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春だというのに、ベルテ侯爵家の庭の土は乾いていた。
花壇に植えられた球根は芽を出しかけたまま止まっており、去年の秋に使用人が丹精込めて植え付けたチューリップは、今年も咲かないままかもしれなかった。
庭師が首をひねりながら土をほぐしても、土はぱさぱさと指の間からこぼれ落ちるばかりだ。
この国が不作に見舞われるようになって、十数年が経つ。
原因は誰にもわからなかった。
日照りが続くわけでも、洪水が来るわけでもない。
ただ静かに、じわじわと、土地の力が抜けていくように、作物が育たなくなった。
農民たちは精霊への供物を増やし、神殿は祈祷を繰り返し、王家は補助金を出し続けたが、事態は一向に改善しない。
太陽の愛し子たる王子でさえ、自らの力を尽くしても補いきれないと頭を抱えているという噂だった。
貴族たちはそれでも食べていけた。
困るのは、いつも、下の者たちだ。
そしてベルテ侯爵家においては。
困るのは、いつも、一人だった。
地下の物置部屋に、少女がいた。
もともとは使用人が雑多な荷物をしまっておくための部屋で、小さな窓が一つあるだけの薄暗い空間だ。
石造りの壁は冬になると霜が降り、夏になると湿気が充満する。
家具と呼べるものは、古びた木製の寝台と、ぐらつく小さな机だけ。
窓の外には地面しか見えない。
乾いた土と、枯れかけた草の根と、たまに通り過ぎる使用人の靴の裏だけが、この部屋からの眺めだった。
リリアーナ・ベルテは、その寝台の端に腰かけて、膝の上で静かに手を組んでいた。
十六歳。ベルテ侯爵家の次女。
髪は砂のようにぱさついて色を失っており、頬はそげ、手首は細い枝のようだった。
首には古びた革紐がかかっており、先に灰色の小石がついている。
装飾品と呼ぶには地味すぎるそれを、リリアーナは物心ついた頃からずっとつけていた。
背筋だけは、まっすぐに伸びていた。
貴族の娘として、それだけは崩してはいけないと、どこかで思い続けていた。誰も見ていなくても。誰にも関係がなくても。
腹が、鳴った。
小さく、でも確かに、静かな部屋に響いた。
リリアーナは目を伏せた。
昨日の夕食は来なかった。一昨日の昼に届いたのは、皿の端に申し訳程度によそわれた、固くなったパンの切れ端だけだ。
空腹に意識を向けてしまうと、止まらなかった。
胃がきゅうっと縮むような感覚、頭の芯がじわじわとぼんやりしてくる感覚、唾液が出て、でも飲み込むものが何もない感覚。
リリアーナは膝を抱えて、それをやり過ごそうとした。
慣れている、と自分に言い聞かせた。
慣れていた。
でも慣れても、なくなるわけではなかった。空腹はいつも正直だった。
リリアーナの意思とは関係なく、胃は収縮し、頭はぼんやりし、体は正直に、足りていないと訴え続けた。
朝になって、扉が開いた。
使用人のマルタが顔を覗かせた。
マルタはリリアーナより十ほど年上の女で、侯爵夫人に気に入られており、この屋敷での地位が保証されていた。
リリアーナに対してはいつも、面倒くさそうな目をする。
値踏みするでも憐れむでもなく、ただ、処理しなければならない雑務を見るような目だ。
廊下を掃除しろ、薪を割れ、荷物を運べ。それらを言いつける時の目と、まったく同じ目でリリアーナを見る。
「お嬢様、玉ねぎの皮剥きをお願いできますか。料理人の手が足りないもので」
かごが差し出された。山盛りの玉ねぎだった。
本当に料理人の手が足りないのかどうか、リリアーナにはわからなかった。
ただ、断れないことはわかっていた。
以前、一度だけ「今は体調が」と言いかけたことがある。
マルタは特に怒りもせず、ただ「そうですか」と言ってかごを置いて出ていった。その日の夕食は来なかった。
翌日も来なかった。
それ以来、断っていない。
「わかりました」
マルタは特に礼も言わずに扉を閉めた。
廊下をゆく足音が遠ざかりながら、別の使用人に何か言っている声がした。それから笑い声が聞こえて、やがて消えた。
リリアーナは玉ねぎのかごを引き寄せて、しばらく眺めた。
腹が、また鳴った。
今日の朝食は、まだ来ていない。もしかしたら今日も来ないのかもしれない。
そう思っても、どうすることもできなかった。
玉ねぎの皮を剥くと目が痛い。涙が出る。泣いているわけではないのに涙が出るのが、なんとなく嫌だった。
泣いているように見られるのが嫌というより、自分が泣いているのか玉ねぎのせいなのか、区別がつかなくなる気がして。
だから。
部屋の隅に置いてあった桶に水を張って、リリアーナは玉ねぎを全部沈めた。
そのまま天井のシミを眺めながら、しばらく待つ。
ささくれた床の上を、小さなアリが一匹横切っていくのが見えた。どこかへ向かって、まっすぐに歩いていた。
しばらくして玉ねぎを取り出すと、皮がするりとむけた。つるん、と、気持ちよいくらいあっさりと。目も痛くない。涙も出ない。
