、確実に広がっていた。
特に左腕の内側、肘近くまで伸びてきているそれは、前回までは存在していなかったはずだ。
「チッ」
小さく舌打ち。
触れたところで痛みはない。
だが、そこにあるのは明確な死の証。
魔力を使えば使うほど、この痣は広がる。
やがて意識を、心を、そして命さえも喰い潰す。
湯の中で、拳を握りしめる。
水面がさざめき、わずかに湯気が立ちのぼる。
暖かく湿った空気を肺に取り入れ、ふう、と大きく息を吐いた。
それでも、胸の奥に沈む澱のような違和感は晴れなかった。
俺は本来、こんな場所にいるべきじゃない。
森で拾った女の保護者気取りで、誰かのために剣を振るうような、そんな役回りじゃない。
アジトを離れたのも、すべては命令があったからだ。
先日の地殻変動によって入り口が出現した正体不明の洞窟。
お宝が眠っているかもしれない、と探索に出した先遣隊が返ってこない。
そこで信頼できる者に洞窟の調査と、先遣隊の様子見、そして。
ボスのもとへ、献上品を。
それが、俺に与えられた使命。
……だった、はず、なのだが。
この一週間、リュシアと過ごした時間が、頭から離れない。
はしゃぎながら焼き菓子を眺めていた姿。
子どもの手を取って駆け出していった背中。
疲れているはずなのに、「もう少しだけ」と笑う声。
旅の始まりは、ただの荷物だった。
異物であり、厄介な存在。
だが、少しずつ印象が変わっていった。
振り返れば、俺はずっと、彼女の言葉に耳を傾けていた。
彼女の行動に、無意識のうちに心を揺らされていた。
俺の中に、計算とは異なる判断基準が芽生え始めている。
それが、何なのか。
言葉にするのは怖かった。
「……くそ」
唇の奥で小さく呟き、桶を手に取って湯を汲む。
躊躇いなく、頭からそれをぶちまけた。
視界が白く曇る。
だが、湯気の向こうに浮かぶあの少女の姿は、今もなお鮮明だった。
「…………早く、戻らなければ」
呟いた言葉は、熱気と共に虚空へと溶けていった。
------
朝の光が村の屋根を柔らかく染めていた。
木の壁をすり抜けて差し込む陽の気配に、俺は荷袋の紐を固く締める。
そして背後で布団を畳んでいたリュシアに顔を向けた。
「……体調はどうだ」
問いかけに手を止めたリュシアは、わずかに驚いたように目を見開いた。
だがすぐ、ふふっと小さく笑って首を横に振る。
「はい、大丈夫です。もう……昨日までの疲れも、すっかり抜けた気がしますから」
その笑みはいつも通りだったが、声の張りが少しだけ戻っている。
村での短い休息が、確かに彼女の身体を癒してくれたのだろう。
旅を続けられることにホッと安堵し、俺は「行くか」と彼女の準備を促した。
外に出ると、すでに村人たちが通りに集まっていた。
それぞれが手に果物や干し肉、包み布を抱えている。
「これ、ほんの気持ちなんだが……」
「せめて道中の足しにしてくれよ」
「お嬢さん、身体には気をつけてな!」
ひとつ、またひとつと手渡されていく物資。
そのどれもが、この枯れかかった村にとっては貴重なものであるはずだ。
「……ありがとうございますっ」
リュシアは胸の前で手を重ね、丁寧に頭を下げた。
俺はそれを見ながら、そっと口を開く。
「この村の空気がこれほど早く回復しつつあるのは、あの状況下にあって諦めず、踏ん張り続けたお前たち自身の力だ」
「いやいや……そうは言っても、あんたがいなきゃなあ」
「そうそう。それに、旅の途中で寄っただけの村を救うだなんて、そうある話じゃねぇよ」
口々に感謝を告げる村人たちを背に、俺たちは門へと向かって歩き出した。
見送りに並んだ子どもが名残惜しそうに手を振っている。
リュシアもそれに応えるように何度も手を振り返していた。
