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第七章『愛宕百韻』と光秀謀反の句の謎

16『九十九韻の謎』

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○『愛宕百韻』……もう一つの謎


実は『愛宕百韻』には、明智光秀の発句以外にも謎があります。

これも、信長による『福音書計画』に関連すると拙者は感じており、現在リアルタイムで調査執筆中です。


まずもう一度、重要となってきますので、

この愛宕山での連歌興行を詳細に記しますと――


【連歌興行『愛宕百韻』の連衆(参加者)と句数】

『』内、連歌興行の立場。


光秀 明智光秀『主賓』15句 

光慶 明智光慶・光秀の長子1句 

行澄 東六郎兵衛行澄・光秀の家臣1句

紹巴 里村紹巴・名門連歌家家元
『宗匠』18句 

昌叱 里村紹巴門下の連歌師16句 

心前 里村紹巴門下の連歌師15句 

行祐 愛宕山西之坊威徳院住職
『主催』11句 

宥源 愛宕山上之坊大善院住職11句 

兼如 猪名代家の連歌師12句 


※参考資料/島津忠夫校注【日本古典集成】33「連歌集」


第一句 ときは今 あめが下しる 五月かな 光秀


第二句 水上まさる 庭のまつ山      行祐


第三句 花落つる 池の流れを せきとめて 紹巴


――愛宕山・西之坊威徳院での連歌興行は、主賓の明智光秀が詠んだ発句から始まり、

主催が務める第二句は会場となった威徳院の住職行祐、

宗匠を務めた連歌名門家家元の里村紹巴の第三句と続き――

この『百韻連歌』は、百句目指して歌が読み上げられていく。

連歌終盤の句を記しますと――


第九五句 縄手の行衛ただちとはしれ    光秀


第九六句 いさむればいさむるままの馬の上 昌叱


第九七句 うちみえつつもつるる伴ひ    行祐


第九八句 色も香も酔をすすむる花の本   心前


このように連歌に参加する「連衆」の者たちは、思い思いの句を読み上げて百句を目指していくのですが――


――ひとつ根本的な謎があります。


何故かこの愛宕百韻は――

当然『百韻連歌』なのですが……

なんと全員の詠んだ句を足しても……なぜか百句ないのです。

そうなんと、全部足しても“九十九”句で終わっているのです!


「……えっ、本当なの?数え間違いじゃない?」

「じゃあ、百韻にこだわらずに……

――“愛宕九十九韻”とでも呼べばいいのでは?」


と感じる読者もいると思いますが、

通常、連歌は五十韻・百韻等の形式があり、当然五十韻連歌は五十句、百韻連歌は百句詠み合う形になっているのです。

拙者は連歌を詳しく知らない身ですが、百韻詠み合おうと集っても参加者の時間の都合等で速く切り上げてしまい、百句にならないという場合はあるのかなと感じます。


……ただ、今回の理由が時間が無かったから百句までいかなかった――

という理由ではないことが――実は解るのです。


何故わかるかというと――

詠まれた連歌は懐紙に記されていくのですか、懐紙への書き方、つまり書式も決まっているからです。


連歌ではこの懐紙を二つ折りにして使用するのですが、百韻連歌では四枚、五十韻連歌では二枚使います。

その一枚を「折おり」と言い、横に二つ折りにして表と裏の面をつくり、一ページ目に当たる「初折しょおり」の表に書き始めとして、興行年月日、場所を記し最初の八句を記します。

そしてその裏に十四句を記します。


そして二ページ目の「二折にのおり」と三ページ目の「三折さんのおり」にはそれぞれ表に十四句、裏に十四句、

最後の四ページ目を「名残折なごりのおり」と言い、この表に十四句、裏に八句を記します。

こうして計百句が懐紙に記されていきます。


――このように連歌の句を懐紙に記すには形式があるのですが、

何故かこの愛宕百韻では、三折の裏には通常十四句であるはずなのに――

……十三句しか記されていないのです!


それで『百韻連歌』の形式なのに、実際には百韻でなく九十九韻となってしまっているのです。


――そう先程、時間が無くて百句に成らなかった訳ではない!

と述べたのは、このことがあるからです。


つまり、時間が足りなくて百句いかないなら、句が足りないのなら――

通常、足りない句が出てくるページは、

最後の四ページ目である名残折であり――

そう足りなくなるとしたら百韻連歌最後のページ名残折の裏の八句が――

例えば、一句足りなく七句となるのでは?と考えるからです。



そう何故、連歌途中の三ページ目の裏が、一句足りないのか?

そう、これにはなにかしら意図があるように見えませんか?


何故なら、まるで……


途中で一句を省いたということは――

まるでもともと百韻ではなくて……

九十九韻で連歌興行を終える予定だったのでは?と推察できるからです。


――この意味が解りますか?

《本能寺の変》の三日前に行われた連歌興行が、

意図的に一句足りなかったとしたら……


そしてそれを“意図した者”が――

必ず存在することになるということです!


そしてそしてその意図した者こそ、

『エヴァンゲリオン計画』の首謀者である、………。




次回予告


名高い『愛宕百韻』連歌興行――

その九十九韻で終わった理由とはいったい?


そしてその最後の一句が、全ての始まりとなる!



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