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九,別離
しおりを挟むクラルテを、愛している。
生まれが違うだとか、性別が同じだとか……狡猾とされる人魚であろうが。
クラルテを、愛している。
その感情はマテウスに生きる気力を与え、温かな腕で抱き締められるように穏やかな心地にさせた。
「……母さん」
しかし、母のことを思うと、またもマテウスは悩んだ。
父の行方、そしてクラルテへの愛が、マテウスを板挟みにする。
一度陸へ戻り、母に父のことを伝えてから、海へ戻る――いや、母に対して、そんな泣きっ面に蜂のような仕打ちはできない。
夫と息子を人魚に奪われたなどと知ったら、もはや悲しみに狂ってしまうだろう。
「クラルテを、陸に……いいや、さすがに酷すぎる」
人魚である彼を陸へ連れて行く。そんな非道なことが、できるはずもない。
かといって、このまま残るのも……結局は母を案じる日々になるだろう。
どうにも納得のいく結論が出ない。
全員が幸せになるなど、欲張りで、夢見がちで、自分勝手な望みなのだろうか。
「……クラルテ、今日は遅いな」
ここ数日の同じであれば、もう岸にやってきているはずだ。
マテウスはしばし考えると、昨日与えられた人魚のまじないを思い出した。
額へ受けたキスで、潮は体にしみず、泳ぐ体も軽くなっていた。幾分か息も長くなったようだった。
「見にいってみようか。クラルテ、驚くだろうな」
少し悪戯をするような気分で、マテウスは海水に顔をつける。
やはりまじないは解けていない。これならばクラルテを探せるだろう。
マテウスはわくわくとしながら、恋人を探すため、深く海をもぐった。
両腕を大きな櫂のように、広く掻く。
きらきらと輝く魚たちとすれ違いながら、マテウスはクラルテを探す。
『あ。……クラルテかな』
遠く、クラルテらしき影が見えた。
海水に美しく舞う、透明な長い髪はクラルテのものに違いない。幾度となく口付けを落とした愛おしい髪だ。
『クラル――』
少しずつ近寄りながら、彼は透明人魚を呼ぼうとした。いや、呼びたかった。
けれどマテウスは――恐れに、ぴたりと立ち止まった。
クラルテの毛先が、踊るように浮遊する。ああ、美しい光景だ。
しかしそれは刹那、鋭く伸びて水中の魚を捕らえる。輝く鱗の胴体にぐるぐると巻き付き、魚は瞬きほどで静かになった。
そうして、クラルテの後頭部に――ぱっくりとした裂け目が現れ、口のように開かれる。
捕まえた魚は、呆気なくその中へ放り込まれた。
これが……人魚の食事、なのか。
そういえば、食事を共にしたことは一度もなかった。火を通した魚を戯れにすすめたことはあるが、あまり欲しそうでなかったのは、環境のせいだと思っていたのだが。
『ひっ!』
恐い。クラルテに――人魚に対して、初めて恐怖を覚える。
情けない声がもれて、体が小刻みに震えていくのが分かった。
『マテウス……?』
ゆっくりと振り返るクラルテは、いつものクラルテだった。
穏やかで優し気な表情……透明といえど、マテウスはそんなクラルテに恋をした。
けれどその表情は、一瞬で悲哀に沈んだ。
『もしかして……見ていた?』
『あっ、いや、その……見るつもりは、なくて』
マテウスの動揺が、問いの答えを物語る。クラルテの瞳から、泡のように一粒の涙が零れ、海宙へ浮かんだ。
『……マテウスには、見られたく……なかった。大地の子と違う、……』
それから、互いになにも言葉にできず、背を向けて去るしかなかった。
『マテウス……シャチを呼ぶよ』
あくる日、クラルテは波間から顔を出して、岸に座るマテウスに告げる。
『陸に連れて行ってくれるよう、お願いしたから』
クラルテの声は、存外軽やかだった。しかしそれも、精一杯の繕いだろう。
それが分からないほど、マテウスの愛だって軽いものではない。
「クラルテ……」
クラルテのことは愛している。けれど、恐ろしい。恐ろしいのだ。
目蓋を閉ざせば、あの光景がまざまざと思い出される。踊るように伸びた毛先が魚を捕らえ、そして――。
生きる場所の違いを、今回ばかりは強かに突き付けられた。
しかしこれで恐ろしいという気持ちに飲み込まれ、人魚から距離をとってしまったら……いままでの人間たちとなにも変わらない。
マテウスは顔面を手のひらでがしがしと掻くと、やがてクラルテに向けて笑顔を作った。
「僕が君を愛したことも、君が僕を愛してくれたことも、なにも間違ってはいない」
「……マテウス」
「間違っているのは……棲家が違うから、異なるから、そうやって隔たりをもつ人間だ」
水面に浮く、クラルテの頭に手を伸ばす。一息深く吐いてから、そっと濡れた髪に触れた。
人魚にとっては捕食のための髪だが――マテウスにとっては、いじらしく愛すべき髪だ。
「君の事を、物語にするよ。人々に伝えていく……愛を知る、透明な人魚がいることを」
「うん……ありがとう」
クラルテの微笑みは、いままで見てきたなかでも、とびきりに美しく輝いていた。
シャチの背に乗った青年の姿が、順調に離れていく。
快晴の空の下、愛する人間の幸福を祈った。
「マテウス――」
吐息のような声が響く。クラルテは波間に顔を出したまま、そっと瞼を落とした。
ほろり、と涙がこぼれた。その涙の一粒一粒には、マテウスとの思い出が刻まれている。
「愛しい思い出を、海へ……」
思い出をすべて涙と変えると、ゆっくりと海中へ仰向けに降りていく。
体が沈むのと同時に、人魚の体は爪の先から泡へと変わった。
ゆっくり、ゆっくりとその体は形を失っていく。
『マテウス、愛しているよ』
涙の結晶たちはあぶくに煽られながら、海底の故郷へ降り注ぐだけだった。
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