花壇に植えられた球根は芽を出しかけたまま止まっており、去年の秋に使用人が丹精込めて植え付けたチューリップは、今年も咲かないままかもしれなかった。
庭師が首をひねりながら土をほぐしても、土はぱさぱさと指の間からこぼれ落ちるばかりだ。
この国が不作に見舞われるようになって、十数年が経つ。
原因は誰にもわからなかった。
日照りが続くわけでも、洪水が来るわけでもない。
ただ静かに、じわじわと、土地の力が抜けていくように、作物が育たなくなった。
農民たちは精霊への供物を増やし、神殿は祈祷を繰り返し、王家は補助金を出し続けたが、事態は一向に改善しない。
太陽の愛し子たる王子でさえ、自らの力を尽くしても補いきれないと頭を抱えているという噂だった。
貴族たちはそれでも食べていけた。
困るのは、いつも、下の者たちだ。
そしてベルテ侯爵家においては。
困るのは、いつも、一人だった。
地下の物置部屋に、少女がいた。
もともとは使用人が雑多な荷物をしまっておくための部屋で、小さな窓が一つあるだけの薄暗い空間だ。
石造りの壁は冬になると霜が降り、夏になると湿気が充満する。
家具と呼べるものは、古びた木製の寝台と、ぐらつく小さな机だけ。
窓の外には地面しか見えない。
乾いた土と、枯れかけた草の根と、たまに通り過ぎる使用人の靴の裏だけが、この部屋からの眺めだった。
リリアーナ・ベルテは、その寝台の端に腰かけて、膝の上で静かに手を組んでいた。
十六歳。ベルテ侯爵家の次女。
髪は砂のようにぱさついて色を失っており、頬はそげ、手首は細い枝のようだった。
首には古びた革紐がかかっており、先に灰色の小石がついている。
装飾品と呼ぶには地味すぎるそれを、リリアーナは物心ついた頃からずっとつけていた。
背筋だけは、まっすぐに伸びていた。
貴族の娘として、それだけは崩してはいけないと、どこかで思い続けていた。誰も見ていなくても。誰にも関係がなくても。
腹が、鳴った。
小さく、でも確かに、静かな部屋に響いた。
リリアーナは目を伏せた。
昨日の夕食は来なかった。一昨日の昼に届いたのは、皿の端に申し訳程度によそわれた、固くなったパンの切れ端だけだ。
空腹に意識を向けてしまうと、止まらなかった。
胃がきゅうっと縮むような感覚、頭の芯がじわじわとぼんやりしてくる感覚、唾液が出て、でも飲み込むものが何もない感覚。
リリアーナは膝を抱えて、それをやり過ごそうとした。
慣れている、と自分に言い聞かせた。
慣れていた。
でも慣れても、なくなるわけではなかった。空腹はいつも正直だった。
リリアーナの意思とは関係なく、胃は収縮し、頭はぼんやりし、体は正直に、足りていないと訴え続けた。
朝になって、扉が開いた。
使用人のマルタが顔を覗かせた。
マルタはリリアーナより十ほど年上の女で、侯爵夫人に気に入られており、この屋敷での地位が保証されていた。
リリアーナに対してはいつも、面倒くさそうな目をする。
値踏みするでも憐れむでもなく、ただ、処理しなければならない雑務を見るような目だ。
廊下を掃除しろ、薪を割れ、荷物を運べ。それらを言いつける時の目と、まったく同じ目でリリアーナを見る。
「お嬢様、玉ねぎの皮剥きをお願いできますか。料理人の手が足りないもので」
かごが差し出された。山盛りの玉ねぎだった。
本当に料理人の手が足りないのかどうか、リリアーナにはわからなかった。
ただ、断れないことはわかっていた。
以前、一度だけ「今は体調が」と言いかけたことがある。
マルタは特に怒りもせず、ただ「そうですか」と言ってかごを置いて出ていった。その日の夕食は来なかった。
翌日も来なかった。
それ以来、断っていない。
「わかりました」
マルタは特に礼も言わずに扉を閉めた。
廊下をゆく足音が遠ざかりながら、別の使用人に何か言っている声がした。それから笑い声が聞こえて、やがて消えた。
リリアーナは玉ねぎのかごを引き寄せて、しばらく眺めた。
腹が、また鳴った。
今日の朝食は、まだ来ていない。もしかしたら今日も来ないのかもしれない。
そう思っても、どうすることもできなかった。
玉ねぎの皮を剥くと目が痛い。涙が出る。泣いているわけではないのに涙が出るのが、なんとなく嫌だった。
泣いているように見られるのが嫌というより、自分が泣いているのか玉ねぎのせいなのか、区別がつかなくなる気がして。
だから。
部屋の隅に置いてあった桶に水を張って、リリアーナは玉ねぎを全部沈めた。
そのまま天井のシミを眺めながら、しばらく待つ。
ささくれた床の上を、小さなアリが一匹横切っていくのが見えた。どこかへ向かって、まっすぐに歩いていた。
しばらくして玉ねぎを取り出すと、皮がするりとむけた。つるん、と、気持ちよいくらいあっさりと。目も痛くない。涙も出ない。
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