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第七章『愛宕百韻』と光秀謀反の句の謎

3『光秀、本能寺の変までの日々』

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○明智光秀、本能寺の変までのダイジェスト


織田信長から指示を受け、徳川家康の饗応役を解かれた明智光秀は、

五月十七日、本拠地の一つ坂本城に移ったあと――


二六日、居城の丹波亀山城に入った。


二七日、光秀は亀山の北に位置する愛宕山に登って愛宕神社に参拝した。


愛宕神社は山城・丹波国境の愛宕山(標高924m)山頂にある。

古くより信仰を集め、戦国時代は――

本殿には愛宕大権現の本地仏である勝軍地蔵が、

奥の院に愛宕山の天狗の太郎坊が祀られていた。


『信長公記』には、光秀は思うところあってか太郎坊の前で二度、三度とおみくじを引いたとある。

その日は神社に宿泊した。


二八日、光秀は愛宕山西之坊威徳院で連歌の会(愛宕百韻)を催し、当日中に亀山に帰城した。


二九日、織田信長は安土から、当日中に京の本能寺に入る。

ちなみに旧暦六月は、二九日までである。


六月一日(夜) 光秀、本能寺襲撃のため出陣する。


二日(早朝) 本能寺の変



――この明智光秀の『本能寺の変』までの流れを見ていくと、

二八日の連歌師・里村紹巴さとむらじょうはらと行った連歌会が後に――

何故、『愛宕百韻』と特記されるほどに注目されているのがよく解る。

通説では、羽柴秀吉の援軍として中国に出陣前の光秀が、いつ本能寺襲撃を考えたのか?

その光秀の心境を推察できるヒントが、

光秀の詠んだ連歌には表されているとも言われているからです。


そして実はこの連歌会は――

当時においてもかなり注目されており、

なんと羽柴秀吉は光秀を討取った後、連歌会の内容を聞いて怒って、紹巴を呼んで問い詰めたという話が『常山記談』に残されているくらいである。


ちなみにこの連歌師里村紹巴、本能寺の変の重大局面でまた、史実登場しますので、覚えておいてください!


では、秀吉が激怒したという連歌会『愛宕百韻』で――

光秀の詠んだ連歌とはいったい?

そしてその言葉の真意とは……



次回予告

明智光秀はその日、何を感じ何を思ったのであろうか?

そして、その選ばれた、その言葉こそ真実か?……



次回『愛宕百韻』



この日、明智光秀は決意する。



――乞う、ご期待!



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