門を抜け、草の香る野道へ。
しばらく歩いたところで、リュシアがぽつりと尋ねた。
「これからどこに向かうんですか?」
「この道をずっと西へ。やがて砂漠地帯に入る」
「砂漠……」
リュシアが目を丸くする。
当然だ、あの陽に焼かれた大地に足を踏み入れる者は限られている。
「ああ。途中に国がひとつあるが、できれば立ち寄らずに越えるつもりだ。
あそこは栄えていて人が多い。お前に目を付ける者が現れる可能性がある」
大陸の中央部、乾いた大地に広がる広域国家。
交易と水脈を掌握したその国は、数ある砂漠のオアシスを都市として取り込みながら繁栄を続けている。
その一方で、奴隷制度が公然と認められており、特に異国の見目麗しい女と、身体能力に優れた獣人は高値で取引されている。
人間の欲望がむき出しになったような、雑多で喧騒に満ちた国。
立ち入れば、リュシアがトラブルに巻き込まれる――もしくは、自分からトラブルに首をつっこんで行くのは目に見えていた。
リュシアは俺の言葉を聞くと、胸の前でぐっと拳を握った。
「大変な道のりになりそうです……頑張らないと!」
「……無理をするな、苦しい時は早めに言え」
俺は肩をすくめ、空を見上げた。
太陽はすでに、旅立ちに遅れのない高さに登っている。
新しい道が、再び始まる。
俺と彼女、ふたりだけの旅路が。
道を渡る影もなく、軒先に吊るされた灯火が揺れるたび、虫の声だけがかすかに響いている。
村長の家の一室、かつて息子夫婦が使っていたという部屋には、簡素な食事と寝具が二組、丁寧に整えられていた。
そしてその隣室に据えられた木桶風呂。
湯気が立ち込める中、俺は肩から湯をかぶる。
ぬるめの湯が肌を流れるたび、疲労がわずかに緩む。
そんな癒しの余韻に浸る暇もなく、俺はゆっくりと視線を落とした。
太ももから始まり、腰、腹、胸元、肩、腕まで。
そこには燃え残る炎のような、黒く禍々しい茨の文様が浮かんでいた。
漆黒の茨は皮膚を這い、深く、濃く、俺の身を侵食している。
数日前、野営地の池で水浴びをしたときよりも、確実に広がっていた。
特に左腕の内側、肘近くまで伸びてきているそれは、前回までは存在していなかったはずだ。
「チッ」
小さく舌打ち。
触れたところで痛みはない。
だが、そこにあるのは明確な死の証。
魔力を使えば使うほど、この痣は広がる。
やがて意識を、心を、そして命さえも喰い潰す。
湯の中で、拳を握りしめる。
水面がさざめき、わずかに湯気が立ちのぼる。
暖かく湿った空気を肺に取り入れ、ふう、と大きく息を吐いた。
それでも、胸の奥に沈む澱のような違和感は晴れなかった。
俺は本来、こんな場所にいるべきじゃない。
森で拾った女の保護者気取りで、誰かのために剣を振るうような、そんな役回りじゃない。
アジトを離れたのも、すべては命令があったからだ。
先日の地殻変動によって入り口が出現した正体不明の洞窟。
お宝が眠っているかもしれない、と探索に出した先遣隊が返ってこない。
そこで信頼できる者に洞窟の調査と、先遣隊の様子見、そして。
ボスのもとへ、献上品を。
それが、俺に与えられた使命。
……だった、はず、なのだが。
この一週間、リュシアと過ごした時間が、頭から離れない。
はしゃぎながら焼き菓子を眺めていた姿。
子どもの手を取って駆け出していった背中。
疲れているはずなのに、「もう少しだけ」と笑う声。
旅の始まりは、ただの荷物だった。
異物であり、厄介な存在。
だが、少しずつ印象が変わっていった。
振り返れば、俺はずっと、彼女の言葉に耳を傾けていた。
彼女の行動に、無意識のうちに心を揺らされていた。
俺の中に、計算とは異なる判断基準が芽生え始めている。
