神様自学

天ノ谷 霙

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3月10日 亜美の気持ち

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亜美は気まずそうに視線を彷徨わせた後で、小さく唇を開いた。震えた吐息が漏れる。言葉が空に溶ける。けれど私はそれを一つも取りこぼさないように耳を傾けた。遠くなる話し声に全神経を集中させて、涙の理由を噛み砕く。
「…あた、し……爽ちゃんが、あの店から出て来るの、見ちゃって…」
途切れ途切れに呟かれる言葉。私はそれらを1音1音拾って、意味として飲み込めるよう脳内で繋げた。話している内容は、こうだ。
ある時から誘ってもここには一緒に来てくれなくなった爽が、店から出て来るのを見つけた。大丈夫になったのかと安堵して話し掛けようとしたが、何処かに急ぐように走り去ってしまった。追いかけようか悩むことも出来ず呆然と立ち尽くしていると、私が出て来た。爽から私との約束があると聞いていた亜美は、そこで初めてこの店に一緒に来た相手が私であることに気付いた。
爽と亜美の思い出の場所であるらしい、この店に。
思い出は掠れるほどに遠くなり、思い出せる会話も場面も切り取られた写真のようにしか蘇らない。忘れそうになる度に、抵抗して足掻いて、爽との思い出を大事に抱え込んで来た。他の誰かとここに来ることは出来なかった。爽との思い出が塗り潰されてしまいそうだったから。それだけ大事な店なのに、爽はどうして。自分とは来てくれないのに、どうして。
混乱と困惑と、嫉妬にも似た感情がぐちゃぐちゃに交差する。
恋ではない。
けれど大切な人を奪われそうになれば、人は嫉妬という感情を抱く。
そこに愛があるからだ。
親愛、友愛、恋愛、何においても愛があれば相手に対して感情は酷く揺さぶられる。
親友がこの店に再び訪れた喜び。
誘われたのが自分ではない悲しみ。
親友との思い出を奪った私への憎しみ。
そんな思いを抱いた自分への苛立ち。
思い出を塗り潰されそうなことへの不安。
もう忘れられてしまったのかもしれない恐怖。
8割がた負の感情がない混ぜになった複雑な心の蠢きは、人が人であるために獲得した、人にも理解出来ない欲しくもないもの。それなのにいつだって心を蝕んで邪魔をして、知らないうちに自分の心を覆い尽くしているもの。そして、それがあるからこそ、他者への想いを確信的に抱けるもの。
爽も言っていた。北原くんをはじめとした好きな人は、いつも亜美のことを好きになると。亜美がそれらの好意を向けられることに苦しんでいるのを知っていながら、嫉妬して嫌いになりそうだったと。
その感情は一方的なものだろうか。
答えは簡単。そんな筈はない。
亜美だって爽に嫉妬するし、嫌いになりそうな時はある。今がまさにそうだ。自分が大事にしてきた2人の思い出に、第3者を踏み込ませたのだから。けれどその感情を抱くこと自体が嫌で、自己嫌悪に陥って、苦しんでいる。
亜美も爽も、同じなのだ。
同じように悩み、苦しみ、そして互いを想いあっているのだ。
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