青いアネモネ

櫟 真威

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私が仕事から帰ると、鷲尾が部屋にいた。

「お帰り」

「ど、どうしたんですか」

鷲尾に渡されたショップの袋をそっと覗くと、パステルカラーの花柄が見えた。
私が返済している借金は、この三ヶ月で半分になっていた。
どう考えても破格だ。
衣食住、すべてお世話になって、月々の返済はきちんとしているものの、「頼まれ事」の出来高払いが大半を占めている。
お金持ちの気まぐれ、とはいえ縁もゆかりもない他人にここまでするだろうか。

「着てみて」

下着が一揃えと小花プリントのジョーゼットのワンピース。
鷲尾は私に背を向けた。
えー、ここで着替えを待つということですか。
ごねても仕方がないのは経験上わかっている。
手早く着替えを始めた。

「……通勤には着てくれないんだな」

「私が買うには高級すぎますもの」

病院には従来通りの着古した衣類で出掛けている。
同僚に変に勘ぐられるのも嫌だったのだ。
鷲尾の選ぶ服は、気恥ずかしいが似合っていると思う。
姿見を見ながらワンピースに袖を通す。
鏡に映った鷲尾がこちらを見ていた。
いつから見ていたのだろう。

「うん。
似合う」

鷲尾が立ち上がり、私を抱き締めた。
相変わらず、異性を意識させない抱擁だ。

「俺がここまで肥え太らせた。
俺のもんだ」

ここにもヘンゼルとグレーテルに出てくる魔女が。
私はそんなに痩せほそっていたでしょうかね。
それに、食べさせてくれたのは津田山では。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

二人で住んでいた町から、あまり離れていない所に夫はいた。
ファミレスに姿を表した夫は、無精髭もなくこざっぱりした格好をしていた。
……肥ってる。

あれ。
私達、二人で暮らしてる時って、もしかして欠食児童みたいだったのかな。
目だけがぎらぎらして、痩せほそってたのかな。

「とおる」

夫はそれきり絶句した。
そうよね、私も肥ってるもんね。
絶句するよね。

借金云々とか、収入がないとか、そういうものとは別に、精神的に余裕がない、というのは大きいのかもしれない。

鷲尾が私の隣に座り、夫に椅子を勧めた。
夫は私を見つめたまま、ゆっくり腰かけた。
鷲尾がコーヒーを三人分頼んでくれた。
鷲尾が封筒から一枚の紙を取り出した。
それを広げ、二人に見えるようにした。

それは離婚届だった。

私は目を見開いた。
鷲尾を見ると、恐ろしいほど落ち着いた表情で夫だけを見つめている。

「……そっか」

先に口を開いたのは夫だ。

「とおる、きれいになったもんな。
知り合ったばかりの頃に戻ったみたいだ。
そいつが、お前の新しい男、ってことだ」

「えっ、違」

何か誤解されている。
私が不貞を働いたと思われたくない。

「まあいいよ。
借金はなくなったし、俺も今は一人じゃないし」

「黙れ」

「来月には父親になるし」

「黙ってこれに記入しろ。
そして帰れ」

鷲尾がドスの利いた声で夫に詰め寄る。
私はというと、固まっていた。
そういえば、鷲尾は頑なに書類を見せてくれなかった。
夫も鷲尾の剣幕に恐れをなしてか、震える手で書き込むと黙って立ち上がった。
私はもう夫を見ることはできなかった。

夫も、私になにも云わなかった。

間の抜けたタイミングでコーヒーが届いた。
鷲尾は砂糖とミルクを、私の好みに淹れてこちらへ寄越す。
機械的に受け取り、口に運ぶ。
熱かった。

怖くて訊けなかった。

私の六年間は、無駄だったのかと。

私の愛情は、無駄だったのかと。

「わかってたの。
私達、ままごとみたいなことしてた。
愛だの恋だの、夢みたいなこと云って」

夫が少しずつ変わっていくことを止められなかった。
見て見ぬふりをして、なんとか繋ぎ止めようとしていた。
でも、夫はとっくに、新しい生活を見つけていた。

私だけが、同じところで足踏みしていたんだ。

「どこで見つけたんだろ、新しい人」

「……これであいつとは他人だから、借金の返済義務はなくなった」

私は鷲尾を見た。
私が何年かけてもできなかったことを三ヶ月でしてしまった、優秀な男を。

「私の名前も書かないとね」

「……真面目だな」

「この保証人?はどうしたらいいかな。
多江さん、書いてくれるかな」

「俺も書いてやる」

「お願いします」

なんだか気が抜けてしまった。
鷲尾はコーヒーを三つとも私に飲ませようとした。
私をまだ肥え太らせようと云うのか。


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