それが、何なのか。
言葉にするのは怖かった。
「……くそ」
唇の奥で小さく呟き、桶を手に取って湯を汲む。
躊躇いなく、頭からそれをぶちまけた。
視界が白く曇る。
だが、湯気の向こうに浮かぶあの少女の姿は、今もなお鮮明だった。
「…………早く、戻らなければ」
呟いた言葉は、熱気と共に虚空へと溶けていった。
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朝の光が村の屋根を柔らかく染めていた。
木の壁をすり抜けて差し込む陽の気配に、俺は荷袋の紐を固く締める。
そして背後で布団を畳んでいたリュシアに顔を向けた。
「……体調はどうだ」
問いかけに手を止めたリュシアは、わずかに驚いたように目を見開いた。
だがすぐ、ふふっと小さく笑って首を横に振る。
「はい、大丈夫です。もう……昨日までの疲れも、すっかり抜けた気がしますから」
その笑みはいつも通りだったが、声の張りが少しだけ戻っている。
村での短い休息が、確かに彼女の身体を癒してくれたのだろう。
旅を続けられることにホッと安堵し、俺は「行くか」と彼女の準備を促した。
外に出ると、すでに村人たちが通りに集まっていた。
それぞれが手に果物や干し肉、包み布を抱えている。
「これ、ほんの気持ちなんだが……」
「せめて道中の足しにしてくれよ」
「お嬢さん、身体には気をつけてな!」
ひとつ、またひとつと手渡されていく物資。
そのどれもが、この枯れかかった村にとっては貴重なものであるはずだ。
「……ありがとうございますっ」
リュシアは胸の前で手を重ね、丁寧に頭を下げた。
俺はそれを見ながら、そっと口を開く。
「この村の空気がこれほど早く回復しつつあるのは、あの状況下にあって諦めず、踏ん張り続けたお前たち自身の力だ」
「いやいや……そうは言っても、あんたがいなきゃなあ」
「そうそう。それに、旅の途中で寄っただけの村を救うだなんて、そうある話じゃねぇよ」
口々に感謝を告げる村人たちを背に、俺たちは門へと向かって歩き出した。
見送りに並んだ子どもが名残惜しそうに手を振っている。
リュシアもそれに応えるように何度も手を振り返していた。
門を抜け、草の香る野道へ。
しばらく歩いたところで、リュシアがぽつりと尋ねた。
「これからどこに向かうんですか?」
「この道をずっと西へ。やがて砂漠地帯に入る」
「砂漠……」
リュシアが目を丸くする。
当然だ、あの陽に焼かれた大地に足を踏み入れる者は限られている。
「ああ。途中に国がひとつあるが、できれば立ち寄らずに越えるつもりだ。
あそこは栄えていて人が多い。お前に目を付ける者が現れる可能性がある」
大陸の中央部、乾いた大地に広がる広域国家。
交易と水脈を掌握したその国は、数ある砂漠のオアシスを都市として取り込みながら繁栄を続けている。
その一方で、奴隷制度が公然と認められており、特に異国の見目麗しい女と、身体能力に優れた獣人は高値で取引されている。
人間の欲望がむき出しになったような、雑多で喧騒に満ちた国。
立ち入れば、リュシアがトラブルに巻き込まれる――もしくは、自分からトラブルに首をつっこんで行くのは目に見えていた。
リュシアは俺の言葉を聞くと、胸の前でぐっと拳を握った。
「大変な道のりになりそうです……頑張らないと!」
「……無理をするな、苦しい時は早めに言え」
俺は肩をすくめ、空を見上げた。
太陽はすでに、旅立ちに遅れのない高さに登っている。
新しい道が、再び始まる。
俺と彼女、ふたりだけの旅路が。
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