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27,パーソナル③

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 ぎゅ、とソルセは自らの手を握った。緊張しているのか、その肌は僅かながら冷えているようだった。

(いこう……)

 ソルセは伝統的なペジャ《ベスト》の長い裾を翻しながら、第二ミッションのステージにのぼる。通常のパフォーマンスとは異なる簡易的なステージ。舞台上をまっすぐに見つめるプロデューサー・ジアンと、見学の練習生たちの視線がとても近く感じられる。

「最後はソルセね。……ふふ。自己紹介もそうだったけれど、どうしても最後になってしまうのね、あなたは」
「狙っているわけではないんですけどね。でも、最年長なのでみんなの後ろで構えているのは、意外と得意かもしれません」
「あら、それは心強いわね。さてソルセ、なにを見せてくれるのかしら。その様子からすると……」

 淡い水色の伝統衣装に身を包み、手には扇子を持つソルセにジアンの視線が降り注ぐ。

「はい、パンソリを」
「やっぱりそうなのね。プロフィールにはなかったけれど、経験者なの?」
「……はは、いえ、実は未経験です」

 苦笑するソルセの言葉に、ジアンは長い睫毛を孔雀の羽のように広げて驚いた。
 ――ジュヌとともに訪れた公園で、偶然に遭遇した老夫婦。彼らが興じるパンソリに、ソルセは強く惹かれた。それと同時に、幼い頃から祖母が唄う物語に、憧れを抱いていたことを思い出したのだ。

「祖母がずっとやっていて。いつか、俺もやってみたいなと思ってたんです」
「そうなのね。なんの演目をやるの?」
「それは……内容は、オリジナルで考えてみました。曲はもともとあるものを使わせていただきます。そこに、作詞を」

 ジアンだけでなく、見学者たちも息を呑む気配がする。

「難しいことに挑戦したのね。楽しみだわ」

 ソルセはマイクをスタッフに返すと、ステージの中央に静謐に立った。それを合図とするように、BGMが流れはじめる。録音された太鼓の拍子が響いた。
 音に合わせて体を揺らす。物語を唱うために、ソルセは腹に息を吸い込んだ。


 ――アイドルになりたい。
 小学生のころ、アイドルファンの姉に連れていかれたライブ。ステージの上のアイドルはどんな宝石よりも輝いて見えた。あのステージに立ちたい。……自然とそう思った。

 ――アイドルになりたい。
 親を説得して事務所のオーディションを受けた。そうして合格したのは、まだ業界内でも新しい小さな事務所だった。それでも夢に一歩近づけた事実が、とても嬉しかった。

 ――アイドルになりたい。
 その一心で、懸命に練習した。中学高校ともに在籍はしていたが、友情も青春も捨て、ただひたすらレッスンに打ち込んだ。

 ――アイドルになりたい。
 年月は流れ、複数の事務所を渡り歩いた先で、夢に見た『デビュー』が目前に迫った。しかし……。

「嘘をついていました。嘘をついてまで……俺はアイドルの輝きを手に入れたい、ただの怪物でした」

 ――アイドルになりたい。今度こそ、本当の自分であるイ・ソルセとして!

 開いた扇子をひらめかせ、ソルセは舞う。パンソリをアレンジしたポップダンス。

(兄さん……?)

 まるで蝶のように踊るソルセの華やかさに、誰もが視線を奪われた。当然、ジュヌもその一人だ。そして彼は見逃さなかった――ソルセの頬を、一筋の涙が伝っていくことを。

 やがてBGMは余韻を残してとまり、ソルセはその羽を休めるように、扇子を閉じた。
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